📝 この記事のポイント
- 歯医者の予約をすっぽかして、受付から確認電話がきて冷や汗をかいた。
- 「〇〇様、本日のご予約でしたが…」という丁寧な声の向こうに、確実に「この人、またか」というニュアンスが透けて聞こえる気がした。
- カレンダーにデカデカと「歯医者! 」と書いておいたのに、なぜか今朝に限って「今日の俺は自由だぜ! 」という謎の開放感に包まれて、いつもより30分も早く家を出てしまったのだ。
歯医者の予約をすっぽかして、受付から確認電話がきて冷や汗をかいた。
「〇〇様、本日のご予約でしたが…」という丁寧な声の向こうに、確実に「この人、またか」というニュアンスが透けて聞こえる気がした。
ああ、朝からやらかした。
カレンダーにデカデカと「歯医者!
」と書いておいたのに、なぜか今朝に限って「今日の俺は自由だぜ!
」という謎の開放感に包まれて、いつもより30分も早く家を出てしまったのだ。
結果、会社でコーヒーを淹れている最中に電話が鳴り、慌てて「申し訳ありません!
完全に失念しておりました!
」と頭を下げまくる羽目になった。
多分、電話越しでも僕の頭が低く下がっているのが伝わったはずだ。
いや、伝わってくれ。
そんな冷や汗ものの朝の出来事を引きずりつつ、いつものデスクに戻ると、案の定というか、お決まりというか、先輩が既に僕の席のそばで仁王立ちしていた。
「お、来たな」と、まるで僕の登場を待ち侘びていたかのような、どこか疲れた顔で先輩は言った。
この先輩、どうも最近、社内のちょっとした愚痴とか、奥さんとの些細な喧嘩の話とか、週末のスーパーで起きた不運な出来事なんかを、僕にだけ延々と語りたがる傾向がある。
いや、語りたがるというか、もはや僕の返答は先輩の話を聞くためのBGMと化しているのかもしれない。
僕が発する言葉は、ここ数ヶ月、ほぼ三つのフレーズに限定されてきている。
すなわち、「ホンマですか」「エグいっすね」「シブいっす」。
この三段活用を、先輩の物語の起承転結に合わせて巧みに使い分ける。
僕にとってはこれが、通勤電車でイヤホンから流れる音楽みたいなもので、意識せずとも口から滑り出てしまう、もはや条件反射みたいなものだった。
「いやさ、聞いてくれよ、昨日さ、ウチの奥さんがさ」と先輩が口火を切る。
僕はキーボードに手を置きつつも、視線は先輩の口元に固定。
耳は彼の声のトーンを探り、話の展開を予測する。
これはもう、熟練の釣り人が魚の動きを読むかのようだ。
「あのな、ウチの奥さん、昔から買い物は慎重派なんだよ。
それで、この前スーパーに行った時にさ、冷凍庫の前で30分くらい悩んでたんだよ。
30分だぞ?
結局、何も買わずに『今日はやめとくわ』って。
それで、家に帰ってから『やっぱりあれ買っておけばよかった』って言うんだよな、これが」
「ホンマですか」僕は絶妙なタイミングで、しかし感情を込めすぎないトーンで相槌を打つ。
先輩は満足げに頷き、話を続ける。
「だろ?
で、結局、次の日にまた同じスーパーに行って、同じ商品を手に取って、また30分悩むんだよ。
一体何なんだろうな、あれは」
「エグいっすね」僕は今度は少しだけ声を低くし、共感と驚きを混ぜたニュアンスを込める。
先輩はさらに頷く。
「エグいだろ?
俺なんかさ、もう疲れてきて、隣の精肉コーナーで半額になってた豚バラをカゴに入れたら、奥さんから『あなた、余計なもの買わないでって言ったでしょ!
』って怒鳴られる始末でさ」
「シブいっす」僕は少しばかり微笑みを浮かべ、先輩の苦労をねぎらうかのように呟く。
シブい、とは、この場合、諦念とユーモアが混じり合った、なんとも言えない状況を表現するのに最適な言葉だ。
先輩は僕のこの三段活用に、これまで特に疑問を抱くことはなかった。
僕もまた、このルーティンが永遠に続くものだと、どこか楽観的に考えていた。
それが、僕のささやかな日常の安定だったのかもしれない。
しかし、その日は違った。
先輩は、いつものように「それでさ、今日は朝から部長が妙に機嫌悪くてさ、俺がちょっと書類の場所を間違えただけで『おい!
』って怒鳴り散らすんだよ」と切り出した。
「ホンマですか」と僕が反射的に返すと、先輩は僕の顔をじっと見つめた。
あれ?
なんか様子がおかしいぞ?
そして、先輩はニヤリと笑って言ったのだ。
「おい、お前、次『ホンマですか』やろ」と。
僕の三段活用ルーティンが、ついにバレた。
いや、バレたというより、もはや先輩にパターンを読まれているではないか。
僕は一瞬、固まった。
まさか、そんなことを言われるとは。
僕の顔は、朝の歯医者の電話の時と同じくらい、いや、それ以上に冷や汗をかいていたかもしれない。
僕の顔は、多分、スーパーで半額の豚バラを手に取った先輩の奥さんの顔と同じくらい、複雑な表情をしていたはずだ。
期待を裏切られたのは僕の方だった。
僕のささやかなルーティンが、僕の無意識の戦略が、完璧に崩壊した瞬間だった。
「え、あ、いや、えっと…」僕はしどろもどろになる。
先輩はさらに追い打ちをかけるように、「お前さ、いつもその三つしか言わないだろ。
俺、もう分かんだよ。
最初は『ホンマですか』で、次にちょっと困ったような顔して『エグいっすね』、で、最後に俺が諦め顔になったら『シブいっす』だろ?
だいたい合ってるだろ?
」と、勝ち誇った顔で言った。
完全に読まれていた。
僕の得意技が、もはや丸裸にされた気分だ。
僕の心の中では、「ちくしょう、次からは別のパターンを開発しなければ…!
『マジっすか』『ヤバいっすね』『スゴいっす』とか…いや、語彙力…!
」という焦りが渦巻いていた。
これは完全に僕の敗北だ。
でも、先輩は僕の顔を見て、さらに続けた。
「でもさ、お前がそうやって聞いてくれるから、俺も話せるんだよな。
誰かに聞いてもらわないと、なんかモヤモヤしてさ。
お前はさ、別に気の利いたアドバイスとか、別にいらねえんだよ。
ただ聞いて、そうやって相槌打ってくれるだけでいいんだよな」そう言って、先輩は僕の肩をポンと叩き、自席に戻っていった。
あれ?
なんか、ちょっと拍子抜けした。
てっきり、「お前、ちゃんと聞けよ!
」とか、「もっと気の利いたこと言えや!
」とか、お小言を言われるものだと思っていたのに。
まさか、そんな風に思ってくれていたとは。
僕の「ホンマですか」ルーティンは、僕が思っていた以上に、先輩にとって意味のあるものだったのかもしれない。
僕にとってはただのBGMだったものが、先輩にとっては心のデトックスになっていたのかもしれない。
ちょっとした裏切りにあった気分だったけど、結果的には意外と悪くない気分だ。
僕のルーティンが、巡り巡って誰かの役に立っていた、というのは、なんだか変な達成感がある。
この一件以来、僕は少しだけ先輩への相槌のバリエーションを増やしてみた。
例えば、奥さんの買い物話の時には「いやー、分かります!
うちも全く同じで!
」と、ちょっとだけ自分の家の話も混ぜてみたり、部長の愚痴の時には「部長、最近ちょっとお疲れなんですかね?
」と、先輩を気遣うような言葉を添えてみたり。
すると、先輩はなんだか嬉しそうな顔をするようになった。
僕も、少しだけ話に深みが出て、以前より先輩との会話が楽しくなってきたような気がする。
考えてみれば、近所付き合いも似たようなものかもしれない。
僕の家は妻の実家の近くなので、地域の自治会活動とか、回覧板とか、スーパーでの鉢合わせとか、何かと近所の方と顔を合わせる機会が多い。
先日も、回覧板を届けに隣の奥さん宅へ行ったら、「あら、〇〇さん、この前の自治会の草むしり、お疲れ様でしたね!
お宅の旦那さん、汗だくになってて大変そうでしたわ!
」と言われた。
僕は「いえいえ、とんでもないです!
全然大丈夫です!
」と答えたが、内心「いや、正直、結構しんどかったです…」と思っていた。
でも、その一言があるだけで、なんだか心が軽くなる。
相手の労いを素直に受け取ることで、微妙な距離感が縮まるような気がするのだ。
人生、そんなもんかもしれない。
期待通りにいかないことの方が多いし、自分のささやかなルーティンがバレてしまうこともある。
でも、それがきっかけで、意外な発見があったり、ちょっとだけ人間関係が良好になったりすることもある。
歯医者の予約をすっぽかして冷や汗をかいた朝も、先輩に「次ホンマですかやろ」とツッコまれた昼も、すべてが、僕の日常を彩る小さな出来事なのだ。
そして、その一つ一つが、僕の「ほんまですか」「エグいっすね」「シブいっす」の引き出しを、少しずつ豊かにしてくれる。
次はどんな言葉で、どんな相槌で、この日常を乗り切っていこうか。
そう思いながら、僕は今日も、スーパーで半額の豚バラをカゴに入れるか、30分悩むか、真剣に検討しているのだ。
いや、この話、先輩にもしてみようかな。
たぶん、「ホンマですか」って返してくれるだろう。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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