📝 この記事のポイント
- 朝、出勤前に冷蔵庫を開けたら、賞味期限切れの食材が4つも並んでいた。
- 一番手前で鎮座ましましているのは、あと3日で使い切る予定だったはずの牛乳パック。
- その隣には、スーパーで「今日のおすすめ! 」とポップに書かれていた高級ハムの残り、奥にはいつ買ったか定かではない茄子と、なぜか半分だけ残った生クリーム。
朝、出勤前に冷蔵庫を開けたら、賞味期限切れの食材が4つも並んでいた。
一番手前で鎮座ましましているのは、あと3日で使い切る予定だったはずの牛乳パック。
その隣には、スーパーで「今日のおすすめ!
」とポップに書かれていた高級ハムの残り、奥にはいつ買ったか定かではない茄子と、なぜか半分だけ残った生クリーム。
僕はいったい何と戦っているんだろう。
いや、戦う以前に、買ってきたものをちゃんと管理できない自分に、毎朝ひっそり絶望しているんだよね。
僕の日常は、こんな調子でいつも何かしらの「うっかり」に彩られている。
いや、「彩られている」なんてロマンチックな表現は違うな。
正しくは「振り回されている」が適切だろう。
例えば、週に一度のゴミ出しの日。
朝、ゴミ袋を手に意気揚々とマンションのゴミ捨て場へ向かうと、既に収集車は去った後。
僕の頭の中では、朝のニュース番組のエンディングテーマが静かに流れ出す。
ああ、またか。
燃えるゴミは来週まで、また僕の部屋の片隅で眠りにつくのか。
可燃物とはいえ、ちょっとした罪悪感は胸の奥に燻る。
生ゴミが入っていなくて良かった、とホッとしながら、ゴミ袋を一旦部屋に戻し、その日の夜にまた別のゴミと見間違えてしまいそうになる自分に苦笑いする。
そんな僕なので、冷蔵庫の中身が賞味期限切れになるのは、もはや日常風景の一部と言っても過言ではない。
そんな毎日を過ごす40代独身男性、それが僕だ。
マンションの一室で、僕と、僕が買った食材たちと、そして時々やってくる宅配便のお兄さんと、静かに生活している。
最近は料理にハマっていて、週末になると近所の商店街で新鮮な野菜や肉を物色するのが楽しみの一つになっている。
商店街のおじちゃんやおばちゃんと、他愛ない会話を交わすのも、ちょっとした息抜き。
「今日は何作るの?
」
「へへ、今日は豚の角煮に挑戦しようかと」
「あら、頑張ってね。
圧力鍋使うと早いよ」
「圧力鍋、持ってないんですよねぇ」
なんてやり取りが、僕の日常に小さな彩りを与えてくれる。
そんな穏やかな、しかしどこか抜けている僕のルーティンに、ある日、さざ波が立った。
それは職場でのこと。
僕の部署は、小さなデザイン事務所で、社員は10人ちょっと。
僕はこの会社でグラフィックデザイナーとして働いている。
先日、僕が担当していた大きなクライアントの案件で、ちょっとしたミスが続いた。
締め切り前の最終チェックで誤字を見落としたり、会議の時間を勘違いして遅刻しそうになったり。
幸い大きな損害にはならなかったものの、上司から「最近、どうしたんだ?
」と心配そうな顔で声をかけられた。
その時、僕の頭の中に、ずっと抱えていたある思いが浮かんだ。
僕は、ADHDの傾向がある。
診断を受けたのは、数年前。
それまで「なんで自分はこんなにうっかりが多いんだろう」「集中力が続かないんだろう」と漠然とした悩みを抱えていたけれど、診断を受けてから、自分の特性を少しずつ理解できるようになった。
職場では、このことを誰にも話していなかった。
話すべきか、話さないべきか。
ずっと迷っていたんだ。
でも、このままミスを重ねてしまうのは、会社にも同僚にも申し訳ない。
それに、何より、僕自身が働きづらさを感じていた。
意を決して、上司に個別に相談する時間を設けてもらった。
誰もいない会議室で、僕はこれまでの経緯と、自分の特性について、正直に打ち明けた。
「実は、僕、ADHDの傾向がありまして……。
診断も受けています。
最近のミスも、それが原因で、集中力が途切れがちになったり、スケジュール管理が苦手だったりするんです。
何か、配慮できることがあれば、ご相談させていただけたらと……」
上司は、僕の話を真剣な表情で聞いてくれた。
途中で質問を挟んだりすることもなく、ただじっと耳を傾けてくれた。
話し終えた後、上司は「話してくれてありがとう。
君が働きやすいように、部署全体で考えていこう」と言ってくれた。
その言葉に、僕は心底ホッとした。
これで、少しは肩の荷が下りるかもしれない。
そう思ったんだ。
ところが、その日の夕方、人事担当者から面談をしたいと連絡があった。
そして、その面談は、次の日、そのまた次の日と続き、結局、僕が上司に特性を打ち明けてから4日後のことだった。
僕は突然、会社を解雇された。
理由は、表向きは「組織改編のため」だった。
でも、僕の頭の中には、上司に話したあの日のことが、ぐるぐると渦巻いていた。
「まさか」「そんなはずはない」と、自分に言い聞かせようとするけれど、腑に落ちない。
組織改編というなら、なぜ僕だけが?
長年勤めてきた僕に、何の相談もなしに?
疑問符が何個も頭の中で飛び交う。
僕が自分の特性を打ち明けたことと、この解雇が、まるで無関係だとは、どうしても思えなかった。
マンションに一人で帰ってきて、電気もつけずにぼんやりと座っていた。
冷蔵庫の中には、またしても賞味期限切れの牛乳があるような気がした。
いや、さすがにそれは作り話だ。
僕のうっかりは、そんなファンタジーを生み出すほど壮大ではない。
ただ、ただ、疲れていたんだ。
この状況を誰かに話すべきか、どうするべきか、頭の中では様々な意見が嵐のように吹き荒れた。
公表すべきだという声、いや、余計な波風を立てるべきではないという声。
正直、混乱していたし、何より、これからの生活への不安が押し寄せてきた。
でも、ふと思ったんだ。
もし、僕が自分の特性を打ち明けたことが、本当に解雇の理由だったとしたら、それは法に触れることかもしれない、と。
そんなことが許されるのだろうか。
僕みたいな「うっかり人間」が、自分の特性を隠さずに、安心して働ける場所が、この社会にはないのだろうか。
それからの数日間、僕はほとんど家から出なかった。
料理をする気力も起きず、冷蔵庫の中はますます寂しい状態になっただろう。
さすがにこのままではいけないと、重い腰を上げたのは、隣のマンションのベランダから聞こえてきた洗濯機の稼働音だった。
ガタガタと、規則正しく揺れる音。
日常の音だ。
僕は、とりあえず、散らかった部屋を片付け始めた。
洗濯機を回し、掃除機をかけ、たまっていた郵便物を整理した。
そして、冷蔵庫を開けてみた。
やはり、牛乳は賞味期限が切れていた。
でも、今回は、それを見て笑うことができた。
「ああ、まただ」
諦めにも似た、でもどこか清々しい笑いだった。
そして、僕は決めたんだ。
このまま泣き寝入りするのはやめよう、と。
まずは、法律相談の予約を入れた。
自分の権利について、ちゃんと知ることから始めよう。
そして、僕はまた、料理を再開することにした。
まずは、賞味期限切れの牛乳を捨てることからだ。
新しい牛乳を買ってきて、今度はちゃんと、期限内に使い切ってみせる。
豚の角煮は、まだ作れていない。
圧力鍋も買っていない。
でも、焦らない。
焦ると、またうっかりミスをしてしまうから。
ゆっくり、一つずつ、できることからやっていこう。
僕の日常は、また新しいルーティンへと移行し始めている。
少しだけ、前よりも強くなった僕と、相変わらずの僕が、共に歩んでいく。
きっと、いつか美味しい豚の角煮が作れる日が来るはずだ。
その日まで、僕の冷蔵庫は、今日も様々な食材と、僕のうっかりを、温かく見守ってくれているだろう。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

