📝 この記事のポイント
- 郵便受けに入っていたチラシの量が尋常じゃなくて、ゴミ袋が必要になった。
- ポストから取り出しては、とりあえずリビングのテーブルの隅に積み上げる。
- その「とりあえず」が曲者で、気づけばそこは小さな「紙の奈良公園」と化しているのだ。
郵便受けに入っていたチラシの量が尋常じゃなくて、ゴミ袋が必要になった。
たかがチラシ、されどチラシ。
ポストから取り出しては、とりあえずリビングのテーブルの隅に積み上げる。
その「とりあえず」が曲者で、気づけばそこは小さな「紙の奈良公園」と化しているのだ。
週に一度は整理しよう、と誓うんだけど、誓うだけ誓って、結局週末に焦って一気に捨てる。
この繰り返し。
三日坊主どころか、一週間坊主にもなれないのが私の常。
ある朝、パートへ向かう電車の中吊り広告で、大阪市内に出没した鹿の話が目に入った。
なんでも、奈良県は「エリア外の鹿は保護の対象外」と明言し、クマやイノシシと同じ扱いになるらしい。
つまり、駆除の対象。
鹿さんの運命はいかに、と他人事ながらも少し胸が締め付けられた。
奈良公園で観光客にせんべいをねだる姿とは、似ても似つかない厳しい現実が、そこにはある。
昔の私だったら、この手のニュースを見ては「ふーん」で終わっていたかもしれない。
いや、むしろ「大阪って、野生動物も出てくるんだ」と、ちょっとした都会のサファリパーク感に胸を躍らせていたかも。
昔の私は、もう少し世の中のあらゆる事象を、良く言えばシンプルに、悪く言えば表面だけで捉えていた気がする。
目の前のことに全力投球で、それ以外のことは脳みその片隅にも入ってこない。
例えば、高校生だった頃。
あの頃はとにかく部活と友人との時間が全てだった。
放課後、友達と制服のまま喫茶店に寄って、当時の流行り歌を聴きながら、他愛もない話でケラケラ笑っていた。
テスト勉強?
ああ、もちろんするけれど、それは部活の練習を休むための言い訳に過ぎなかった。
家に着けば、鞄を放り投げて、お風呂もそこそこに漫画を読み漁る。
母親からは「あんたはいつも、やりっぱなしで困る」と小言を言われていたけれど、右から左へ受け流す達人だった。
まさに、風に舞う落ち葉のよう。
軽やかで、どこにも根を下ろさない。
「明日から本気出す!
」が口癖だった。
それは勉強に関しても、部屋の片付けに関しても、いや、人生のあらゆる局面において。
明日になれば、まるで魔法のように全ての課題が解決されると、本気で信じていたフシがある。
今思えば、なんて楽天家なんだろう、と呆れる。
その楽天さが、当時の私を支えていたのかもしれないけれど、時々、そのツケが回ってきては、慌てて友達にノートを借りたり、母親に泣きついたりしていた。
それが、いつの間にか「とりあえず、今できることをやっておくか」という思考回路に変わった。
いや、変わったというよりは、変わらざるを得なくなった、というのが正直なところかもしれない。
結婚して、子どもが生まれて、パートに出るようになって。
毎日、洗濯物を畳んで、夕飯の献立を考えて、お風呂を洗って。
一つ一つの小さなタスクを、その日のうちに片付けないと、翌日には山のように積み重なって、どうにもならなくなることを知った。
特に洗濯物。
あれは本当に厄介だ。
朝、慌てて乾燥機から出した洗濯物を、とりあえずリビングのソファに積んでおく。
それが午後には子どもの脱ぎ散らかした制服と靴下、夫の着替え、と増えていく。
夜には小さな「布の富士山」が完成している。
週末にまとめて畳もう、なんて考えたら最後、もう何が誰のものだか分からなくなる。
結局、休日に半日かけて格闘することになるのだ。
あれほど無駄な時間はない。
だから、今はもう諦めて、お風呂上がりにでも、その日の分だけは畳むようにしている。
えらい、私。
自分を褒めてあげたい。
でも、全部が変わったわけじゃない。
相変わらず、三日坊主は健在だ。
例えば、健康のために始めたウォーキング。
最初の数日は張り切って、万歩計アプリを起動して、近所の公園まで足を延ばす。
朝日を浴びて、小鳥のさえずりを聞きながら歩くのは、なかなか清々しい。
公園のベンチで、おばあちゃんたちがラジオ体操をしているのを見て、「私も明日から参加してみようかな」なんて思ったりする。
ところが、三日目を過ぎたあたりから、雲行きが怪しくなる。
朝、目が覚めても「今日はちょっと体が重いな」とか、「昨日、歩きすぎたから、今日は休んで明日に備えよう」とか、様々な言い訳が頭の中を駆け巡る。
そして四日目には、もうすっかり忘れている。
ウォーキングシューズは玄関の隅で、寂しそうにしている。
まるで、大阪に迷い込んだ鹿のように、私もまた、習慣という名の「エリア外」に放り出されてしまうのだ。
「明日に備える」と言いつつ、次の日にウォーキングを再開することは、まずない。
結局、そのウォーキングシューズが再び出番を迎えるのは、別の「何かを始めよう」と決意した、数ヶ月後だったりする。
ああ、なんて無駄なエネルギーなんだろう。
あの鹿さんも、もしかしたら「今日はちょっと、この場所で休憩して、明日、奈良に戻ろう」なんて思っていたのかもしれない。
そう考えると、なんだか他人事じゃない気がしてくる。
昔は、そういう自分のだらしなさを、あまり深く考えなかった。
それが私だから、と開き直っていた部分もある。
でも今は、少しだけ違う。
そのだらしなさの裏に隠れている、もっと根深い「何か」があるんじゃないか、とふと考えるようになった。
それは、新しいことを始めることへの小さな億劫さだったり、現状維持への無意識の安心感だったり、はたまた、失敗することへの漠然とした恐れだったりするのかもしれない。
高校生の息子を見ていると、昔の自分を重ねてしまうことがある。
彼もまた、勉強机の上には読みかけの漫画と、脱ぎ散らかしたジャージが山になっている。
テスト前になると「やばい、やばい」と言いながら、結局、前日に詰め込み始める。
でも、ちゃんと赤点ギリギリでクリアしてくるから、私も強くは言えない。
まるで、あの大阪の鹿が、なんとか都会の厳しい環境を生き抜いているように。
それでも、息子は息子なりに、きちんと自分の場所を見つけている。
友達とゲームをして笑い転げたり、好きなバンドのライブ映像を食い入るように見つめたり。
彼の「好き」に対する情熱は、私の三日坊主とは比べ物にならないくらい、熱くて長続きする。
そこに、私が失ってしまった「何か」があるような気がするのだ。
ゾーンに入る、とでも言うのだろうか。
私も昔は、漫画を描いたり、小説を書いたりするのが好きだった。
徹夜してでも、描き続けられた。
あの頃の集中力は、どこへ消えてしまったんだろう。
今は、一時間も集中して何かに取り組むと、すぐに「ちょっと休憩しようかな」と、お茶を淹れたり、スマホを触ったりしてしまう。
結局、休憩の方が長くなりがちだ。
奈良の鹿は、奈良公園という明確な「エリア」の中で生きている。
そこから一歩足を踏み出せば、途端に「野生動物」というカテゴリーに分類され、手厚い保護から外れてしまう。
その境界線は、私たち人間が勝手に引いたものだけれど、鹿にとっては命運を分けるほどに重い。
私の日常にも、そんな目に見えない「エリア」があるのかもしれない。
例えば、「習慣のエリア」。
このエリアの中にいる間は、なんとか続けられる。
毎日同じ時間に起きる、朝食を食べる、パートに行く。
これらはもう、体に染み付いているから、意識しなくてもこなせる。
でも、そこから少しでも逸脱しようとすると、途端に心がブレーキをかける。
ウォーキングしかり、部屋の片付けしかり、新しい趣味しかり。
その「習慣のエリア」を広げることって、ものすごく難しいことなんだな、と、鹿さんのニュースを見て改めて思った。
私たちは、自分自身で引いた見えない境界線の中で、案外、安全に収まっていたい生き物なのかもしれない。
新しいことに挑戦するのは、まるで未知のエリアに足を踏み出すようなもの。
そこには、予測できない危険や、失敗という名の「駆除」が待ち受けているような気がして、つい尻込みしてしまう。
でも、大阪に迷い込んだ鹿さんは、きっと奈良公園の境界線を越えて、新しい世界を見たんだろう。
それは、もしかしたら怖くて、不安だらけだったかもしれないけれど、彼にとっては、新たな冒険だったのかもしれない。
結果的に厳しい運命が待ち受けているとしても、その一歩を踏み出した勇気は、すごいことだ。
私だって、郵便受けのチラシの山を放置する自分を笑い飛ばしながらも、たまには「習慣のエリア」から一歩踏み出してみたい。
例えば、毎日、寝る前に5分だけ、読みかけの本を読んでみるとか。
それも無理なら、寝る前に今日あった楽しかったことを三つ、頭の中で数えてみるとか。
小さなことからでいい。
奈良の鹿さんのように、いきなり大都会へ飛び出すのは無理でも、まずは、自宅の庭先を一周するくらいの気持ちで。
そうすれば、いつか私も、新しい習慣という名の「自分だけの奈良公園」を、少しずつ広げていけるのかもしれない。
そして、その公園で、気ままに草を食むように、新しいことと共存できる日が来ることを、今はただ、ぼんやりと夢見ている。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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