📝 この記事のポイント
- 郵便受けに入っていたチラシの量が尋常じゃなくて、ゴミ袋が必要になった。
- 朝、いつものようにポストを覗いたら、隙間から茶色い紙束がだらりと垂れ下がっている。
- その光景を見た瞬間、ああ、これはもう、ゴミ箱に直行する運命だなと悟った。
郵便受けに入っていたチラシの量が尋常じゃなくて、ゴミ袋が必要になった。
朝、いつものようにポストを覗いたら、隙間から茶色い紙束がだらりと垂れ下がっている。
その光景を見た瞬間、ああ、これはもう、ゴミ箱に直行する運命だなと悟った。
分厚い束をごっそり抜き取ると、ずっしりとした重みが手のひらに伝わる。
ピザ屋の割引券、学習塾の夏期講習、近所の新築マンション。
どれもこれも、私の人生には今のところ縁がないものばかりだ。
一応、目を通すふりだけはするけれど、結局は瞬時に分別されて古紙回収の袋へ。
この一連の作業、なんだかもう、修行みたいなものだ。
修行、といえば、先日、高校生の息子がリビングでアニメを見ながらポツリと呟いた一言が耳に残っている。
「ねえ、母さん。
元アニメオタクって言うけどさ、毎クールほとんどの作品を追うのって、そういう修行僧だけだと思うんだよね」。
私はその時、洗濯物を畳みながら「ははーん、またネットで変な情報仕入れてきたな」と聞き流そうとしたのだけど、彼は続けて「これさ、ネットの記事の見出しなんだけど、”修行僧”って表現に、ガチ勢がみんな『本当にそれ』って反応してたんだよ」と、ちょっと得意げな顔で私にスマホ画面を見せつけた。
そこには確かに、某アニメ情報サイトの記事タイトルと、その下のコメント欄らしき表示があった。
普段、彼の言動にはあまり反応しないようにしている私が、思わず「へえ!
」と声を上げたのは、その見出しと、それに共感しているらしい「ガチ勢」という人たちの存在に、妙に納得してしまったからだ。
昔の私は、本当に「修行僧」だったかもしれない。
それこそ、大学生の頃なんて、アニメのためなら徹夜も辞さない日々だった。
授業の合間を縫って、レンタルビデオ店へ自転車を飛ばし、新作を借りては夜通し見る。
大学のパソコン室で、友人たちと新作アニメの感想を語り合い、時には誰かの家に集まって、なぜか突然始まる「このキャラのどこが良いか」討論会で熱弁を振るったものだ。
当時はまだ、アニメを見る手段も限られていたから、ビデオデッキで録画したり、友達からダビングしてもらったり、手間を惜しまなかった。
一週間に何本も、いや、数十本という作品を同時並行で見ていたような気がする。
OPとEDは飛ばすけど、本編は一字一句、いや一コマたりとも見逃すまいと、画面に食い入るように集中していた。
あの頃の集中力と情熱を、今、仕事や家事に向けられたら、きっと私はもっと有能な人間になっているだろうな、と、時々遠い目をしてしまう。
あの頃の私は、自分でも驚くほどの集中力と記憶力を持っていた。
登場人物の名前はもちろん、声優さん、制作会社、さらには劇伴の作曲家まで、スラスラと出てきたものだ。
大学のレポート課題を仕上げる時も、あれほどの熱意があれば、もう少し良い成績が取れたんじゃないか、なんて今更ながらに思う。
課題図書を読み込むよりも、深夜アニメのキャラクター設定を頭に叩き込む方が、私にとってははるかに容易で楽しかったのだ。
友人たちとの会話も、ほとんどがアニメの話だった。
新しい作品の情報交換、お気に入りのシーンの再現、そして「この展開はどう思う?
」と、まるで哲学者のような真剣な顔で議論を交わしたりした。
今思えば、あの頃の友人たちは、私にとってかけがえのない「修行仲間」だったのかもしれない。
みんなで一緒に「修行」に励んでいたのだ。
それがどうだろう、今の私は。
パートから帰ってきて、ご飯を作り、洗濯物を畳んで、息子と他愛もない話をする。
夜には、録画しておいたドラマを一本見るか見ないか、というくらいの日常だ。
アニメ?
ああ、息子が見ているものを横目でチラッと見るくらいで、自ら進んで録画予約をしたり、配信サービスで新作をチェックしたりすることは、まずない。
たまに息子が「これ面白いよ」と勧めてくれる作品も、結局途中で挫折してしまうことがほとんどだ。
「面白い」とは思うのだけど、どうにも集中力が続かない。
途中で家事のことを思い出したり、明日の献立を考え始めたり、はたまた昼間のパートでのちょっとした出来事を反芻したりと、私の意識はすぐに別の場所へ飛んでいってしまう。
昔はあれほど、物語の世界に没入できたのに。
今では、主人公がピンチに陥っていても、「ああ、この後、きっとご飯食べなきゃいけないから、今日はここまでかな」なんて、全く関係のない現実的な考えが頭をよぎる。
あの頃の「修行僧」のような集中力は、どこへ消えてしまったのだろう。
変わったことと言えば、まず時間の使い方が大きく変わった。
昔は、時間を気にせず自分の好きなことに没頭できたけれど、今は「残り時間」を常に意識してしまう。
パートの勤務時間、夕飯の準備にかかる時間、お風呂に入る時間、息子の塾の送り迎えの時間。
限られた時間の中で、効率よく動こうとするあまり、一つのことにじっくりと向き合うゆとりがなくなってしまった気がする。
あとは、体力的な問題も大きい。
夜更かしなんて、とんでもない。
22時を過ぎると、もう瞼が重くなってくる。
少しでも睡眠時間が削られると、次の日のパートで集中力が散漫になり、レジ打ちを間違えたり、商品の陳列場所を忘れたり、と失敗が続く。
昔は、徹夜明けでも平気な顔をして大学に行き、友人たちとだらだら過ごせていたのに、今では寝不足の体でパートに行けば、午前中にはもう限界を迎えてしまう。
体の衰えは、私の「修行僧」としての資質を根こそぎ奪い去っていったのだ。
それでも、変わらないことも、もちろんある。
それは、一度「面白い」と感じたものに対する、ちょっとした執着だ。
先日、息子が見ていたアニメがたまたま私の琴線に触れてしまって、つい全話見てしまった。
すると、不思議なことに、昔の感覚が少しだけ蘇ってきたのだ。
あのキャラクターの過去が気になる、あの伏線は一体何だったんだろう、と、次の展開が気になって仕方ない。
結局、その日は夜更かしをして、翌朝は寝不足のままパートへ向かう羽目になった。
「ああ、やっちゃったな」と後悔しつつも、どこか懐かしい高揚感があったのは事実だ。
そして、あの頃と同じように、心の中でちょっとした「感想戦」が始まる。
このキャラクターの心情はああだったんじゃないか、このシーンの演出はもっとこうできたんじゃないか、なんて、一人で勝手に反芻する。
息子に話そうかとも思うけれど、「今さら?
」みたいな顔をされそうで、結局胸の内にしまっておく。
たまに、スーパーのレジで並んでいる時に、ふとアニメのワンシーンを思い出して、ニヤニヤしてしまう自分に気づいて、慌てて真顔に戻したりする。
周りから見たら、きっと変な人だろう。
そう、結局のところ、私は「修行僧」にはなれなかったけれど、その「修行」で培った「心」だけは、まだどこかに残っているのかもしれない。
毎クール新作を追うなんて、今の私には到底無理だし、たぶん、これからも無理だろう。
でも、たまに、ふとしたきっかけで、あの頃の情熱がフツフツと湧き上がってくる瞬間がある。
それは、まるで押し入れの奥底にしまってあった宝箱を、偶然見つけた時のような感覚だ。
埃をかぶってはいるけれど、開けてみれば、中にはきらきらとした思い出の欠片が詰まっている。
息子が言う「修行僧」とは、きっと、その宝箱を常にピカピカに磨き上げ、いつでも取り出せる状態にしている人たちのことなのだろう。
私にはそこまでの労力はもうないけれど、たまに、チラシの山の中に紛れたクーポン券を見つけるように、ひょっこりと現れる「面白い」ものに巡り合えたら、それで十分なのかもしれない。
郵便受けのチラシの山も、ゴミ袋に入れる手間も、考えようによっては「日常の修行」なのかもしれない。
修行僧にはなれないけれど、日々の小さなタスクをこなす中で、ささやかな喜びや発見を見つける。
それが、今の私にとっての、ちょうど良い生き方なんだろうな、と、朝の光が差し込むキッチンで、淹れたてのコーヒーをすすりながら、ふと、そんなことを思った。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

