📝 この記事のポイント
- ファミレスで隣の席の家族の会話が面白すぎて、料理が喉を通らなかった。
- 小学低学年くらいの男の子が、どうしても食べたくないらしく「ママ、これ、しいたけの匂いがする! ママ、嘘じゃない! ほんとだよ! 」と訴えている。
- その声に、お父さんが「お前、最近椎茸の匂いばっかりするって言ってるな。
ファミレスで隣の席の家族の会話が面白すぎて、料理が喉を通らなかった。
小学低学年くらいの男の子が、どうしても食べたくないらしく「ママ、これ、しいたけの匂いがする!
ママ、嘘じゃない!
ほんとだよ!
」と訴えている。
その声に、お父さんが「お前、最近椎茸の匂いばっかりするって言ってるな。
椎茸アレルギーか?
」と真顔で返していて、僕は思わず吹き出しそうになった。
口の中に広がるチーズインハンバーグの味が、どうにも薄く感じられてしまう。
いや、美味しいんだけどね、今日の主役は隣の家族だった。
こんな些細な日常の断片が、なぜか頭の片隅に引っかかって、帰りの電車の中でずっと反芻している。
僕も子供の頃、苦手な食べ物をどうにか避けようと、ありとあらゆる言い訳を考えたものだ。
今はもう、椎茸どころかパクチーだって平気で食べるけれど、あの頃の切実な抵抗は、たしかに僕の中に存在した。
そういえば、いつからか「インターネット老人」という言葉をよく耳にするようになった。
僕の周りでも、ちょっと古いネットミームを使ったり、昔のネットの話をすると「ああ、おじさんだねぇ」なんて言われる。
でも、ちょっと待ってほしい。
僕が初めて自分のパソコンを手にして、ダイヤルアップ接続で「ピーガーギャー」なんて音を聞いたのは、たしか小学校高学年の頃だった。
2000年代の初頭、まだWindows XPとかが主流だったあの頃だ。
それって、本当に「老人」なのだろうか?
僕の認識では、「インターネット老人」とは、少なくとも1990年代、まだインターネットが一般に普及し始めたばかりの頃から、草の根BBSとか、個人サイトとか、テキストベースのチャットとか、そういう黎明期から触れていたような、まさに「古参兵」を指す言葉だと思っていた。
当時のインターネットは、今とは比べ物にならないくらい情報量が少なく、繋がるのも一苦労で、何をするにも手探りだったと聞く。
インターネットカフェなんて言葉もまだ一般的じゃなかっただろうし、自宅でISDNやADSLを使っているだけで「お、やるじゃん」みたいな感じだったんじゃないか。
僕が初めて触れたネットは、すでにADSLが主流になりつつあり、ブロードバンドという言葉が日常になりつつある頃だった。
それでも、まだホームページビルダーとかで自分のサイトを作ったり、フラッシュゲームに夢中になったり、チャットルームで深夜までだらだら話したり、という牧歌的な雰囲気は残っていたけれど、90年代のそれとは、たぶん全然違う。
だから、僕みたいな2000年代初頭からインターネットに触れている人間は、「老人」というよりも、せいぜい「中高年」くらいなんじゃないか、と思うんだよね。
なんか、そのあたりの線引きが曖昧というか、やけに一括りにされがちな気がして、ちょっとばかり居心地が悪い。
いや、もちろん、僕が「今の若い子たちはさぁ」なんて言い出したら、それはもう立派な老人ムーヴなんだろうけど。
まだそこまでじゃない、と自分では思いたい。
いや、思わせてほしい。
だって、僕、まだ20代だし、大学院生だし、実験の合間にファミレスでバイトしてるし、全然老いてないってば。
昔の自分を思い出すと、とにかく新しいものに飛びつくのが好きだった。
新しいガジェットが出ればすぐに欲しくなったし、新しいサービスが始まれば真っ先に試した。
初めてのオンラインゲームに熱中して、徹夜で仲間とダンジョンを攻略したり、オフ会と称して見知らぬ人たちと会ってみたり。
あの頃は、インターネットが提供してくれる可能性の広さに、ただただワクワクしていた。
情報の洪水に溺れることもなく、むしろその奔流に身を任せるのが楽しかった。
それが、今の自分はどうだろう。
新しいもの、確かに気になるけれど、すぐに飛びつくかと言われると、ちょっと考えてしまう。
いや、結構考える。
例えば、話題の新しいアプリとか、誰かが勧めてきても「ふーん、便利なんだね」で終わってしまいがち。
もちろん、大学の研究で使うツールとかは積極的に調べるけれど、個人的な好奇心で「とりあえず試してみるか!
」という衝動は、明らかに減った。
何よりも、面倒くささが先に立つようになった。
新しいアカウントを作るのが面倒、使い方を覚えるのが面倒、初期設定が面倒……。
そう、僕を突き動かす原動力は、好奇心よりも「怠惰」が勝るようになったのだ。
昔の自分と比べて変わったこと、それはやっぱり、この「怠惰」との付き合い方かもしれない。
昔は、怠惰な自分を許せなかった。
何かを始めようと思ったら、完璧にやり遂げなければ気が済まなかったし、途中で投げ出す自分を責めた。
でも今は、その怠惰をある程度受け入れている。
例えば、部屋の片付け。
昔なら「よし、今日は一日かけて完璧にするぞ!
」と意気込んで、結局疲れて中途半端に終わって自己嫌悪、なんてパターンだった。
今は「まあ、手の届く範囲だけやればいいか」と、ハードルを極限まで下げる。
するとどうだろう、意外とサッと片付いたりする。
あるいは、片付かなくても「まあ、明日でいいか」と、自分を許せるようになった。
この自己肯定感の低さと高さを、行ったり来たりしている感じだ。
習慣についてもそうだ。
昔は、語学学習とか筋トレとか、何か新しい習慣を始めようと思ったら、三日坊主で終わることがほとんどだった。
あの頃の僕は、おそらく「習慣化」という言葉の重みを知らなかった。
毎日続けることの難しさ、一度途切れたら再開するまでの心理的なハードルの高さ。
大学院に入ってからは、実験のサイクルで毎日同じ作業を繰り返すことが多くなったせいか、少しだけ習慣に対する考え方が変わった。
毎日同じ時間に研究室に行く、毎日同じルーティンで実験を進める。
そういう「やらざるを得ない」習慣は、意外と続くものだ。
でも、それ以外の「やろうと思ってできないこと」は、相変わらず山積している。
例えば、積読の山を崩すこと。
研究に必要な専門書はもちろん読むけれど、息抜きに買った小説やエッセイは、ページの隅がちょっと折れたまま、ずっと本棚に鎮座している。
あるいは、部屋の隅に溜まった洗濯物。
週末にまとめて洗うのが常なんだけど、なぜかいつも金曜の夜に「まあ、明日でいいか」となる。
そして土曜の朝には「今日は疲れてるから、午後からでいいや」となり、日曜の夕方になってようやく重い腰を上げる。
結局、乾燥機にぶち込んで「文明の利器、最高!
」と叫びながら、その日の夜にちゃんと畳まずに、また部屋の隅に放置してしまう。
このパターン、もう何年も変わらない。
変わらないことといえば、この、どうしようもない怠惰もその一つだ。
いや、むしろ年々加速しているような気さえする。
昔は、新しい発見や知識を得るために、多少の面倒は厭わなかった。
知的好奇心が、僕を突き動かす最強の燃料だった。
でも今は、その燃料が、どうにも枯渇気味というか、燃費が悪くなっているというか。
新しいことを覚える手間よりも、今ある知識やスキルでどうにかやりくりする方が、よっぽど楽だと思ってしまう。
それは、成長の停止を意味するのかもしれない、と薄々感じてはいるけれど、まあ、なんとかなるだろう、とどこか楽観視している。
この前、研究室の先輩と話していたら、彼が「最近、新しいことを覚えるのが本当に億劫になった。
脳が新しい情報を拒否してる気がする」と嘆いていた。
先輩は僕より数年年上だけど、彼も僕と同じように2000年代初頭にインターネットに触れ始めた世代だ。
もしかしたら、僕らが「インターネット中高年」とでも呼ぶべき世代は、皆多かれ少なかれ、こういう「怠惰との共存」みたいなフェーズに突入しているのかもしれない。
新しい刺激を求めるエネルギーが、ほんの少しずつ、静かに減退していく。
それは、決して悪いことばかりではないのかもしれないけれど。
ファミレスで隣の席の子供が「ママ、これ、しいたけの匂いがする!
」と必死に訴えていたあの頃の、純粋な嫌悪感とか、未知への抵抗とか、そういうエネルギーって、大人になるにつれて、どんどん洗練されていくんだな、と思う。
洗練、というよりも、鈍磨、と言った方が適切かもしれないけれど。
僕だって、椎茸の匂いにはもう何の抵抗もない。
代わりに、新しいアプリの利用規約を隅々まで読むのが面倒、という、もっと日常的で、もっと大人げない抵抗感がある。
結局、僕が「インターネット老人」なのか「中高年」なのか、その定義は曖昧なままだ。
でも、どちらにせよ、僕がインターネットに触れてきた期間は、確実に僕の思考や行動パターンに影響を与えている。
そして、その影響は、僕がどれだけ怠惰な人間であるか、ということと、切っても切り離せない関係にあるように思える。
さて、今週末こそは、溜まった洗濯物をちゃんと畳んで、本棚の積読も少しでも減らそう。
そう心に誓いつつ、多分また「まあ、明日でいいか」と言ってしまうだろう。
その「明日」が、いつか本当に来ることを願いながら、僕は今日も、目の前のチーズインハンバーグを、しみじみと味わうのだった。
そして、隣の席に新しいお客さんが座って、また面白い会話が聞こえてこないかな、なんて、こっそり期待している。
その方が、きっと美味しいから。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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