📝 この記事のポイント
- 近所のコンビニで、いつもと違う店員さんが弁当を温めすぎて湯気がすごい。
- 電子レンジから取り出すや否や、もうもうと立ち上る白煙は、まるで火山灰が噴出した後の火山のようだった。
- いや、きっと僕が今日一日、栄養ドリンクを飲んでいなかったせいだろう。
近所のコンビニで、いつもと違う店員さんが弁当を温めすぎて湯気がすごい。
電子レンジから取り出すや否や、もうもうと立ち上る白煙は、まるで火山灰が噴出した後の火山のようだった。
いや、きっと僕が今日一日、栄養ドリンクを飲んでいなかったせいだろう。
思考が少し大げさになっているのは明白だ。
新人の店員さんなのか、それとも「温めますか?
」と聞かれた時に、僕が「アツアツでお願いします!
」とでも言ったかのような誤解があったのかもしれない。
いや、僕はいつも通り「はい、お願いします」とだけ言ったはずだ。
レジ袋の口から湯気がモクモクと漏れ出し、まるで蒸しパンを買ったかのような錯覚に陥る。
手に取った瞬間、ビニール袋越しにも熱気が伝わってきて、うっかり落としそうになった。
これはもう、「温かい」の域をはるかに超えて、「危険」に近い熱さだ。
しかし、この熱さが逆に、妙に心地よかったりする。
まるで、僕の心の中に燻っている、ちょっとしたモヤモヤまで蒸発させてくれるような気がしたのだ。
そのモヤモヤの正体というのが、実家を建て替えることになって、先日行った「地鎮祭」のことだった。
うちの家族は、実はプロテスタントのクリスチャンなんだよね。
だから、正直なところ、地鎮祭をやるかどうか、最初はかなり迷った。
いや、迷ったというのは語弊があるかもしれない。
父なんかは「神道はね……」と、やや難色を示していた。
母も最初は「祈祷だけにしとけばいいんじゃない?
」みたいなことを言っていた気がする。
僕自身も、正直言って、地鎮祭というものが何のために、どういう儀式で、何をお願いするのか、あんまりよく分かっていなかった。
これまでも、神社にお参りに行くことはあっても、それは初詣とか、観光の一部みたいな感覚だったから。
でも、結局、地鎮祭をやることになった。
それも、僕のちょっとした提案からだった。
「職人さんたちが気持ちよく仕事できるように」という、なんとも世俗的で、それでいて誰もが頷いてくれるような、ずるい理由だったんだけど。
父はしばらく考え込んだ後、「まぁ、そういうことなら、礼儀としてね」と、しぶしぶながらも同意してくれた。
母は「おもてなしの心ね!
」と、僕の意図をポジティブに解釈してくれた。
結果オーライ、というやつだ。
当日、朝から雨が降っていた。
なんでも「雨降って地固まる」とか言うらしいけど、正直なところ、僕は「勘弁してくれよ、よりによって今日かよ」と思っていた。
神主さんが来られて、テントが張られ、祭壇が設けられる。
竹が四方に立てられ、しめ縄が張られる光景は、普段見慣れないだけに、妙に厳かな雰囲気だった。
僕ら家族と、設計士さん、ハウスメーカーの担当者さん、そして工事の責任者の方々が参列する。
人数は全部で10人くらいだろうか。
想像していたよりもずっと本格的な儀式で、ちょっと気後れした。
神主さんの祝詞が始まり、いよいよ儀式が本格化する。
玉串奉奠(たまぐしほうてん)という、榊の枝を祭壇に捧げる儀式では、順番が回ってきて、僕はちょっと緊張した。
榊の根本を左手で持ち、葉先を右手で下から支えて前に進む。
そして、祭壇の前でくるりと回して、葉先を神様の方に向けて供える。
この一連の動作、見よう見まねでやったんだけど、なんだかぎこちなかった気がする。
隣にいた父は、普段見せないような真剣な表情で、それでもどこかぎこちなく、榊を捧げていた。
クリスチャンなのに、こんなに真面目に地鎮祭の儀式に参加している家族って、全国にどれくらいいるんだろう、とふと思った。
まぁ、いるわけないか。
儀式が終わった後、神主さんが「お供え物のお下がりです」と言って、野菜や果物、お酒なんかを渡してくれた。
なんか、ありがたいけど、どうしたらいいんだろう、という困惑が顔に出ていたかもしれない。
結局、野菜の一部は母が近所の知り合いにおすそ分けし、残りはお味噌汁の具になった。
お酒は父が「これは清めのお酒だから」と言って、晩酌でちびちび飲んでいた。
地鎮祭で使ったお酒、なんだかありがたみが増すのか、それとも罰当たりなのか、どっちなんだろう。
父は「いや、ありがたいんだよ、これは」と、妙に満足げな顔をしていたから、きっとありがたいのだろう。
地鎮祭の数日後、工事が始まった。
朝早くから、建設現場からは重機が唸る音や、職人さんたちの声が聞こえてくる。
家の基礎を作る作業が始まり、地面が掘り起こされ、コンクリートが流し込まれる。
毎日少しずつ、形が変わっていく様子を見ていると、なんだか不思議な気持ちになる。
今までそこに当たり前のようにあった家が、文字通り「土台から」変わっていくのだ。
僕が地鎮祭を提案した理由、「職人さんたちが気持ちよく仕事できるように」というのは、決して建前だけではなかった。
もちろん、僕自身、新しい家が事故なく安全に建ってほしいという願いもあったし、家族の不安を少しでも和らげたかったというのもある。
でも、それ以上に、実際に作業をしてくれる人たちへの敬意というか、感謝の気持ちを形にしたかったんだよね。
僕らは普段、完成したものだけを見がちだ。
お店で並んでいるお惣菜だって、誰かが食材を選んで、調理して、パックに詰めて、並べてくれている。
コンビニで買ったお弁当だって、誰かが作って、誰かが運んで、誰かが温めてくれている。
あの、湯気がすごい弁当だってそうだ。
新人の店員さんが一生懸命温めてくれたから、あんなにアツアツになったんだろう。
完璧じゃなくても、そこには必ず、誰かの手と心が込められている。
筋トレも同じだ。
ジムで重いバーベルを持ち上げるとき、僕はいつも「このバーベル、誰が作ったんだろうな」なんてぼんやり考えることがある。
いや、実際にはそんなこと考えてる余裕はないんだけど、ふとした瞬間にね。
あの冷たい鉄の塊だって、誰かが設計して、誰かが作って、誰かが運んで、誰かがジムに設置してくれたから、僕たちは使えるわけだ。
漫画だって、作者の人が何時間も、何日もかけて、時には寝る間も惜しんで描いてくれている。
コンビニで立ち読みする漫画だって、誰かが印刷して、誰かが運んで、誰かが店頭に並べてくれている。
そう考えると、どんな些細なものにも、いろんな人の「仕事」が詰まっているんだなと、改めて思う。
僕が筋トレのために食べている鶏むね肉だって、ただスーパーのパックに入って売られているわけじゃない。
誰かが鶏を育てて、誰かが加工して、誰かが流通させて、誰かがスーパーに並べて、誰かがレジ打ちをしてくれている。
そう考えると、一枚一枚の鶏むね肉に、なんだか感謝の気持ちが湧いてくるんだよね。
だから、たまに自炊で失敗して、鶏むね肉を焦がしちゃったりすると、「あー、ごめんなさい!
」って心の中で謝ってしまう。
せっかくたくさんの人の手を経て僕のところに来たのに、台無しにしてしまって申し訳ない、と。
地鎮祭も、きっとそういうことだったんだ。
新しい家を作るという、人生の中でもそう多くはない大きなイベント。
そこには、設計士さん、ハウスメーカーの担当者さん、大工さん、電気屋さん、水道屋さん、屋根屋さん、左官屋さん、そして基礎工事の人たち…本当にたくさんの職人さんたちが関わる。
みんながプロとして、僕らの家を真剣に、そして丁寧に作ってくれる。
その人たちへの「よろしくお願いします」という気持ち。
そして、「これから、この場所で、どうぞ安全に、良い家を建ててくださいね」という、ささやかな願い。
それが、あの雨の中の地鎮祭に込められていたんだな、と。
僕ら家族はクリスチャンだから、神様への祈りは日々の生活の中にある。
でも、地鎮祭という形で、その土地の神様や、これから作業をしてくれる職人さんたちへの敬意を示すというのは、また別の意味があるんだと思う。
それは、特定の宗教の教義を超えた、もっと普遍的な「礼儀」とか「おもてなし」の心なんじゃないだろうか。
あの湯気がすごかったコンビニ弁当を、家に帰ってから開けてみたら、ご飯が少しだけべちゃっとしていた。
でも、おかずはアツアツで、それが逆にありがたかった。
だって、きっと新人さんが、僕のために一生懸命温めてくれたんだろうから。
完璧じゃなくても、そこに込められた気持ちは伝わる。
新しい家も、きっと僕らの理想が100%形になるわけじゃないだろう。
少しの妥協や、予期せぬ出来事もあるかもしれない。
でも、そこに職人さんたちの技と心が込められているなら、きっと素晴らしい家になるはずだ。
そして、そこに僕らが地鎮祭で示した、ささやかな「よろしくお願いします」の気持ちも、少しは寄り添ってくれるんじゃないかと思っている。
みんなも、そういう経験ってないかな?
普段何気なく受け取っているものやサービスに、ふと誰かの手が込められていることに気づいて、ちょっとした感謝の気持ちが湧いてきたり。
完璧じゃなくても、その向こうにある「心」を感じた瞬間って、なんだか温かい気持ちになるよね。
あの湯気みたいに、モクモクと。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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