給与明細とカニカマと、リセットボタンの話

essay_1775753621429

📝 この記事のポイント

  • カラオケで十八番を歌ったら、キーが合わなくて途中でリセットした。
  • 声の調子が悪かったのか、それとも単に練習不足だったのか。
  • モニターに表示された「90点」の文字が、やけに白々しく見えた。

カラオケで十八番を歌ったら、キーが合わなくて途中でリセットした。

声の調子が悪かったのか、それとも単に練習不足だったのか。

モニターに表示された「90点」の文字が、やけに白々しく見えた。

隣で熱唱するシェアハウスの住人、ケンタロウは、喉がちぎれんばかりに「天城越え」を歌い上げている。

彼の高音にはいつもながら感心する。

僕の十八番は、もう少し落ち着いた曲なんだけど、なぜか今日はサビで声が裏返った。

いや、裏返る手前で、意図的にリセットボタンを押した。

これ以上恥を重ねるくらいなら、一度仕切り直した方がいい。

人生、ときどきリセットボタンが欲しくなる瞬間って、あるよね。

僕の会社にも、先日、そんな「リセットボタン」を押したくなるような出来事があった。

いや、押したかったのは僕ではなくて、おそらく人事部の面々だろう。

ことの発端は、僕が新入社員の山本くんに、僕自身の給与明細を見せたことだった。

正確に言うと、見せたというより、「ちょっと見てごらん」と、彼が持っていた缶コーヒーの空き缶を捨てるついでに、デスクに置いてあった僕の給与明細に目が止まるように仕向けた、という方が正しいかもしれない。

山本くんは、大学を卒業したばかりの、まだ社会の色に染まりきっていない、真っ白なキャンバスのような青年だ。

いや、キャンバスというよりは、まだ袋から出したばかりの食パンの方が近いかもしれない。

ふわふわで、少し頼りなくて、どんな具材を挟んでも美味しくなりそうな、そんな雰囲気を持っている。

彼は新卒で入ってきたばかりで、この会社が初めての社会経験だ。

初めての給与が振り込まれ、彼の手元にも給与明細が届いた頃合いだった。

彼が「先輩、これ、僕の給与明細なんですけど、なんか思ったより引かれてる気がして……」と、目を白黒させていたので、「ああ、それはね」と、僕は特に深く考えずに、自分の給与明細をそっと差し出した。

「ほら、俺もこんなもんだよ。

年次が上がると、ちょっとは増えるけど、税金とか保険とか、ごっそり引かれるのはみんな一緒だから」と。

まるで、子供に「ほら、お兄ちゃんもこんなに小さかったんだぞ」と昔の写真を見せるような、そんな軽いノリだった。

山本くんは、僕の給与明細を食い入るように見ていた。

彼の目には、僕の給与額が、まるで宝の地図に記された財宝の数字のように映ったのだろうか。

その顔つきは、まるで初めて見るエキゾチックなフルーツを前にした幼子のようで、好奇心と少しの戸惑いが入り混じっていた。

彼は口を半開きにして、何度か数字を指でなぞっていた。

「え、先輩、これ……僕のより、結構、少ないですね……」と、蚊の鳴くような声で呟いた。

え?

と僕は耳を疑った。

僕のより少ない?

いやいや、僕は彼より何年か先輩なんだから、僕の方が少しは多いはずだろう。

彼は僕の給与額をじっと見つめ、そして自分の給与明細と見比べて、また僕の方を見た。

その顔には、困惑と、そして少しばかりの失望のようなものが浮かんでいた。

その瞬間、僕の脳裏には、数年前の失敗がフラッシュバックした。

シェアハウスの当番制の料理で、僕が作った「トマトとモッツァレラチーズのパスタ」と、ケンタロウが作った「とろけるチーズとベーコンの濃厚カルボナーラ」を、みんなが公平に評価した時のことだ。

僕のはあっさりしすぎて、ケンタロウのはカロリー爆弾と絶賛された。

いや、あれは僕のパスタにモッツァレラチーズを入れ忘れたのが致命的だったんだ。

トマトとバジルだけじゃ、そりゃ素っ気ない。

あの時のガッカリしたみんなの顔が、山本くんの顔に重なった。

「え、ちょっと待って、山本くん、何言ってんの?

」僕は慌てて彼の給与明細を覗き込んだ。

そこには、確かに僕の額面よりも高い数字が記されているではないか。

いや、基本給は僕の方が少し高い。

しかし、彼には、彼の部署特有の「専門職手当」のようなものが、手厚く加算されていたのだ。

しかも、入社したばかりの彼の住民税はまだ引かれていない。

社会人二年目以降から適用される住民税の存在を、僕はすっかり忘れていた。

彼のキラキラした瞳は、僕の給与明細と自分のものを行ったり来たりし、「先輩……もしかして、僕、結構恵まれてる……?

」と、まるで自分のお小遣いが実は破格だったと知った子供のような顔で、僕に尋ねた。

その時、背後から冷たい視線を感じた。

振り返ると、人事部の部長が、まるで獲物を狙うハヤブサのような目で僕らを見ていた。

部長は、無言で僕のデスクの給与明細を指さし、その指はゆっくりと、自分のオフィスの方角を指した。

まるで、「お前、ちょっと来い」と、口を開かずに命令する無言の圧力。

僕は、まるで給食をこっそりつまみ食いしているところを見つかった小学生のように、シュンと縮こまった。

山本くんは、状況を理解できないまま、僕と部長の顔を交互に見て、きょとんとしている。

部長室では、部長が僕に、雇用契約書に「給与に関する情報は他者に公開してはならない」という旨の条項があることを、それはもう丁寧に、そして何度も何度も繰り返して説明してくれた。

部長の声は低く、しかし感情を込めずに、まるで法典を読み上げるかのように響いた。

僕の心臓は、まるでホットプレートで焦げ付いたギョーザのように、チリチリと音を立てていた。

その時、僕は思ったのだ。

これ、リセットボタン、押したい。

いや、なんならタイムマシンに乗って、給与明細を出す前の自分をぶん殴りたい。

でも、その日の夜、山本くんが僕のシェアハウスにやってきた。

手には、コンビニで買ってきたという「金のマルゲリータ」と、見たことのない高級そうな輸入ビールを持っていた。

「先輩、今日はご馳走させてください!

僕、ちょっと給料いいみたいなので!

」と、満面の笑みで言った。

彼の笑顔は、あの日の僕のパスタにモッツァレラチーズを乗せた時よりも、いや、それ以上に輝いていた。

僕が「いや、でも部長に怒られたからな」と苦笑いすると、「でも、先輩のおかげで、僕、この会社で頑張ろうって思えました!

正直、最初は不安で……。

でも、先輩の給与明細見て、なんか、安心したというか……」と、彼は少し照れくさそうに言った。

安心?

僕の、山本くんより少ない給与明細を見て?

彼は続けた。

「先輩が、僕より少ないのに、すごく楽しそうに仕事してるの、いつも見てるんで。

だから、僕も頑張れば、先輩みたいに楽しく働けるのかなって。

それに、僕、先輩みたいに料理も上手になりたいです!

この間、シェアハウスの冷蔵庫にあった、カニカマと卵でチャーハン作ってくれたじゃないですか。

あれ、すごく美味しかったんです!

」と。

僕は、またもや耳を疑った。

カニカマと卵のチャーハン?

あれは、僕が料理当番の日で、冷蔵庫にろくな食材がなくて、仕方なくあり合わせで作った、ある意味「失敗作」だったはずだ。

いや、失敗作というよりは、最低限のラインをクリアした「可もなく不可もない一品」だ。

まさか、あれが評価されていたとは。

その時、僕は、給与明細を見せたのは、もしかしたら悪いことばかりではなかったのかもしれない、と少しだけ思った。

いや、部長に怒られたのは事実だし、二度と繰り返すまいと心に誓ったけれど。

でも、山本くんのあのキラキラした目を見ていたら、僕の失敗は、彼にとっては何か「気づき」を与えたのかもしれない、と思わずにはいられなかった。

結局、僕たちは「金のマルゲリータ」と、僕が冷凍庫から発掘してきた「半額で買ったイカの唐揚げ」をつまみに、輸入ビールを飲んだ。

僕は、山本くんが持ってきた高級そうな輸入ビールを飲みながら、自分の給与明細が、結果的に山本くんのモチベーションアップに繋がったのだとしたら、それはそれで良い先輩と言えるのではないか、と、都合の良い解釈を自分に言い聞かせた。

まるで、あの日のカラオケで、キーが合わなかった十八番を、途中でリセットして、気分を仕切り直した時のように。

人は、誰かの失敗から何かを学ぶこともあるし、誰かのちょっとしたドジが、意外な形で誰かの背中を押すこともある。

給与明細を見せるなんて、会社では絶対にご法度なことだったけれど、僕がもし、あの時、自分の給与明細を山本くんの目に触れるように仕向けなかったら、彼は今頃、自分の給与額にただ漠然とした不安を抱えたままだったかもしれない。

そう考えると、僕の、あの「リセットボタンを押したくなるような出来事」も、まあ、悪くはなかったのかもしれない。

いや、良くはないんだけど。

でも、結果オーライ、ってことで。

みんなも、そう思うよね?

きっと、人生には、そんな「ちょっとした失敗」が、意外な形で良い方向に向かうことって、あるんだよね。

まるで、冷蔵庫の残り物で、意外と美味しい一品が生まれるみたいに。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

目次

📚 あわせて読みたい

 AIピック AI知恵袋ちゃん
AI知恵袋ちゃん
知的好奇心がくすぐられちゃう〜
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次