📝 この記事のポイント
- 夜中にトイレに起きたら、廊下で猫と鉢合わせして両者固まった。
- 暗闇の中、シルエットだけがはっきり見えるうちの黒猫ゴン太。
- 私が一歩踏み出すと、ゴン太はまるで彫刻のように微動だにしない。
夜中にトイレに起きたら、廊下で猫と鉢合わせして両者固まった。
暗闇の中、シルエットだけがはっきり見えるうちの黒猫ゴン太。
私が一歩踏み出すと、ゴン太はまるで彫刻のように微動だにしない。
いや、まさか心臓が止まっているのか?
と一瞬ヒヤリとしたけれど、よく見れば耳の先がピクリと動いている。
完全に私の動向を伺っているのだ。
こちらも動かないと決めて、しばらく見つめ合った結果、ギブアップしたのは私の方だった。
諦めてゴン太の横をそーっと通り抜けようとしたら、ようやくゴン太もニャーとも言わず、ヌッと動き出し、私の足元にまとわりついてきた。
まったく、肝の据わったやつだ。
そんなゴン太との夜の密会を終え、布団に戻ると、なぜだか目が冴えてしまった。
ああ、年を取るとね、こういうことが増えるんだよね。
まるで体内の時計が狂っているみたい。
仕方なく天井を眺めていたら、ふと、昼間耳にしたご近所さんの立ち話が蘇ってきた。
「家族がいないと40歳くらいから狂っていくのは『生きる意味が特にない』から?
」なんて、ずいぶん挑戦的な声が聞こえてきたものだから、思わず耳をそばだててしまったのよね。
その声の主は、近所に住む30代の奥さんだった。
若い彼女にとっては、40歳独身、というのは想像を絶する世界なのかもしれない。
彼女の隣にいた少し年上の奥さんが、「まあ、誰かと一緒にいるってのは、良くも悪くも自分を律する理由にはなるわよね」なんて、まるで人生の先輩のように諭していた。
私はというと、ついこの間まで夢中になっていた春菊の種まきの続きを考えながら、なるほどねえ、と頷いていた。
私にも孫がいて、毎日誰かしらと顔を合わせる生活を送っているけれど、もしも一人だったら、たしかに生活のリズムも、心の張りも、少し違ってくるのかもしれない。
でもね、そう簡単には「生きる意味」なんてものは狂わないんじゃないかしら、と私は思うのよ。
だって、人生ってやつは、私たちの期待をことごとく裏切ってくれるのが常だから。
若い頃はね、私も「結婚して、子供を産んで、温かい家庭を築くのが女の幸せ!
」なんて、絵に描いたような未来を信じていたわ。
雑誌の特集記事を読み漁って、「理想の夫像」とか「子育て奮闘記」なんかに、目を輝かせていたものよ。
まるでそれが、私の人生のゴールだとでも言わんばかりにね。
ところがどっこい、人生はそんなに一直線には進まない。
結婚はしたけれど、予想外の転勤や、夫の持病、子供の進路…どれもこれも、私の描いた絵とは少しずつ違っていたりする。
時には、期待が裏切られるどころか、まったく予想もしなかった方向へ舵を切らされることもあった。
もちろん、それが悪いことばかりじゃない。
むしろ、その「裏切り」の中から、新しい発見や、思わぬ喜びが生まれることだって、たくさんあったのよね。
独身で中年期を過ごす人たちの話を聞くたびに、私はいつも思う。
「生きる意味が特にない」なんて、そんなはずはないでしょう、と。
だって、私たちの周りには、意識せずとも「生きる意味」を与えてくれるものが、実はたくさん転がっているんだもの。
例えば、私の家の庭を見てごらんなさい。
春にはチューリップが咲き乱れ、夏にはミニトマトが真っ赤に実る。
秋には菊の可憐な姿に心が和み、冬には椿が凛と咲き誇る。
どれもこれも、私が水やりをして、肥料をやり、剪定をして、やっと花を咲かせ、実を結んでくれる。
この「育てる」という行為そのものが、私にとってのささやかな、けれど確かな「生きる意味」になっているんだよね。
近所に住む独身の田中さん(仮名)は、昔から熱心なバードウォッチャーだ。
毎朝早くから双眼鏡を片手に、近所の公園へ出かけていく。
ある日、玄関先で鉢合わせして、「田中さん、今朝も早いのね」なんて声をかけたら、「ええ、最近、公園に珍しい渡り鳥が来ているんですよ。
その姿を見ないと、一日が始まらない気がしてね」と、嬉しそうに教えてくれた。
彼の話を聞いていると、その鳥の姿を追いかけること、その生態を観察すること、それ自体が彼の「生きる意味」になっているのがよくわかる。
まるで少年のように目を輝かせて話す田中さんを見ていると、誰かと共に暮らしていなくても、自分の世界を豊かにすることはいくらでもできるんだな、と改めて感じさせられる。
また、別の独身の友人は、地域のボランティア活動に精を出している。
週に何回か、子供たちの見守り活動や、高齢者施設での読み聞かせに参加しているんだとか。
彼女は、「誰かの役に立っていると感じられることが、何よりの喜びなの」と、いつも笑顔で語る。
彼女の活動を通じて、地域の人々との繋がりが生まれ、たくさんの感謝の言葉を受け取るたびに、彼女の「生きる意味」はより深く、豊かなものになっているように見える。
確かに、家族がいると、例えば「孫のために」とか「夫の健康のために」とか、直接的なモチベーションが生まれやすいのは事実かもしれない。
私も、おやつを作りすぎて「孫が来たら食べさせよう」とか、庭に新しい花を植えて「孫に見せたら喜ぶかしら」なんて考えることはしょっちゅうだ。
でも、それはあくまで「きっかけ」に過ぎないんじゃないかな。
究極的には、「生きる意味」なんてものは、誰かに与えられるものではなく、自分自身で見つけ出すものなんだと思う。
それは、朝日の美しさに感動することかもしれないし、道端に咲く小さな花に目を留めることかもしれない。
美味しいコーヒーを淹れることかもしれないし、誰かに「ありがとう」と感謝されることかもしれない。
世間が期待する「家族と囲む食卓」や「賑やかな週末」といった幸せの形とは少し違うかもしれないけれど、独身で過ごす中年期も、決して「生きる意味」がないわけじゃない。
むしろ、自分のペースで、自分の好きなことにとことん打ち込める自由がある。
それはそれで、とても豊かな人生の形なんじゃないかしら。
人生って、本当に「こんなもん」なんだよね。
こうあるべき、と理想を掲げても、なかなかその通りにはならない。
でも、その「こんなもん」の中に、意外な喜びや、ささやかな幸せが隠れていたりする。
それを探し出すのが、人生の醍醐味なのかもしれない。
今日も、庭に出れば、うちのゴン太が日向ぼっこしている。
私が近づくと、迷惑そうな顔をして、少しだけ場所を空けてくれる。
その横で、私は新しく届いたチューリップの球根を植える準備をする。
来年の春、どんな色の花が咲くのか、今から楽しみで仕方ない。
これもまた、私の「生きる意味」の一つなんだろうな。
結局のところ、夜中に猫と見つめ合った数分間のように、人生は予測不能で、時々立ち止まってしまうこともあるけれど、それでも私たちはそれぞれの場所で、それぞれの「意味」を見つけながら、前へと進んでいく。
そんなもんだよね、きっと。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

