くら寿司のテーブルで消え失せそうなスマホと、変わらない私

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📝 この記事のポイント

  • 郵便受けに入っていたチラシの量が尋常じゃなくて、ゴミ袋が必要になった。
  • ほとんどが宅配ピザとか、スーパーの特売情報とか、あとはいらない不動産屋の広告。
  • とりあえず、床に散らばったそれらを一枚ずつ拾い上げては、チラシ用のゴミ箱に放り込む。

郵便受けに入っていたチラシの量が尋常じゃなくて、ゴミ袋が必要になった。

ほとんどが宅配ピザとか、スーパーの特売情報とか、あとはいらない不動産屋の広告。

とりあえず、床に散らばったそれらを一枚ずつ拾い上げては、チラシ用のゴミ箱に放り込む。

この作業、地味に面倒くさい。

特に、ポストの奥までぎゅうぎゅうに詰め込まれた頑固なチラシを引っ張り出す時は、爪の間に紙が食い込みそうで嫌なんだよね。

昔は、こういうのが来ると「お、なんか新しいお店かな」とか、ちょっとは興味を持って見ていた気がする。

特に、家族で外食する時なんかは、いろんなお店のチラシを広げて「どこ行く?

」なんて話していたっけ。

でも、今はもう、開く前から「はい、ゴミ」って決めつけてる。

人間って、こんなに無関心になれるものなんだなあ、と我ながら呆れる。

先日、高校生の息子と二人で、久しぶりに「くら寿司」に行った。

息子は期末テストが終わった解放感からか、いつも以上に景気よくお皿を積み重ねていく。

私は、あまり量を食べられないから、いつものように茶碗蒸しと、あとは旬のネタを二皿くらいで十分。

でも、その日はなんだか、茶碗蒸しが来る前から落ち着かなかった。

原因は、テーブルに置いていた私のスマホ。

私のスマホケースは、何年か前にネットで「高見えする」という触れ込みで買った、木目調のプラスチック製なのだ。

手触りも見た目も気に入っていて、多少の傷は味になると思って使い続けている。

それが、くら寿司のテーブルと、あまりにもそっくりだったのだ。

テーブルもまた、少し赤みがかった木目調のシートが貼ってある。

照明の具合もあるかもしれないけれど、本当に寸分違わないくらいの色と模様で、そこにスマホを置くと、文字通り「同化してるぜ!

」って、心のなかでドラゴンボールのフリーザ様が叫んだ。

「ねえ、これ、私、絶対置き忘れるやつだよ」と、隣で夢中になってマグロを頬張る息子に言ってみたけれど、「ふーん」と生返事。

いやいや、ふーん、じゃないんだよ。

このテーブル、スマホの擬態能力を最大限に引き出してる。

まるで、敵から身を守るために周りの景色に溶け込むカメレオンみたいだ。

食事が終わって、お会計を済ませて席を立つ時、絶対「あれ、スマホどこだっけ?

」ってなるに違いない。

むしろ、もうすでにテーブルの一部と化していて、店員さんが「失礼します」って言ってテーブルごと片付けに来ても、気づかないんじゃないか、とさえ思えてくる。

若い頃、独身でバリバリ働いていた頃は、忘れ物なんてほとんどしなかった。

というか、する暇もなかった。

常に時間に追われて、次の予定、次の仕事、次の締め切り、って頭の中が分刻みだったから、持ち物を一つ一つ確認するのも、頭のなかのチェックリストの一つだったんだろう。

スマホなんてまだなかった時代だから、手帳と財布と鍵と、あと文庫本を一冊くらい。

それだけあれば十分だった。

あの頃の私は、もっとシャキシャキしていたような気がする。

会社の帰りには、スポーツジムに寄って汗を流したり、週末には友人と小旅行に出かけたり。

常に何か新しいことに挑戦しようとしていたし、多少の無理は「若さの特権」とばかりに乗り切っていた。

部屋もいつも片付いていたし、朝食もちゃんと作って食べていた。

そんな自分を、今思い返すと、まるで別人のようだ。

一体、あの頃のエネルギーはどこへ消えたんだろう。

今はもう、忘れ物が日常茶飯事になってしまった。

スーパーのレジでエコバッグを忘れて、仕方なくレジ袋を買うこと、週に2回。

図書館で借りた本を、返却期限を過ぎてから慌てて返しに行くこと、月に1回。

パート先のロッカーに私物を置き忘れて、翌日取りに行くこと、年に数回。

もう、笑うしかない。

忘れ物が多いのは、きっと頭の中が常に色々なことで散らかっているからなんだろう。

夕飯の献立、明日のパートのシフト、子どもの学校行事、クリーニングに出しっぱなしの冬物コート。

それから、先週買ってまだ読んでいない雑誌のこととか、ちょっと前に観て感動したドラマの続きのこととか。

どうでもいいことまで、ごちゃ混ぜになって頭の中を巡っている。

昔と比べて、確実に変わったこと。

それは、新しいことへの挑戦意欲が、まるで干からびた雑巾みたいになってしまったことだ。

昔は「英会話でも習ってみようかな」とか「陶芸教室も楽しそう」なんて、常にアンテナを張っていたのに。

今は「今から新しいこと始めても、どうせ続かないしな」という、やる前から諦めの境地に達している。

例えば、朝のウォーキング。

健康のために始めようと思って、ウォーキングシューズまで買ったのに、三日坊主どころか、初日から「今日は雨だから」とか「ちょっとお腹が痛いかも」とか、あらゆる言い訳を見つけては中断している。

結局、ウォーキングシューズは靴箱の奥で眠っているし、なんなら靴下すら買ったまま袋に入ってる。

あと、読書。

昔は通勤電車の中で必ず文庫本を開いていたのに、今はスマホをいじるか、うつらうつらしているかのどちらかだ。

本を読みたい気持ちはあるんだけど、ページを開くとすぐに眠くなってしまう。

読むべき本は山積みなのに、読み終わった試しがない。

積読ならぬ「積眠」状態。

でも、変わらないこともある。

それは、何かに夢中になっていると、他のことが全く目に入らなくなる、という私の性質だ。

くら寿司のテーブルでスマホが同化しているのを見て「これ、置き忘れそう」と思ったけれど、それも最初のうちだけ。

一旦、美味しいお寿司を食べ始めると、もうスマホのことなんて頭の片隅にもない。

茶碗蒸しの、あの熱々でプルプルした舌触り、出汁の優しい香り、中に隠れているギンナンや鶏肉の旨み。

それが口いっぱいに広がると、もう、世の中の煩わしいことなんて、全部どうでもよくなる。

息子が「ねえ、そろそろゲームのガチャ引くから、ちょっと貸して」なんて言ってきた時も、半分も聞こえていなかった。

「んー?

ああ、あとでね」とか適当に返事をして、私はひたすら炙りサーモンの誘惑に負けていた。

結局、息子が自分で私のスマホを取って、ガチャを引いていたっけ。

その時だって、スマホがテーブルと同化していることなんて、全く意識していなかった。

結局、くら寿司を出る時、私は危うくスマホを忘れるところだった。

会計を済ませて、席を立った瞬間、「あっ!

」と声を上げてテーブルに戻ったのだ。

息子は呆れた顔で、「ほらね、言った通りでしょ」と言い放った。

本当に、その通りだ。

私の予感は的中した。

スマホは、あまりにもテーブルに溶け込みすぎていて、完全にその場に置き去りにされる寸前だった。

まさに、危うく「同化」を遂げてしまうところだったのだ。

幸いにも、今回は気づいたからよかったけれど、これがカフェとか、デパートの休憩スペースとかだったら、きっとそのまま帰ってしまっていただろう。

もし、なくしたら、きっと大騒ぎするんだろうな。

また新しいのを買うのも、初期設定するのも面倒だし。

そういえば、昔、ガラケーを公衆電話の上に置き忘れて、慌てて戻ったら、誰かが拾ってくれていたことがあったっけ。

あの頃の、ちょっとしたアナログな温かさみたいなものって、今もあるのかな。

習慣にしたいと思っても、なかなか続かないウォーキング。

読みたいと思っても、なかなかページが進まない本。

忘れちゃいけないと思っても、すぐに頭から抜け落ちる用事。

私の日常は、そんな「やろうと思ってできないこと」で溢れている。

でも、その一方で、お寿司の美味しさに夢中になったり、ドラマの世界に没頭したり、目の前のことに無我夢中になれる瞬間も、確かにそこにはある。

それが私の良いところなのか、悪いところなのか、自分でもよくわからない。

まあ、いいか。

完璧な人間なんて、つまらないだろうし。

今日もきっと、どこかで何かを忘れて、どこかで何かに夢中になっているんだろうな、私。

それが、昔から変わらない私の性分なんだろう。

そして、きっとこれからも、私はそんな風に生きていくんだと思う。

忘れ物を取りに戻りながら、クスッと笑ってしまうような、そんな毎日を。

今度、くら寿司に行くときは、違う色のスマホケースに変えようかな、いや、たぶんこのままだな。

そう思いながら、また今日も、テーブルの木目調をぼんやり眺めている。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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