📝 この記事のポイント
- エレベーターで乗り合わせた人と気まずい沈黙が続いて、降りるのが早まった。
- 階数ボタンを押した瞬間に、ああ、この人と同じ階だ、と察してしまった時の、あのなんとも言えない気まずさ。
- 別に会話をする義理もないのだけれど、無言の空間が続くのは、どうにも落ち着かない。
エレベーターで乗り合わせた人と気まずい沈黙が続いて、降りるのが早まった。
階数ボタンを押した瞬間に、ああ、この人と同じ階だ、と察してしまった時の、あのなんとも言えない気まずさ。
別に会話をする義理もないのだけれど、無言の空間が続くのは、どうにも落ち着かない。
結局、私は自分のマンションのフロアの一つ手前で降りて、階段を登る羽目になった。
運動になるからいいか、と自分に言い聞かせるも、膝がガクッと笑う。
もう若くないのだから、無理は禁物だ。
そんな些細な、というか、私にとっては日常茶飯事のプチ失敗を消化しながら部屋のドアを開けると、玄関の郵便受けから、スーパーのチラシがはみ出していた。
拾い上げて、何気なく眺める。
今週の特売品は冷凍食品が充実しているらしい。
その中に、ひときわ目を引く写真があった。
真ん中にどんと配置された、ミニケーキの詰め合わせ。
それ自体はよくある商品なのだけど、その色が、どうにもこうにも、私の心をざわつかせたのだ。
鮮やかなターコイズブルーに、派手なショッキングピンク。
蛍光イエローも混じって、まるで子供のおもちゃのような色彩だ。
最近、こういうカラースプレーを使った商品が増えた気がする。
ドーナツなんかも、淡いパステルカラーのコーティングの上に、カラフルな粒が散りばめられているのをよく見かけるし、プリンやゼリーだって、上に乗せるクリームやソースが、妙に人工的な色をしていたりする。
最初は、「うわ、体に悪そう」とか「食欲をそそらない色だな」なんて思っていたのだけど、どうも最近、その認識が変わってきた。
むしろ、「この無駄に鮮やかで、無駄に不健康そうな色こそ、食べたい!
」と強く思うようになったのだ。
特に、あの淡い、いかにも体に優しいですよ、とでも言いたげなパステルカラーのやつじゃなくて、もう突き抜けて毒々しいくらいの濃い色に、抗いがたい魅力を感じてしまう。
淡い色だと、なんだか中途半端で、かえって食欲が失せるというか。
どうせ着色するなら、とことんやってほしい、なんて思ってしまう私は、もう健康志向とは程遠いところにいるのかもしれない。
昔の私は、もう少し、いや、かなりストイックだった。
たとえば、大学時代。
実家を離れて一人暮らしを始めたばかりの頃は、妙に健康意識が高くて、自分で玄米を炊いたり、野菜中心の献立を組んだりしていた。
「朝食はパンよりもご飯、野菜はしっかり摂るべし」なんて、どこかの健康雑誌に書いてあったことを真に受けて、毎朝、豆腐とワカメの味噌汁を欠かさなかった。
いや、実際には週に二日くらいは寝坊して、食パンをかじりながら大学に駆け込んでいたけれど、基本的には、そういう「きちんとした食生活」を心がけていたのだ。
お菓子を選ぶ時だって、迷わず「素朴な味」とか「素材の味を活かした」みたいなキャッチフレーズに惹かれた。
添加物とか着色料なんて、もちろん論外。
パッケージの裏側をじっくり見て、知らないカタカナが並んでいると、ちょっと敬遠したりもした。
ケーキ屋さんで選ぶのは、ショートケーキかモンブラン。
いちごの赤とか栗の茶色とか、自然な色が安心感を与えてくれたものだ。
友達とカフェに行っても、迷わずブラックコーヒー。
甘いものは別腹とはいえ、ドリンクとケーキの両方に砂糖を使うのは、なんだか背徳的で、少し罪悪感を覚えたものだ。
若くて代謝も良かったから、多少不摂生してもすぐに元に戻ったし、ちょっと食べ過ぎたと思えば、翌日はサラダチキンと蒸し野菜、みたいな生活を送っていた。
あの頃は、未来の自分はもっと健康的で、もっと規則正しい生活を送っているに違いない、と漠然と信じていたんだっけ。
それが、いつからだろう。
こんなに「毒々しい色」に惹かれるようになったのは。
今の私は、昔の自分が見たら、きっと目を丸くするだろうな、と思うことが多々ある。
朝食は、最近近所のコンビニで売っている、チョコチップがこれでもかと入った菓子パンをよく食べる。
しかも、ブラックコーヒーと一緒に、ではなく、カフェラテと一緒に。
ダブルの甘さだ。
ランチは、冷凍パスタをチンするか、スーパーのお惣菜。
これも、いかにも「インスタント」な味付けのものが、最近は妙に美味しく感じる。
昔は、お惣菜なんて「手抜き」の象徴みたいに思っていたのに。
お菓子だって、もはや裏面の原材料表示なんて見ない。
いや、見てもどうせ覚えないし、気にしたところで、食べるのをやめるわけではないから、という諦めにも似た境地に達している。
むしろ、カラフルな着色料が使われていると、「おお、攻めてるな!
」と、なぜか応援したくなる気持ちすらある。
あの、ピンク色のグミとか、水色のラムネとか、見ているだけでちょっと気分が上がるのだ。
昔は、「健康は財産」なんて真面目に考えていたけれど、今は「美味しいは正義」の方が、よっぽど響く。
いや、もちろん、健康に気をつけたい気持ちがないわけではない。
ウォーキングをしよう、野菜をたくさん食べよう、油っこいものは控えよう、と、毎日のように頭の中では計画を立てている。
でも、いざとなると、「今日は疲れているから」「明日から頑張ればいいか」という怠惰な声が、すぐに勝ってしまう。
結局、マンションのジムの会員証は、財布の奥底で眠ったままだし、週に一度はヨガに行く!
と決めたはずなのに、最後にマットを広げたのは、いつだったか思い出せない。
読書は趣味だからかろうじて続いているけれど、映画だって、途中で眠りに落ちて、結局最後まで見られないことがザラだ。
昔は映画館で何本もハシゴしていたのに、今は自宅のソファで2時間集中するのも難しい。
私の集中力は、どこへ消えてしまったのだろう。
変わったことと言えば、やはり「習慣」に対する意識だろうか。
昔は、何かを習慣づけることに、それほど苦労を感じなかった気がする。
新しいことを始めるのも、それを続けるのも、若さゆえのエネルギーがあったのかもしれない。
でも、今は違う。
何かを「やろう」と決めても、それが習慣になるまでには、とてつもない壁が立ちはだかる。
たとえば、毎朝白湯を飲む、という、ごくごくシンプルな習慣だって、私にとっては至難の業だ。
ケトルでお湯を沸かす、という、たったそれだけの行為が、なぜか億劫に感じてしまう。
朝、目が覚めて、まず最初に思い浮かぶのは、「まだ寝ていたい」という強い欲望だ。
そして、その欲望に抗うことなく、二度寝、三度寝を決め込む。
結果、白湯を飲むどころか、朝食を食べる時間すら危うくなる日も珍しくない。
昔は、休日の朝はカフェでモーニングを、なんて余裕があったのに、今は休日に早く目が覚めてしまうと、「ああ、損した」とすら思う。
どうせなら、昼まで寝ていたかった、と。
人生の残り時間を考えると、少しでも長く眠っていたい、という本能的な欲求なのかもしれない。
一方で、変わらないこともある。
それは、私の「食いしん坊」な部分だ。
健康志向だった頃も、ジャンクフードを避けていただけで、美味しいものを探すアンテナは常に張っていた。
食材の産地を気にしたり、調味料にこだわったりと、別のアプローチで食を楽しんでいたのだ。
それが今や、毒々しい色のケーキに惹かれる、という形で表れているだけで、根っこの部分は同じなのだろう。
結局、「美味しいもの」には抗えない、という、なんとも人間的な欲求が、私の中にはずっと居座っている。
あのカラースプレーのケーキだって、きっと、見た目のインパクトだけでなく、甘くて、少しだけ罪悪感のある、でも一口食べたら止まらないような、そんな味がするに違いない。
そう、あの無駄に鮮やかで、無駄に不健康そうな色には、きっと「今日くらいは良いか」という、私の心の声がそのまま反映されているのだ。
結局、私はあのミニケーキのチラシを、冷蔵庫にマグネットで貼った。
買おうかどうしようか、しばらく悩むだろう。
おそらく、特売期間が過ぎてから、「ああ、買っておけばよかった」と後悔するパターンになる可能性が高い。
そして、また別の日に、違うスーパーで、似たような色のドーナツを見つけては、同じように魅了され、同じように悩むのだ。
そんな風に、日々の小さな誘惑と、ささやかな怠惰を繰り返しながら、私のマンションでの一人暮らしは、これからも続いていくのだろう。
エレベーターで知らない人と気まずい沈黙を味わい、階段を登って膝を笑わせ、無駄にカラフルなケーキに心惹かれる。
そんな、ちっとも成長していない自分を、ちょっと可笑しく思いながら。
健康的な食生活?
規則正しい習慣?
そんなものは、たぶん、来週の私に任せることにして。
今は、目の前の、この毒々しい色の誘惑に、もう少しだけ浸っていたい気分なのだ。
もしかしたら、この「不健康そうなものへの憧れ」こそが、私の今の、ささやかな反抗期なのかもしれない。
だって、人生は一度きりなのだから、たまには、好きなものを好きなだけ、好きなように選んでも、罰は当たらないだろう、きっと。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

