📝 この記事のポイント
- 郵便受けに入っていたチラシの量が尋常じゃなくて、ゴミ袋が必要になった。
- 朝刊のチラシと、フリーペーパー数種類、それに不動産のオープンハウスの案内がやたらと多い。
- 全部まとめて、広告お断りのマグネットが虚しい玄関に、どさっと音を立てて落ちていた。
郵便受けに入っていたチラシの量が尋常じゃなくて、ゴミ袋が必要になった。
朝刊のチラシと、フリーペーパー数種類、それに不動産のオープンハウスの案内がやたらと多い。
全部まとめて、広告お断りのマグネットが虚しい玄関に、どさっと音を立てて落ちていた。
これ、毎日誰かが一生懸命配ってるんだよな、と思うと、即座に資源ゴミに直行させるのも忍びない気がして、結局リビングの隅に積んでしまう。
そのうち、読むこともなく、ただの紙の山になっていくのが、いつものパターンだ。
そういう「そのうち」が、私の生活にはそこかしこに転がっている。
たとえば、朝、顔を洗うたびに思うのだ。
「ああ、今日こそは洗面台をピカピカに磨こう」と。
しかし、いざ手を伸ばそうとすると、泡立てネットが濡れたままぶら下がっていたり、コンタクトレンズの空きケースが転がっていたりして、その小さな障害が、私のやる気をあっという間に削いでしまう。
結局、週末にまとめてやればいいかと、また「そのうち」の箱に放り込んでしまうのだ。
そんな「そのうち」の積み重ねが、先日、まさか警察沙汰になるとは夢にも思わなかった。
パートの帰り道、スーパーの裏口から出たところで、突然パトカーが横付けされたのだ。
窓が下がり、若いお巡りさんが真剣な顔で私を見ていた。
「あの、ちょっとよろしいでしょうか」と、まるで職務質問のようだった。
私、何かしたかしら。
青信号を渡ったし、横断歩道も守ったはず。
自転車のライトは点けてたかな、と頭の中で必死に今日の行動を巻き戻す。
すると、お巡りさんの視線が、私の腕に抱えられた物体に向けられた。
それは、バイト先の鮮魚コーナーで、廃棄処分になる寸前だった鯖だった。
店長が「捨てるのももったいないから、よかったら持って帰って」と、アルミホイルでぐるぐる巻きにしてくれたものだ。
夕食の献立に困っていた私は、ありがたく頂戴して、そのまま自転車のカゴに入れず、なぜか腕に抱えて家路を急いでいた。
ちょうど買い物帰りのおばあちゃんが、キャベツを抱きしめるように。
いや、抱きしめていたわけではない。
ただ、単に、袋に入れるのが面倒だったのだ。
自転車を漕ぎ出す前に、カゴに放り込めば良かっただけなのに、なぜか私は腕に抱えたまま、颯爽と(自分ではそう思っていた)走り出していたのだ。
お巡りさんは、私の腕の中の鯖を見て、さらに警戒を強めた。
「あの、そのお持ちのものは……」私が「これ、鯖です」と言うと、さらに険しい顔になった。
「まさか、素手で鯖を持ち歩くわけないでしょう!
」と、まるで私がテロリストか何かであるかのように。
いやいや、アルミホイルで巻いてあるし、素手とはちょっと違うでしょう、と心の中でツッコミを入れたものの、どうやら私は、通報されてしまったらしい。
おそらく、通りすがりの人が、得体の知れない銀色の塊を抱きかかえて自転車を漕ぐ私を見て、「あの人、何か怪しいものを運んでいる!
」とでも思ったのだろう。
結局、身分証明書を見せて、バイト先にも確認が入り、事なきを得た。
お巡りさんは「今度からは、ちゃんと袋に入れてくださいね」と、半ば呆れた顔で私に言った。
私は「はい、気をつけます」と、心底反省したような顔をして答えたが、内心では、そこまで大袈裟なことかと、少しばかり不満だった。
いや、もちろん通報されるような行動は慎むべきだ。
でも、鯖だよ、鯖。
新鮮な鯖を抱えて歩くのが、そんなに異常なことだろうか。
これがもし、焼きたてのパンなら、きっと誰も通報しないだろうに。
鯖とパンの間に、そこまで大きな社会的な隔たりがあるとは、この日まで知らなかった。
昔の私だったら、こんなことではいちいち動じなかったかもしれない。
二十代の頃、大学を卒業してすぐの頃、私はもっと自由奔放だった。
深夜、友達と飲み歩いて、そのまま始発で帰らず、公園のベンチで朝まで語り明かしたり、急に思い立って電車に飛び乗り、見知らぬ温泉地へ向かったり。
あの頃は、今日という日を精一杯生きることに夢中で、未来のことや、世間の目なんて、ほとんど気にしていなかった。
アルミホイルに巻いた鯖を抱えて歩くことなんて、むしろ「面白いことしてるね!
」と笑い飛ばしてくれたに違いない。
計画性なんてものは皆無で、冷蔵庫にはいつもからっぽだったけれど、なぜか毎日楽しく暮らしていた気がする。
それが、いつからだろう。
子育てが始まり、パートに出るようになって、私はだんだんと「ちゃんと」しようとするようになった。
夕食の献立は前日のうちに考え、ゴミ出しは曜日を守り、電気代の請求書は期限内に支払い、洗面台は毎日拭く。
もちろん、それは大人として、母親として、当然のことだ。
しかし、その「ちゃんと」の基準が、いつの間にか私自身を縛り付けているような気がする。
たとえば、私は以前、毎朝ヨガをしようと決意したことがあった。
朝5時に起きて、YouTubeの動画を見ながら、静かに体を伸ばす。
数日は続いた。
しかし、ある日、子どもが夜中に熱を出して寝不足になった。
次の日は、雨で気分が乗らなかった。
また次の日は、洗濯機を回しながらヨガをするのが面倒になった。
そうして、私のヨガマットは、リビングの隅で、いつの間にか「そのうち」の仲間入りを果たしてしまったのだ。
あれから数ヶ月、ヨガマットは物干し竿の代わりになっている。
今の私は、昔の私に比べて、明らかに怠惰になった。
いや、正確には、「怠惰になった」というよりは、「怠惰でいることを許せるようになった」のかもしれない。
昔は、ちょっとでもサボると、自分を責めていた。
完璧でなければならない、と自分にプレッシャーをかけていた。
でも、今の私は、洗面台の汚れも、ヨガマットが物干し竿になっていることも、まあ、いっかと受け流せるようになった。
その代わり、やらなければいけないことの優先順位付けは、昔よりもはるかに苦手になった。
それでも、変わらないこともある。
それは、日常の小さな出来事の中に、ふと面白さを見つける目線だ。
警察に職務質問された時も、最初は焦ったけれど、後からじわじわと笑いがこみ上げてきた。
まさか、鯖を抱えて歩いて通報されるとは。
きっと、あの警官たちも、こんな案件は初めてだったに違いない。
あの日のパトカーの中でのやり取りを思い出すと、今でもクスッと笑ってしまう。
そういえば、あの鯖は、無事に我が家の食卓に並んだ。
塩焼きにしたそれは、脂が乗っていて、とても美味しかった。
高校生の息子は「おかあさん、これどこで買ってきたの?
すごい美味しい!
」と目を輝かせていた。
私は「えー、それはね、ちょっとした冒険があってね…」と、どこか自慢げに話して聞かせた。
息子は「ふーん」と気のない返事をしたが、それでも、この小さな出来事が、私の中では、ちょっとした物語になったのだ。
郵便受けのチラシの山も、洗面台の汚れも、ヨガマットが物干し竿になっていることも、きっとこれからも変わらないだろう。
それでも、私は、この「そのうち」に囲まれた生活の中で、たまに起こる予期せぬ出来事や、ちょっとした可笑しさを、これからも拾い集めていきたい。
そして、そのひとつひとつを、誰かに話したくなるような、そんなささやかな物語に変えていけたら、それでいいのだ。
それが、今の私にとっての、ささやかな喜びだから。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

