📝 この記事のポイント
- 近所の定食屋で常連扱いされて、注文前にお茶が出てきた。
- いや、常連扱いと私が勝手に思っているだけで、マスターは単に「いつも同じ人には同じタイミングでお茶出す」というマニュアルを忠実に守っているだけかもしれない。
- でも、この「お茶、ハイ」という一言と、私の席に迷いなく置かれる湯呑みを見ると、ちょっとだけ優越感に浸ってしまう。
近所の定食屋で常連扱いされて、注文前にお茶が出てきた。
いや、常連扱いと私が勝手に思っているだけで、マスターは単に「いつも同じ人には同じタイミングでお茶出す」というマニュアルを忠実に守っているだけかもしれない。
でも、この「お茶、ハイ」という一言と、私の席に迷いなく置かれる湯呑みを見ると、ちょっとだけ優越感に浸ってしまう。
これが私の、ささやかな日常の幸福。
まあ、幸福感と言っても、この優越感はたぶん、脳内でごく少量分泌されるドーパミンによる、勘違いベースのまやかしなんだけど。
その日は、日替わり定食の唐揚げを頼もうと決めていた。
いや、正確には、入店前から唐揚げ一択で、メニューすら見る気がなかった。
たまに、そういうブレない気持ちになる日がある。
何かに憑かれたように「今日は絶対に唐揚げ!
」「今日の夜はアイスを食べる!
」と、強い確信を持ってしまう。
そういう日って、大抵の場合、特に根拠もなく、ただ脳内のどこかのスイッチがカチッと入っただけなんだろうな、と思う。
そして、そういうブレない決意は、大抵の場合、翌日には「あれ?
昨日何考えてたんだっけ?
」とあっさり忘れる。
我ながら、移ろいやすい思考回路だ。
ぼんやりと箸袋の文字を眺めながら、先日、実家で繰り広げられた「学費納入」を巡る壮絶な会話を思い出していた。
いや、「壮絶」というのは私の脳内での誇張表現で、実際には父がうめき声を上げ、母が「あらま」と呟き、息子である兄が「知ってた?
これ前期だけなんだぜ…」と涼しい顔で追撃した、というだけの、ごく日常的な茶の間劇だった。
私はその横で、無関係を装いながら、ひたすらスマホでどうぶつ動画を見ていた。
猫が箱から飛び出す動画、あれってなんであんなに何回も見ちゃうんだろうね。
猫って箱好きだよね。
たまに、自分も猫になって、ぴったりサイズの箱に収まってみたい、とか思う。
無駄なこと考えすぎかな。
うちの兄は、某私立大学の医療系学部に通っている。
これがまた、学費が高い。
いや、高いどころの騒ぎじゃない。
天井をぶち抜いて、宇宙にまで届きそうな勢いの高さだ。
先日、実家で届いた学費納入のお知らせを見た父は、一瞬、呼吸が止まったかのように固まっていた。
その顔は、まるで幽霊でも見たかのように青ざめていた。
いや、幽霊よりも恐ろしい「数字」がそこに記されていたのだから、無理もない。
私は横目でチラリと金額を見て、「ヒィッ」と声にならない悲鳴を上げた。
まあ、もちろん、私の声なんて誰も聞いてない。
私はただの派遣社員で、実家暮らしのぬるま湯に浸かり、自分の給料を自分の趣味に全て費やすことにしか興味がない、無責任な妹なのだ。
「これ、前期だけなんだぜ…」と、兄が父の背中にトドメの一撃を刺した時、私は思わず噴き出しそうになった。
いや、笑っちゃいけない。
これは日本の経済を、いや、わが家の家計を揺るがす大問題なのだ。
でも、そのあまりにも軽やかな兄の言い草と、それに対する父の絶望的な背中のコントラストが、ちょっとしたコメディーに見えてしまったのだ。
ごめん、お父さん。
私はまだ、独り立ちもしていない身なので、ただ遠くから応援するしかできない。
心の中で「頑張れお父さん!
」と叫びながら、私は再び猫の動画に目を落とした。
現実逃避って、人間にとって必要なスキルだと思うんだよね。
そういえば、昔、私も似たような勘違いをしたことがある。
小学生の頃だったか、母が「これ、デパートの福袋で買ったのよ!
」と言って、大きな紙袋からたくさんの衣類を出してきたことがあった。
私はその時、「福袋って、タダでいろんな服がもらえる魔法の袋なんだ!
」と本気で信じ込んでいたのだ。
だって、「福」の「袋」だよ?
縁起が良くて、しかもタダ。
そんな夢のような話があるはずだと、純粋に信じていた。
それから数日後、母がデパートのチラシを見ながら「今年の福袋、どれにしようかしら」と悩んでいるのを見て、私は目を輝かせながら「お母さん!
今年もタダで服もらえるの!
やったー!
」と叫んだ。
その時の母の顔を、今でもはっきりと覚えている。
呆れたような、困ったような、でもちょっとだけ笑っているような、複雑な顔だった。
「あんたねぇ、福袋はタダじゃないのよ。
お金を払って買うものなの」と、母は私の頭をポンと叩いた。
その瞬間、私の頭の中で、キラキラと輝いていた「福袋=タダ」という幻想が、音を立てて崩れ落ちた。
まるで、子供の頃に信じていたサンタクロースが、実は父だったと知った時のような衝撃だった。
「え、そうなの!
」と私が言うと、母は「当たり前でしょ。
世の中にタダで手に入るものなんて、そうそうないのよ」と続けた。
その言葉は、幼い私にとって、ちょっとした人生訓のように響いたものだ。
まあ、今思えば、たかが福袋の話で人生訓もへったくれもないんだけど。
でも、あの時の「世の中にタダで手に入るものなんて、そうそうない」という母の言葉は、妙に心に残っている。
この定食屋のお茶も、厳密に言えば、定食代の中に含まれていると考えるべきなのだろう。
タダでコーヒーが出てくるチェーン店だって、コーヒー代がちゃんと商品価格に乗っかってるはずだ。
世の中、そう簡単にできちゃいない。
私自身も、これまでいろんなものにハマっては飽きて、またハマっては飽きて、を繰り返してきた。
中学時代はバンドブームに乗っかってギターを買ったけど、Fコードで挫折。
高校時代は某アイドルグループに夢中になって、握手券のためにCDを何十枚も買ったけど、あっという間に別のグループに推し変。
いや、飽きた、と言うよりは、興味の対象が移った、と言った方が正しいかもしれない。
最近では、一時期、プロテインとかサプリメントを揃えて「意識高い系」を目指そうとしたけど、結局、飲むのが面倒くさくなって、賞味期限切れ寸前で友達にあげた。
そういう、ちょっと気まぐれな自分が、好きだったりする。
でも、飽きてはまた戻る、というのも、私の得意技だ。
例えば、数年前、一時的に熱中した「ガチャガチャ」。
大人になってから急にその魅力に気づいて、見かけるたびに小銭を握りしめていた。
特に、動物のフィギュアとか、ミニチュアの家電とか、そういう無駄に精巧な作りのやつ。
最初は、「こんな小さいものが500円もするの!
」と驚いたけど、そのクオリティと、何が出るかわからないドキドキ感にすっかりハマってしまった。
で、一時期は家の中がガチャガチャのフィギュアで溢れかえって、母に「あんたの部屋、ゴミ屋敷みたいになってるわよ」と怒られた。
それで、ちょっと反省して、しばらくガチャガチャから離れていた時期もあった。
でも、先日、たまたま駅ビルの片隅で、新しいガチャガチャコーナーを見つけてしまったのだ。
そこには、私の大好きな猫をモチーフにした、なんとも言えない表情のフィギュアが並んでいた。
しかも、その猫フィギュア、それぞれの足の裏に肉球まで再現されているという、とんでもないこだわりよう。
これにはもう、抗えない。
「ちょっとだけ…」と自分に言い訳しながら、財布から500円玉を取り出した。
レバーを回す瞬間の、あの独特の感触。
カプセルがコロンと落ちてくる音。
そして、カプセルを開けた時の、中身とのご対面。
この一連の流れが、たまらなく好きなのだ。
結局、その日は3回も回してしまった。
だって、欲しかった猫がなかなか出なかったんだもん。
まあ、そのうちの一つは、どう見ても犬にしか見えない謎の生物だったけど。
でも、それもまた、ガチャガチャの醍醐味だ。
思わず、その犬っぽい猫のフィギュアを、職場のデスクにそっと置いてみた。
朝、それを見るたびに、ちょっとだけクスッと笑ってしまう。
そういう、くだらないことって、意外と重要だったりする。
人生のスパイス、とでも言おうか。
あの時の福袋の勘違いも、兄の学費の話も、私のガチャガチャ熱も、全ては「タダ」ではない、という当たり前の事実の上に成り立っている。
でも、その「タダじゃない」という現実があるからこそ、私たちは、何かを得るために、時には努力し、時には我慢し、そして時には、ちょっとした贅沢を楽しんだりする。
そうやって、日々を生きているんだよな、と、唐揚げを頬張りながら、妙に納得してしまった。
定食屋の唐揚げは、いつものようにカリッと揚がっていて、ジューシーだった。
付け合わせのキャベツには、ドレッシングがたっぷりかかっている。
まあ、このドレッシングも、きっと唐揚げ代に含まれているんだろうけど。
私は、箸でキャベツを丁寧に口に運びながら、ふと、また別のことを思いついた。
今度の休みに、また新しいガチャガチャを探しに行ってみようかな。
今度は、どんなくだらないものと出会えるだろう。
そんなことを考えていると、なんだかちょっとだけ、未来が明るく見える気がした。
まあ、単に、唐揚げの脂で脳が一時的にハッピーになっているだけかもしれないけど。
そして、また私の部屋に、新しいゴミ…じゃなくて、宝物が増えるんだろうな。
うん、それもまた、いとをかし。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

