📝 この記事のポイント
- ネットで注文した服のサイズが合わなくて、返品の手続きが面倒で放置している。
- たぶん、このまま僕のクローゼットで、一度も着られることなく、永遠に吊るされ続けることになるだろう。
- 送料を払ってまで返品するのも馬鹿馬鹿しいし、かと言って無理やり着てみたら肩がパンパンで、まるで肩パッドが凶器の80年代アイドルみたいになった。
ネットで注文した服のサイズが合わなくて、返品の手続きが面倒で放置している。
もうかれこれ二週間。
たぶん、このまま僕のクローゼットで、一度も着られることなく、永遠に吊るされ続けることになるだろう。
送料を払ってまで返品するのも馬鹿馬鹿しいし、かと言って無理やり着てみたら肩がパンパンで、まるで肩パッドが凶器の80年代アイドルみたいになった。
いや、80年代アイドルはもっと華やかだ。
僕の場合は、ただただ「無理してる」感が漂う。
これが僕の、人生における数多の「見て見ぬふり」の一つだ。
先日、週末の面会で小学三年生の息子と会った時のこと。
僕が住んでいるアパートの近所にある、やたらソファがふかふかしているコメダ珈琲店に行った。
僕はいつも「たっぷりアイスコーヒー」、息子は「メロンソーダ」と「ミニシロノワール」が定番だ。
息子がシロノワールにかかったソフトクリームをフォークで溶かしながら、「パパ、これってさ、もうちょっとさっぱりしてたらいいのにね」と、まるで美食家のようなコメントをした。
お前はまだ小学三年生だぞ、とツッコミたくなったが、僕も一口もらったシロノワールの甘さに少しだけ罪悪感を覚えていたので、何も言えなかった。
親子って不思議なもので、食の好みまで似てくるものなのか、それとも僕が息子に似てきたのか。
そんなことをぼんやり考えていると、隣のテーブルから、聞き捨てならない会話が聞こえてきた。
たぶん、五十代くらいの、上品だけどどこか肝っ玉の座っていそうなマダムが、友人に話している。
「うちの子がね、大学行かないって言いだしてね。
俳優になりたいって言うのよ。
そりゃあ、夢があるのはいいことだけど、親としてはねぇ…」ここまではよくある話だ。
僕もバツイチで息子に会うたびに、将来どうするんだろう、とか、この子にはどんな才能があるんだろう、とか、頭の隅で考えている。
けれど、そのマダムの次の一言で、僕のたっぷりアイスコーヒーは喉を通り過ぎる寸前で止まった。
「だからね、私、藤原竜也さんの絶叫芸を見せたのよ。動画でね。それで『喜怒哀楽の次に〝藤原竜也って感情〟あんたは出せるの?』って聞いたの」
藤原竜也って感情。
僕は思わず吹き出しそうになった。
いや、藤原竜也さんの演技を貶めているわけでは決してない。
彼のあの唯一無二の、魂を削るような絶叫は、まさに「藤原竜也」というジャンルを確立していると思う。
それはもう、怒りとか悲しみとか、そういう一般的な感情の枠には収まらない、もっと根源的で、見る者の魂を揺さぶる何かがある。
それを「感情」として認識し、息子に問いかけるマダムのセンスに、僕は完全に心を奪われてしまった。
僕の頭の中では、マダムの息子さんが必死に「うわあああああ!
」と叫んでいる姿が、なぜか藤原竜也さんの顔で再生された。
息子は僕が固まっていることにも気づかず、溶けたソフトクリームの甘さに苦戦しながらも、残りのシロノワールを黙々と食べている。
僕も慌ててアイスコーヒーを飲み込み、何事もなかったかのようにシロノワールを一口もらった。
「うん、ちょっと甘いね」と僕が言うと、息子は「でしょ?
」と得意げに頷いた。
この子は将来、藤原竜也の感情は出せないかもしれないが、食レポの才能はあるかもしれない。
いや、それもどうだろう。
マダムの会話を聞いて、僕も昔、漠然とミュージシャンになりたいと思っていた時期があったことを思い出した。
高校生の頃、友人とバンドを組んで、文化祭で尾崎豊のコピーバンドをした。
歌詞を間違えて歌ってしまって、演奏中なのに笑いが止まらなくなった。
あの時の僕に、誰かが「あなたは尾崎豊のあの魂の叫びを再現できるの?
」と問うていたら、たぶん僕は「あ、無理っす」と即答して、今頃もっと別の道を歩んでいたかもしれない。
いや、もしかしたら、尾崎豊が憑依したかのような絶叫を披露して、そのままスターになっていた可能性も、ゼロではない。
いや、ゼロだな。
結局、僕がしたのは、文化祭のステージで歌詞を間違え、自虐ネタとして友人に語り継がれることだけだった。
僕の人生は、常にそんな小さな失敗と、それをごまかすためのユーモアでできてきた。
服のサイズを間違え、返品を諦め、クローゼットの奥に封印する。
そんな僕の日常だ。
マダムの「藤原竜也って感情」という言葉は、僕の心に深く刻まれた。
僕も息子に、何かを問う時、もっとクリエイティブな問いかけができるようになるだろうか。
たとえば、息子が将来、ゲームクリエイターになりたいと言い出したら、「君はゼルダの伝説のあの広大なフィールドを、たった一人で彷徨い続ける孤独感を表現できるの?
」とか。
いや、ちょっと大げさすぎるかもしれない。
もっと日常的なことでもいい。
「君は、冷蔵庫の奥で忘れ去られた豆腐の存在感を表現できるの?
」とか。
それも違う。
そんなことを考えていたら、ふと、僕が飼っている猫の「ミケ」のことを思い出した。
ミケは雑種で、やたらと神経質な猫だ。
来客があると、必ずソファの下に隠れて出てこない。
先日、友人が家に来た時も、ミケはソファの下から出てこなかった。
友人が帰った後、僕はソファの下を覗き込んだ。
ミケは、目を丸くして、僕を見上げていた。
その目には、「あんた、知らない人連れてきたでしょ?
私、怖かったんだからね」とでも言いたげな、強い訴えがあった。
まるで、僕を責めるような、しかしどこか甘えを含んだ、そんな複雑な感情が入り混じっていた。
あれは、「ミケって感情」と呼べるものだったかもしれない。喜怒哀楽のどれにも当てはまらない、ただミケにしか出せない、ミケだけの感情。それを僕は、ソファの下で、まじまじと見つめたのだ。
僕の息子が、もし俳優を目指すと言い出したら、僕はマダムのように藤原竜也さんの絶叫芸を見せるだろうか。
いや、たぶん僕は、息子にミケの表情を見せるだろう。
「あんた、このミケの感情、出せるの?
」と。
そして息子は「え、無理」と答えるに違いない。
そして僕は、それがミケにしか出せない感情だからだよ、と笑って答えるだろう。
そして、僕らはまたコメダ珈琲店に行き、息子はメロンソーダを頼み、僕はたっぷりアイスコーヒーを飲みながら、それぞれの「出せない感情」について語り合うのかもしれない。
そして、家に帰れば、サイズが合わないまま放置された服が、僕のクローゼットで、今日も静かに僕を責めるように、吊るされている。
返品?
いや、もう少し見て見ぬふりを続けよう。
それもまた、僕の「出せない感情」なのかもしれない。
たぶん、次はもっとちゃんとサイズを確認しよう、と心に誓う。
でも、きっとまた同じ失敗をするんだろうな、という予感も、しっかりと感じている。
人生って、そんなもんだよね。
まあ、それもまた一興か。
そう、自分に言い聞かせながら、僕はミケの頭を撫でた。
ミケはゴロゴロと喉を鳴らして、僕を見上げる。
その瞳には、やっぱり何かを訴えかける「ミケって感情」が宿っていた。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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