📝 この記事のポイント
- エレベーターで乗り合わせた人と気まずい沈黙が続いて、降りるのが早まった。
- うちのマンションは三階まで階段を使う人も多いけれど、私はたとえ二階であっても迷わずボタンを押す。
- 階段を昇るのが面倒くさいというのもあるけれど、何より、あの狭い空間で「お先にどうぞ」とか「いえいえ、どうぞどうぞ」みたいな不毛なやり取りを回避する目的が大きい。
エレベーターで乗り合わせた人と気まずい沈黙が続いて、降りるのが早まった。
うちのマンションは三階まで階段を使う人も多いけれど、私はたとえ二階であっても迷わずボタンを押す。
階段を昇るのが面倒くさいというのもあるけれど、何より、あの狭い空間で「お先にどうぞ」とか「いえいえ、どうぞどうぞ」みたいな不毛なやり取りを回避する目的が大きい。
今日は六階の人が先に降りて、その後に私が二階で降りるという奇妙な間合いだった。
別に急いでいるわけでもないのに、なぜか小走りで廊下を進んでしまう。
マンションの廊下を小走りで進む50代独身女性。
傍から見たら滑稽だろうな、と少しだけ自己嫌悪に陥った。
こういう、どうでもいい小さな「気まずさ」が、私の毎日を彩っている、と言えなくもない。
部屋に戻って、今日の献立を考えながら冷蔵庫を開ける。
スーパーで買った鶏むね肉が昨日から鎮座している。
よし、今日はこれを調理しよう。
そう心に決めたのに、なぜか私はテレビのリモコンを手に取り、録画しておいたドラマを見始める。
結局、冷蔵庫の鶏むね肉は明日への持ち越しとなる。
こういう「明日でいいか」の積み重ねで、私の人生はできているのかもしれない。
最近のドラマや映画、小説なんかを見ていると、どうも「とにかく暗い展開にすれば格好良い」「厳しい現実を突きつければ高尚」みたいな風潮が廃れないなあと、つくづく思う。
もちろん、そういう作品が悪いと言っているわけじゃない。
むしろ、そういう作品にしか描けない真実もあるだろう。
でも、あまりにもそれが多すぎるような気がして、ちょっと疲れてしまうのだ。
疲れて、さらに明日への持ち越しが増える。
悪循環だ。
昔の私も、そういう「重たい」作品ばかりを追いかけていた時期があった。
まだ20代の頃だったか。
当時付き合っていた男友達に「お前、なんでそんなに暗い映画ばっかり見るんだよ」と言われて、「これが現実なのよ」とか、ドヤ顔で答えていた記憶がある。
ああ、恥ずかしい。
何を気取っていたんだろう。
若さって、時に滑稽な自己陶酔を生むものなのだなと、今になってこそ思う。
あの頃は、わざわざ難しい本を読んで、眉間にシワを寄せて、誰かに「わかってほしい」とでも思っていたのだろうか。
今にして思えば、ただ単に自分探しと称した自己肥大だったのかもしれない。
あの頃の私は、なぜだか「幸せな結末」とか「ハッピーエンド」みたいなものを、どこか軽薄なものと捉えていた節がある。
人生はもっと複雑で、もっと苦しいものだと、勝手に決めつけていた。
そういう作品を鑑賞することで、自分もまたその複雑さや苦しさを理解している、とでも思いたかったのかもしれない。
背伸びをして、無理して大人ぶっていたのだろう。
タバコの煙をくゆらせながら、薄暗いバーで、人生について語り合う自分を想像していたような。
ああ、もう思い出すだけで顔が熱い。
当時吸っていたタバコも、今では吸っていない。
やめてからもう10年以上経つだろうか。
あの頃の私は、まさか自分が禁煙できるなんて夢にも思っていなかっただろうな。
ただ、その「やめた」という事実自体も、実はそこまで劇的なものじゃなかった。
ある日、いつものようにタバコを買いにコンビニへ行こうとして、ふと「まあ、いっか」と思ったのだ。
別に深刻な理由があったわけじゃない。
ただ、その瞬間の「まあ、いっか」が、たまたまタバコに向かっただけ。
そして、その「まあ、いっか」が、毎日続いただけのこと。
そう思うと、人生って意外とそんなものなのかもしれない。
習慣って、良くも悪くも、小さな「まあ、いっか」の積み重ねでできていたりする。
今の私は、そんなに肩肘張って作品を選んだりしない。
むしろ、スーパーで買う惣菜を選ぶような感覚で、その日の気分に合ったものを選ぶ。
今日はカレーの気分だから、レトルトカレーにしよう、みたいな。
ちょっと気分が落ち込んでいる日は、ベタなラブコメディーを何も考えずに見る。
それこそ、ありえないくらいハッピーな結末で終わるような。
登場人物たちが全員笑顔で、キラキラした光の中で手を繋いでいるような。
そんな作品を見て、「まあ、いっか、こういうのも悪くないな」と、ぼんやり思うのだ。
昔の私なら、きっと「こんなの現実じゃない」と鼻で笑っていたかもしれない。
でも、今の私は、現実が厳しいからこそ、フィクションの中くらいは幸せでもいいじゃない、と思えるようになった。
むしろ、あまりにも現実が厳しすぎると、フィクションにまでそれを求めてしまうと、心が持たない。
私はそこまで強くない人間なのだ。
もちろん、時々、無性に心に響く重厚な作品に出会うこともある。
そういう時は、じっくりと、それこそ鶏むね肉を低温調理するように時間をかけて味わう。
でも、それはあくまで「時々」のこと。
毎日のように重いものばかり摂取していたら、胃もたれしてしまう。
胃もたれどころか、精神が消化不良を起こしてしまうだろう。
そういえば、最近、ずっとやろうと思ってできなかったことがある。
部屋の模様替えだ。
ソファの位置を変えるだけで、ずいぶん気分が変わるだろうな、と頭の中では完璧な配置図が描けている。
でも、いざとなると、ソファを動かすのが億劫で、いつも「まあ、休日にでもやろう」と先延ばしにしてしまう。
その「休日」が何回も巡ってきて、もうかれこれ半年は経つだろうか。
私の完璧な配置図は、未だ頭の中だけの存在だ。
昔はもう少しフットワークが軽かったような気がするけれど、これも年齢のせいだろうか。
いや、違う。
これは怠惰のせいだ。
怠惰は年齢を選ばない。
ただ、昔の私は、それを「忙しいから」とか「疲れているから」とか、もっともらしい理由をつけていたかもしれない。
でも今はもう、正直に「めんどくさい」と言えるようになった。
これはこれで、ある種の成長、と呼んでもいいのかもしれない。
「めんどくさい」というシンプルな感情を、そのまま受け入れる。
これもまた、人生の厳しさを突きつける作品ばかり追っていた頃の私にはできなかったことだ。
あの頃は、自分の感情をいちいち複雑なものとして解釈しようとしていた。
本当はただ「めんどくさい」だけなのに、「これは深い意味があるのだ」と、勝手に意味付けをしていたような気がする。
変わったことといえば、そんな風に、自分の「怠惰」や「めんどくさい」という感情を、もう少し許せるようになったことだろうか。
そして、フィクションにも、もっと気楽に「癒し」を求めるようになったこと。
でも、変わらないこともたくさんある。
例えば、エレベーターでの気まずい沈黙は相変わらず苦手だし、鶏むね肉は今日も冷蔵庫の中で私を待っている。
そして、ソファは今日も同じ位置にある。
きっと明日も、私は冷蔵庫を開けて、鶏むね肉を見て、少しだけ罪悪感を抱きながら、きっとまた「明日でいいか」と思うのだろう。
そして、ソファは動かない。
そうやって、日々は過ぎていく。
ドラマや映画の世界では、もっと劇的なことが次々と起こるけれど、私の現実は相変わらず地味で、小さな「まあ、いっか」に満ちている。
でも、それが心地よいのだ。
この「まあ、いっか」の積み重ねこそが、私のささやかな日常であり、そして、それが今の私には、何よりも尊い現実なのかもしれない。
フィクションの世界では、登場人物が人生のどん底に落ちて、そこから這い上がっていく姿を描くのが「高尚」だとされるのかもしれない。
でも、私の人生は、どん底に落ちることもなく、高みを目指すこともなく、ただひたすら平坦な道を、時々小走りで、時々立ち止まって、そしてほとんどの場合「まあ、いっか」と呟きながら歩いている。
それでいいのだ。
それが、今の私にとっての「最高の現実」だ。
今日も鶏むね肉は明日へ持ち越し。
よし、明日は本当にやるぞ、たぶん。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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