神様は八百万、でも延滞金はたったの百五十円

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📝 この記事のポイント

  • 図書館で借りた本の返却期限が過ぎていて、延滞金を払う羽目になった。
  • この百五十円があれば、スーパーで特売のモヤシが2袋買えるし、なんなら猫のおやつだってちょっと良いやつが買えちゃう。
  • あ、いや、モヤシは最近特売でも高いから、もしかしたら1袋と半分くらいかもしれない。

図書館で借りた本の返却期限が過ぎていて、延滞金を払う羽目になった。

百五十円。

たかが百五十円、されど百五十円。

この百五十円があれば、スーパーで特売のモヤシが2袋買えるし、なんなら猫のおやつだってちょっと良いやつが買えちゃう。

あ、いや、モヤシは最近特売でも高いから、もしかしたら1袋と半分くらいかもしれない。

まあ、とにかく、たかが百五十円でも、なんだか損した気分になるのが悔しいのだ。

原因はわかっている。

週末に返そうと思っていたのに、気づいたら猫の毛だらけの毛布にくるまって昼寝をしてしまい、あっという間に月曜日が来てしまったからだ。

しかも、うちの猫たちは本当にやんちゃで、私が本を読んでいると、必ずと言っていいほど膝の上に乗ってくる。

そして、本と私の顔の間に割り込んできて、まるで「私を見ろ、私を撫でろ」と言わんばかりにゴロゴロ言い出すのだ。

そのたびに読書は中断。

気が散ってしまって、あっという間に時間だけが過ぎていく。

もう、可愛いから許すけどね。

うちの猫、マロンとモカは、私が何か集中していると、なぜかその集中を阻害するのが仕事だと思っている節がある。

そんなわけで、百五十円を払い、借りていた『世界の宗教入門』みたいなタイトルの本を返却カウンターに差し出した。

別に宗教にめちゃくちゃ興味があるわけじゃないんだけど、たまに教養として、ね?

と思って借りてみたのだ。

読み始めたら意外と面白くて、特に日本の神道の部分で「八百万の神」という記述が目に留まった。

八百万。

つまり数え切れないほどの神様がいる、と。

へえ、すごいな、と感心した直後、ふと、数日前にたまたま見かけた、とある投稿を思い出した。

それは、外国の方が日本の神道の神様の数について疑問を呈しているもので、「神道では神様が何百万もいると聞いたが、どうやってどの神様に祈ればいいのかわかるの?

」という内容だった。

その投稿には、たくさんのリプライがついていて、それぞれの人が自分なりの解釈を述べていた。

それを見て、私は「なるほど、そういう考え方もあるのか」と、妙に感心したのを覚えている。

そういえば、私もこれまで、特定の神様に「お願いします!

」と強く願ったことって、あまりないかもしれない。

神社に行けばお賽銭を入れて二礼二拍手一礼をするけれど、具体的な神様の名前を呼んでお願いをするわけじゃない。

せいぜい「どうか、この猫たちが元気で長生きしますように」とか、「来月の原稿、無事に間に合いますように」とか、漠然としたお願いをするくらいだ。

それが普通だと思っていたけれど、改めて考えてみれば、確かに不思議なことなのかもしれない。

その投稿のリプライ欄には、興味深い解釈がいくつもあった。

「日本の神様は、みんな繋がっていて、全体で一つの大きな力になっているイメージ」とか、「困っていることの種類によって、お願いする神様が変わる。

例えば、学業なら天神様、縁結びなら出雲大社、みたいな」とか。

中には、「日本の神様は、道端の石ころにも宿るから、別に誰でもいいんじゃない?

」みたいな、ちょっとフランクすぎる意見もあったけれど、それもまた日本らしいというか、なんだか納得してしまう自分がいた。

そうか、私たちは普段、そこまで深く考えずに「神様」という漠然とした存在に手を合わせているけれど、それは決して無頓着なのではなく、無意識のうちに「すべては繋がっている」という感覚を持っているからなのかもしれない。

特定の神様を「推す」というよりは、全体を包括する「八百万の神」という概念そのものを信じているというか。

なんだか、すごく日本的で、私好みだ。

そんなことを考えていたら、ふと、私が普段こだわっている些細なことが頭をよぎった。

例えば、コーヒーを淹れるとき。

私は必ず、ドリッパーにペーパーフィルターをセットしたら、まずフィルターだけにお湯を少しだけ通す。

これは「リンス」とか「湯通し」とか呼ばれる工程で、ペーパーの匂いを取るためとか、ドリッパー全体を温めるためとか言われている。

実際、コーヒーの味にどれくらい影響があるのかは、正直言ってよくわからない。

でも、これをしないと、なんだか落ち着かないのだ。

初めてコーヒーを淹れるときに、たまたま見た動画でその工程が紹介されていて、それ以来ずっと続けている。

もし、このリンスを忘れてしまった日には、なんだかコーヒーの味がいつもより美味しくないような気がしてしまう。

いや、気のせいだとわかっている。

なんなら、本当に急いでいる時はリンスせずに淹れることだってあるし、それでも「あれ、なんか今日のコーヒー、イマイチだな」と感じたことはない。

でも、やっぱり、時間がある時は必ずリンスする。

だって、それが「正しい淹れ方」だと思い込んでいるから。

八百万の神様への祈り方も、もしかしたらそれに近いのかもしれない。

特定の作法や形式を「守る」ことで、精神的な安定を得ているというか。

いや、これはちょっと大げさかな。

でも、コーヒーのリンスも、神社での二礼二拍手一礼も、突き詰めて考えれば「なぜそうするのか」という明確な理由よりも、「そうするのが当たり前だから」「そうすると気持ちがいいから」という、漠然とした感覚が根底にある気がするのだ。

そういえば、うちの猫たちにも、自分たちなりの「儀式」がある。

朝、私が起きてリビングに行くと、マロンは必ず私の足元でゴロゴロと体を擦りつけ、モカはソファの上で「ニャー」と一声鳴いて、私を見つめる。

それが終わると、マロンはキャットタワーのてっぺんに飛び乗り、モカは私の膝の上に登ってくる。

毎朝、同じルーティン。

もしどちらかが欠けていると、なんだか「あれ?

今日はいつもと違う」と、私が不安になってしまう。

猫たちも、きっと私に同じように「なんで今日はいつもと違うんだ!

」と、内心思っているのかもしれない。

結局、私たちは、理由がはっきりしなくても、日々の小さな習慣や、漠然とした「こうあるべき」という感覚に支えられて生きているのかもしれない。

フランス人の方の疑問は、もっともだ。

でも、その「もやもや」とした部分にこそ、日本の文化の面白さがあるような気もする。

そんなことをぼんやり考えながら、私はキッチンで、いつものようにコーヒーを淹れた。

当然、ペーパーフィルターをリンスする。

その間、マロンが足元で尻尾をブンブン振って、モカがカウンターの上からじっと私を見つめている。

彼らも、朝のコーヒータイムが私のルーティンだと知っているのだろう。

この「儀式」がないと、彼らも落ち着かないのかもしれない。

そして、淹れたてのコーヒーを一口。

うん、美味しい。

今日だって、リンスしたから美味しいんだ、と勝手に納得する。

百五十円の延滞金を払って、世界の宗教についてちょっと調べてみて、結局たどり着いた結論は「やっぱりコーヒーはリンスするに限る」という、私の生活には何ら変化のない、些細なこだわりだった。

まあ、それでいいのだ。

それが、私の日常だ。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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