文豪ドラマと、俺の豚バラ大根リベンジ作戦

📝 この記事のポイント

  • カラオケで十八番を歌ったら、キーが合わなくて途中でリセットした。
  • いや、正確には、リセットボタンに指が触れてしまった、という体裁を取り繕っただけなんだけど。
  • 自分の声域の限界を試すような無謀な選曲をしたのが敗因だ。

カラオケで十八番を歌ったら、キーが合わなくて途中でリセットした。

いや、正確には、リセットボタンに指が触れてしまった、という体裁を取り繕っただけなんだけど。

自分の声域の限界を試すような無謀な選曲をしたのが敗因だ。

隣でタンバリンを叩いていたシェアメイトのタカシが「あ、事故った?

」とニヤニヤしながら聞いてくるから、俺は精一杯の澄まし顔で「いや、練習だよ、練習」と返した。

まあ、十八番が事故るって時点で、それもどうかと思うけど。

歌い慣れたはずの曲なのに、その日の体調とか、喉のコンディションとか、あとは単純に部屋の響きとかで、全然違う歌に聞こえることってあるんだよね。

まるで、今まで知っていたつもりの文豪の人生が、実は全然違う側面を持っていた、みたいな話に似ている気がしないでもない。

先日、シェアハウスのリビングで、タカシとハルキと三人でコンビニで買ってきたチキン南蛮弁当を食べながら、ふとそんな話になった。

「なあ、文豪ってさ、大河ドラマになんないのかな」と俺が呟くと、ハルキが箸を止めて「あー、それ、面白いかもね」と反応した。

タカシは既に食べ終えた弁当の空き容器を片付けながら、「でも、なんか難しくない?

恋愛とか、思想とか、ちょっとドロドロしそうだし」と、妙に現実的なことを言い出した。

まあ、確かに。

教科書で読む彼らは、ひたすら文学に打ち込む求道者のように描かれがちだけど、実際にはもっと人間臭い部分が山ほどあったんだろうな、と思う。

例えば、夏目漱石。

あの『吾輩は猫である』の飄々とした文体からは想像できないけど、結構神経質で胃が悪かったとか、妻との関係も複雑だったとか、そういう話を聞くにつけ、ただ文学史に名を残す偉人、というだけではない、生身の人間としての魅力と弱さが透けて見える。

あの神経質な漱石先生が、ある日突然、シェアハウスの当番制の夕飯作りで、「今日の晩御飯はカレーか。

ふむ、カレーねえ。

昨日の唐揚げも悪くはなかったが、この香辛料の配合は、いささか市販のルーに頼りすぎではないかね」とか言いながら、キッチンでうんうん唸ってスパイスを調合し始める姿を想像すると、なんかクスッとくる。

俺だったら、「ああ、もう面倒くせえな」って、ルーを二箱分ぐらいぶち込んで終わりだけど。

そういう、文学とは直接関係ない日常の描写が、彼らをより人間らしく見せるんじゃないだろうか。

あるいは、太宰治。

あの破滅的で刹那的なイメージが強い彼が、もし大河ドラマになったら、どう描かれるんだろう。

酒に溺れて、女と心中を繰り返して、みたいな話は確かにドラマチックではあるけれど、倫理的にどうなの?

って話になるのは避けられないだろうな。

でも、彼が故郷の青森、津軽で、リンゴ農家のおじいちゃんに「おめぇ、いっつも東京で何してるんだべ?

」とか言われながら、故郷の味、例えば津軽味噌で仕込んだ鮭のちゃんちゃん焼きとかを囲んで、ちょっと気まずそうにしている姿、みたいな描写があったら、すごく人間味が出る気がする。

そして、そのちゃんちゃん焼きが、ちょっと焦げ付いちゃったりして、「あ、やべぇ」みたいな顔をする太宰。

そんな描写があったら、俺は間違いなく毎週見る。

俺がこの前、料理当番で豚バラ大根を作った時の話なんだけど、レシピ通りにやったつもりなのに、なぜか大根に味が全く染み込まなくて、ただの「豚肉と煮込んだ大根」になっちゃったことがあったんだ。

タカシなんか「これ、味見した?

」って、直接的な表現は避けたものの、明らかに不満そうな顔してたし。

ハルキは「俺、大根のシャキシャキ感も好きだよ」って気を遣ってくれたけど、内心「煮物でシャキシャキって、それ失敗じゃん」って思ってたんだろうな。

そういう、普段は完璧に見える文豪たちだって、料理で失敗したり、洗濯物を畳むのがめちゃくちゃ下手だったり、本棚の整理が全くできなかったり、そういう日常の「あるある」があったはずなんだ。

例えば、志賀直哉。

あの『暗夜行路』の重厚なイメージとは裏腹に、意外と気難しい完璧主義者だった、なんて話も聞く。

彼がシェアハウスのキッチンで、米の研ぎ方一つにこだわりすぎて、炊飯器を何回も開け閉めしては「いや、まだだ。

この水の濁り具合では、米本来の甘みが引き出せない」とか言って、最終的に炊飯が夜中の2時になっちゃう、みたいな。

で、当番制の朝食作りで、みんなから「志賀さん、いくらなんでも米研ぎすぎでしょ」って呆れられる、みたいなシーンとか。

そういう「こだわり」が、文学とどう繋がっていくのか、みたいな視点で見られたら、すごく面白そうじゃない?

芥川龍之介なんて、あの繊細な神経で、もしシェアハウスに住んでたら、ちょっとした生活音にも過剰に反応して、夜中に布団の中でブツブツと独り言を言いながら、次の作品の構想を練り始めちゃいそう。

で、翌朝、顔色悪くリビングに出てきて、ハルキが作ってくれた目玉焼きを見て、「この卵の黄身の丸み、まるで太陽のようだ。

だが、その完璧な形は、かえって私を不安にさせる」とか、妙に文学的な感想を漏らしながら、結局一切手をつけずに珈琲だけ飲んで立ち去る、みたいな。

で、その目玉焼きは、後でタカシが美味しくいただく、と。

もちろん、彼らの人生には、現代の価値観では測れないような、倫理的にアウトな部分もたくさんあったのは事実だろう。

愛人関係とか、心中未遂とか、借金とか。

でも、そういう部分を全てカットして、ただ「文学の偉人」としてのみ描くのも、なんだか違う気がするんだ。

だって、人間って、そんなに単純じゃないじゃん。

誰だって、人に言えない秘密の一つや二つ、持ってるものだし。

ちょっとした過ちを犯したり、後悔したりしながら、それでも前に進もうとするのが人間なんだから。

だから、もし文豪大河ドラマを作るなら、そのあたりの「人間らしさ」を、あくまでユーモアと観察眼を交えながら、丁寧に描いてほしいなと思う。

もちろん、過度に美化したり、逆に貶めたりすることなく。

例えば、恋愛関係一つとっても、現代的な視点から「それはハラスメントでは?

」とか突っ込むんじゃなくて、「当時の時代背景や、彼らの置かれた状況を鑑みれば、ああいう行動も起こり得たのかもしれない」という、俯瞰した視点で見せることができれば、また違った面白さが生まれるんじゃないかな。

そういえば、豚バラ大根のリベンジ、この前やったんだ。

今回は、大根を下茹でして、隠し包丁を入れて、さらに米の研ぎ汁で煮てから本番に臨んだ。

そしたら、もう信じられないくらい味が染み込んで、大根がとろっとろになったんだよ。

タカシもハルキも、「これ、店で出てきてもおかしくないレベル!

」って絶賛してくれて、すごく嬉しかった。

料理って、一度失敗しても、その原因を分析して、工夫を凝らせば、次はもっと美味しく作れるんだよね。

文豪たちの人生だって、教科書には載らないような失敗や葛藤があって、でもそこから彼らは何かを学び、次の作品に繋げていったんじゃないだろうか。

そういう「人間的な泥臭さ」を、大河ドラマで見てみたい。

きっと、彼らの作品を読む視点も、より深くなるんじゃないか、と俺は思うんだ。

みんなも、そういう部分、ちょっと見てみたいって思わない?

失敗した豚バラ大根を克服した俺が言うんだから、間違いない。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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