📝 この記事のポイント
- エレベーターで乗り合わせた人と気まずい沈黙が続いて、降りるのが早まった。
- 私としては二階でよかったのに、三階でわざわざ降りて、階段を降り直す羽目になる。
- そういう小さな妥協が、私の日常にはごく自然に組み込まれている。
エレベーターで乗り合わせた人と気まずい沈黙が続いて、降りるのが早まった。
私としては二階でよかったのに、三階でわざわざ降りて、階段を降り直す羽目になる。
そういう小さな妥協が、私の日常にはごく自然に組み込まれている。
あの人、きっと私が乗り合わせたから、気まずくて一階で降りたのかもしれない。
向こうからしたら、私もまた、早めに降りた誰かなのだ。
そんなことを考えながら、マンションのロビーを抜けて、ポストを覗く。
電気料金のお知らせと、通販のカタログが数冊。
ああ、またあの美味しそうなチーズケーキの特集だ。
見れば見るほど食べたくなる、あれは罪深い。
最近、世間ではCERNとかいうところが、反物質をトラックで運んだとかいうニュースがちょっとした話題になっているらしい。
友人から「シュタインズ・ゲート好きが盛り上がってるね!
」なんてメッセージが届いて、ああ、そういえばそんなアニメがあったな、とぼんやり思い出した。
反物質なんて聞くと、物騒な響きがあるけれど、アニメで描かれていたようなSFの世界が、まさかこんなふうに現実と少しだけ繋がってくるなんて、昔の私だったらきっと大興奮していただろう。
あの頃は、SF小説を貪るように読んで、未来に起こるであろう奇妙で素晴らしい出来事に胸を躍らせていた。
宇宙船に乗って銀河を巡るなんて、いつか本当に実現するんじゃないかって、本気で信じていた。
夏休みの自由研究で、火星移住計画のシミュレーションを描いて、先生に「壮大すぎる」と呆れられたのも、今となっては懐かしい思い出だ。
あの情熱は一体どこへ消えてしまったんだろう。
昔の私は、もっと色々なことに前のめりだった気がする。
新しい情報に飛びつき、知らない世界に足を踏み入れることに躊躇がなかった。
例えば、大学生の頃、友人が「インド映画を観に行こう」と誘ってくれた時、迷わずついて行った。
それがまさかの五時間超えの大作で、途中で何度か意識が遠のきかけたけれど、それでもスクリーンの中で繰り広げられる歌と踊りの嵐に、ある種の感動を覚えたものだ。
そういえば、その時のパンフレット、まだどこかの段ボールに入っているかもしれない。
あの頃は、観た映画の半券をスクラップブックに貼ったり、読んだ本の感想を手書きでノートに綴ったりしていた。
美術館のチケットも、パン屋のレシートも、何でもかんでも取っておいて、後から見返しては「ああ、あの時ね」なんて、一人で感傷に浸るのが好きだった。
今はどうだろう。
新しい映画を観るのも、評判を調べてから腰が重いし、本も積読が増えるばかり。
先日も、本屋さんで平積みになっていた、装丁の美しい海外小説を買ってきたばかりなのに、まだ表紙を撫でただけで満足してしまっている。
読むのは、もう少し気持ちが落ち着いてからにしよう、なんて言い訳が常に頭の中を巡っているのだ。
あの反物質のニュースだって、面白そうだなとは思うけれど、深く調べる気にはならない。
そうか、シュタインズ・ゲートね、と納得するだけで終わってしまう。
なんだか、昔はもっと世界が色鮮やかで、あらゆる情報が自分を構成する一部になるような気がしていたのに、今は、情報の濁流に流されまいと、必死に岸辺にしがみついているような感覚さえある。
変わったことといえば、その「前のめり」な姿勢がすっかり影を潜めたことだろう。
例えば、マンションのエレベーターに乗る時、昔だったら「今日は何階まで行くんだろう?
」なんて、勝手に脳内で推理ゲームを始めていたけれど、今はただ、目の前の扉が開くのを待つだけ。
隣に人がいれば、スマホをいじるふりをして、ひたすら時間が過ぎるのを待つ。
あの、冒頭の早降りも、まさにその典型だ。
気まずい沈黙に耐えるくらいなら、一階分くらい階段を使ってもいい、と無意識に判断している。
これって、昔の私だったら考えられないことだ。
昔は、隣に知らない人がいても、何か共通の話題はないかと目を凝らしたり、ちょっとした世間話に花を咲かせたりするタイプだった。
もしかしたら、その積極性が、相手には少し煙たがられていたのかもしれないが。
そして、変わらないこと。
それは、やっぱり「やろうと思ってできないこと」「続かないこと」の多さだ。
反物質のニュースを見て、ふと「物理学って面白いかも」なんて一瞬思っても、すぐに「でもなぁ」と頭の中で打ち消してしまう。
何かを学ぶにしても、どうせ途中で挫折するだろう、という諦めが先に来る。
たとえば、毎年「今年こそは健康のために運動を始めよう」と誓う。
年末年始にテレビで流れる健康番組を見て、ちょっとしたヨガポーズを試してみたり、通販でバランスボールを買ってみたりする。
でも、結局それは、リビングの隅で埃を被る「オブジェ」と化すのだ。
バランスボールなんて、いつの間にか洗濯物を一時的に置いておく台になっていた。
ああ、我ながら情けない。
昔、二十代の頃に「英語を身につけよう!
」と意気込んで、英会話教室に通い始めたことがあった。
最初のうちは、毎回予習復習を真面目にして、宿題もきちんとこなしていた。
外国人講師の先生と、拙い英語で身振り手振りで話すのが、新鮮で楽しかった。
でも、それが三ヶ月くらい続いた頃だろうか。
仕事が忙しくなって、レッスンを休みがちになった。
気がつけば、いつの間にか授業料だけを払い続け、一度も教室に顔を出さなくなった。
ある日、ふと教室の前を通りかかった時、そっと看板を見上げて、「ああ、もう一年も経つのか」と呆れたのを覚えている。
結局、英語力はほぼゼロのまま、私の小さな挑戦は幕を閉じた。
あの反物質のニュースを見て、SFの世界が少しだけ現実になったとしても、私の生活はきっと何一つ変わらないだろう。
朝起きて、食パンをトーストして、コーヒーを淹れる。
洗濯機を回して、たまりにたまった通販のDMをゴミ箱に捨てる。
夕飯の献立を考えながら、スーパーで半額になったお惣菜を探す。
そういう小さな営みが、私の日常のほとんどを占めている。
反物質がどうこう、なんて壮大な話は、私にとっては、遠い銀河の出来事のように、どこか他人事なのだ。
結局のところ、私は「習慣」という名の安穏な沼に、どっぷりと浸かりきってしまっているのかもしれない。
新しいことを始めるのは億劫だし、今のままで十分満足しているような、していないような。
でも、たまに、エレベーターで早降りした自分に、心の中で小さくツッコミを入れたりする。
「ねえ、そこまでしなくても良くない?
」って。
その、ちょっとした自虐と、諦めにも似た諦観が、今の私を形作っている。
反物質がもし、タイムリープを可能にするなら、あの時、英語教室をサボらずに通い続けた自分に会って、一言だけ言ってやりたい。
「頑張れ」と。
そして、きっとその「頑張れ」も、どこかで空回りするんだろうな、なんて、ちょっとだけ笑ってしまうのだ。
そういえば、あの美味しそうなチーズケーキ、もう一度カタログを見てみようかな。
今度は「見るだけ」じゃなくて、ちゃんと注文してみる、という小さな挑戦くらいは、そろそろ始めてもいいのかもしれない。
もちろん、食べるのは、食後のデザート、ほんの一切れだけにしておくつもりだ。
たぶん。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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