📝 この記事のポイント
- もしかして、洗濯機の中で異次元への扉でも開いているのか? それとも、うちの末っ子(小学2年生)が隠して、後で「パパ、クイズだよ! 」とか言って、得意げに差し出してくるパターンだろうか。
- いや、それにしては今回のは黒いスポーツソックス。
- 「パパ、靴下どこ? 」と、隣で一緒に干していた小学5年生の長男が、片手で顔を覆って呆れている。
洗濯物を干していたら、靴下の片方がない。
これで今月3枚目である。
一体どこへ消えたんだ、君たちは。
もしかして、洗濯機の中で異次元への扉でも開いているのか?
それとも、うちの末っ子(小学2年生)が隠して、後で「パパ、クイズだよ!
」とか言って、得意げに差し出してくるパターンだろうか。
いや、それにしては今回のは黒いスポーツソックス。
彼が好んで隠すようなデザインではない。
「パパ、靴下どこ?
」と、隣で一緒に干していた小学5年生の長男が、片手で顔を覆って呆れている。
その顔は「またかよ」と雄弁に語っている。
彼はもう、僕のこういうドジに慣れっこだ。
いや、慣れさせすぎたのかもしれない。
彼が将来、僕みたいにならないことを祈るばかりである。
「いや、分からん。
洗濯機の神様が連れて行ったんだろ」と適当にごまかす僕に、妻がベランダのドアから顔を出して「また適当なこと言って。
ちゃんと探してよ」と釘を刺す。
僕は肩をすくめて「はい、マダム」と返事をするが、どうせまた諦めて、残された片割れはタンスの奥で永遠に待ちぼうけを食らうことになるのだろう。
それが僕の日常であり、我が家の平和な風景である。
こんな風に、僕はよくものをなくしたり、うっかりミスをやらかしたりする。
先日も、子どもたちを連れて近所の科学博物館に行ったときのことだ。
妻は友人とランチの約束があったので、僕が子どもたちを連れていくことになった。
科学博物館なんて、最後にいつ行ったか思い出せないくらい久しぶりだ。
子どもの頃、夏休みの宿題で渋々行ったような記憶がおぼろげにある。
「パパ、恐竜の骨、本物かな?
」と長男が興奮気味に尋ねる。
「さあな、どうだろうな。
でも、すごく大きいな」と僕も素直に感心する。
巨大なティラノサウルスの骨格標本を前に、僕も子どもたちも「うわー!
」と声を上げた。
本物かどうかはさておき、その迫力は尋常じゃない。
末っ子はそれよりも、入り口近くにあった触れる展示に夢中だ。
風力発電の仕組みを体験できるコーナーで、ハンドルをひたすら回して小さな扇風機を動かしている。
「見て!
パパ!
風が出た!
」と満面の笑みで叫ぶ。
隣では、同じくらいの歳の子どもが夢中でハンドルを回していて、さながら発電競争だ。
しかし、展示を見進めるうちに、僕の知識不足が露呈し始める。
「パパ、これは何でできてたの?
」
「この惑星は、どうしてこんな色なの?
」
「ブラックホールって、本当に吸い込まれちゃうの?
」
子どもたちの質問攻めに、僕はタジタジだ。
「えーっと、これはね、昔の人がね、一生懸命作ったんだよ」「うーん、それはね、光の具合でね」「ブラックホールはね、えーっと、宇宙の、すごく深いところにね…」と、しどろもどろの回答しかできない。
途中からは「それはね、帰ってから図鑑で調べよう!
」という、僕の親としての最終兵器が多用された。
しまいには、長男が「パパ、そればっかりじゃん」と冷ややかな目を向けてくる始末。
いや、僕だって知りたいさ!
でも、僕も子どもの頃、科学の授業は苦手だったんだよ!
太陽系の惑星の名前を覚えるのも一苦労だったし、てこや滑車の原理なんて、完全に頭を素通りしていった記憶しかない。
だから、正直なところ、展示のキャプションを読んでも、書いてある専門用語が頭に入ってこない。
原子記号とか、素粒子とか、超伝導とか、もうね、全然ピンとこないんだよね。
まるで外国語を読んでいるみたいだ。
もちろん、展示物は素晴らしいし、説明も丁寧なんだろうけど、いかんせん僕の脳みそが「既知の情報」として処理してくれない。
そんな僕の隣で、子どもたちはそれぞれの方法で博物館を楽しんでいた。
長男は熱心に解説パネルを読み、ノートにメモを取ったりしている。
小学5年生にしては熱心だな、と感心する。
将来、科学者になるのだろうか。
一方、末っ子は、触れる展示があれば真っ先に駆け寄り、ボタンがあればとりあえず押し、回せるものがあれば回しまくる。
そして、意味も分からず「すごいね!
」「これ面白いね!
」と目をキラキラさせている。
僕も、そんな末っ子と同じような感覚で展示を見ていた。
「これ、なんかすごい形してるな」「この機械、どうやって動くんだろう、複雑だなあ」「うわ、これデカい!
」「なんか光ってる!
」……そんな、非常にざっくりとした感想ばかり。
知識はほとんど増えなかったかもしれないが、心の中には「なんかすごかった」という漠然とした感動だけが残った。
ふと、僕は思ったのだ。
これで、いいんじゃないか、と。
博物館の楽しみ方って、別に知識を詰め込むことだけじゃない。
もちろん、専門的な知識を深めることは素晴らしい。
でも、僕みたいに「なんかすごかった」で終わっても、それはそれで立派な体験じゃないか。
例えば、美術展でもそうだ。
絵画の歴史とか、技法とか、作者の意図とか、そういうのを深く理解できたら、もっと感動できるのかもしれない。
でも、僕は「この絵、色合いが好きだなあ」とか、「この彫刻、なんか面白い顔してるな」とか、そんな理由だけで十分満足してしまう。
解説を読んでも、専門用語が多すぎて、結局「作者は苦悩しながらこの作品を作ったらしい」という、当たり障りのない情報しか頭に残らないこともしばしばだ。
でも、それでもいいと思うのだ。
その絵を見て、その彫刻を見て、心が動いたなら、それで十分。
知識がなくても、感覚的に「いいな」と思えれば、それはもうその人にとっての「美術鑑賞」として成立している。
むしろ、知識がないからこそ、先入観なく純粋に「なんかすごい!
」と感じられることもあるんじゃないか。
「これはこういう歴史的背景があって、こういう意味が込められている」と先に知ってしまうと、その情報に縛られて、自分の素直な感動を逃してしまうこともあるかもしれない。
もちろん、知ってから感じる感動はより深いものだろうけど、何も知らずにただただ圧倒される、あの感覚も捨てがたい。
以前、家族旅行で沖縄に行ったときのことだ。
美ら海水族館に行ったのだが、そこでも僕は「なんかすごかった」を連発した。
巨大なジンベエザメが悠々と泳ぐ姿を前に、僕はただただ呆然と立ち尽くしていた。
「うわあ、デカいなあ」「迫力あるなあ」「なんか、いいなあ」……語彙力は相変わらず壊滅的だったが、あの感動は今でも鮮明に覚えている。
長男は「ジンベエザメの口って、こんなに大きいんだね」とか、「エイの種類ってこんなにいるんだ」とか、真面目に解説を読んで知識を吸収していた。
一方、末っ子は水槽の前で「お魚さん、バイバイ!
」と手を振ったり、魚の群れに合わせて体を揺らしたりと、感性の赴くままに楽しんでいた。
僕もまた、末っ子に近かった。
「なんか、いいなあ」という感覚。
それはきっと、僕が知識を深めることを諦めた、いや、諦めざるを得なかった、大人になってしまったからこその楽しみ方なのかもしれない。
だから、僕は声を大にして言いたい。
「気になったら、どんどん行こう!
」と。
「いや、俺、歴史とか詳しくないし…」とか、「美術のセンスないし…」とか、「科学なんてさっぱり…」とか、そんな心配は一切いらない。
行ってみて「なんかすごかった」で終わっても、それはそれで大成功なのだ。
もしかしたら、その「なんかすごかった」という漠然とした感動が、後から知識を深めるきっかけになるかもしれない。
あるいは、ただただ美しいものを見て、心が満たされるだけでもいい。
僕が小学生の子どもたちを連れて、色々な場所に行くのも、そんな思いがあるからだ。
最初は「行きたくない」とか「つまんなそう」とか言っていたくせに、いざ行ってみると、予想外の発見があったり、子どもたちが目を輝かせたりする瞬間を見るのが、僕にとっては最高の喜びだ。
先日、また新しい靴下を買った。
今度こそ、なくさないように気をつけようと思う。
洗濯機に入れる前に必ずペアで縛っておくとか、乾燥機にかける前にチェックするとか、いろいろ対策は考えた。
「パパ、また靴下なくしたの?
」
「うん…まあ、これも人生の小さな学びだよ」
「それ、この前も言ってた」
長男の冷静なツッコミに、僕は苦笑いを浮かべる。
きっと、またしばらくしたら、僕は靴下の片方をなくして、「まあ、これもなくした場所の神秘だよな」とか、また適当なことを言ってごまかすのだろう。
そして、懲りずに新しい靴下を買い、またどこかに出かける計画を立てる。
それでいいのだ。
失敗を笑い飛ばして、また次へ。
それが僕の日常であり、博物館を楽しむ僕のスタイルと、どこか似ている気がする。
とりあえず、今度は家族みんなで、近所の郷土資料館にでも行ってみようかな。
「なんかすごかった」と言いながら、きっと僕も子どもたちも、それぞれの感性で何かを感じるに違いない。
そして、また靴下をなくすだろう。
それが僕だ。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

