📝 この記事のポイント
- 宅配便の再配達を3回も逃して、ついに営業所まで取りに行った。
- もうね、自分のうっかり具合に呆れるというより、ちょっと感動すら覚えるんですよ。
- まるで昔の恋愛ドラマのワンシーンみたいだ、なんてくだらないことを考えながら、自転車を漕いだ。
宅配便の再配達を3回も逃して、ついに営業所まで取りに行った。
もうね、自分のうっかり具合に呆れるというより、ちょっと感動すら覚えるんですよ。
どうしたらここまで完璧にすれ違えるのか。
まるで昔の恋愛ドラマのワンシーンみたいだ、なんてくだらないことを考えながら、自転車を漕いだ。
営業所のカウンターで荷物を受け取った後、ふと隣を見ると、休憩スペースに小さな売店がある。
そこで見つけたのが、地元のパン屋さんのあんバターサンド。
これ、以前妻と「美味しいらしいよ」と話していたやつだ。
まさかこんなところで出会うとは。
迷わず一つ買って、その場でかぶりつく。
甘さ控えめの粒あんと、バターの塩気、ふかふかのパン。
再配達のドタバタが、一瞬でご褒美に変わるんだから、人生って面白い。
自宅に戻ると、リビングのソファで妻がタブレットを眺めていた。
僕が買ってきたあんバターサンドを差し出すと、「あら、あなたも食べたいって言ってたやつ!
」と嬉しそうに受け取ってくれる。
半分こにして、それぞれコーヒーを淹れて一息ついた。
妻がタブレットに目を戻すと、何やら真剣な顔をしている。
「これ、読んだ?
」と、僕に画面を見せてきた。
そこに表示されていたのは、田中優菜さんという人が描いた「考えすぎ人間が反戦デモに行くまで」というマンガの記事だった。
正直、僕はそういうニュースをあまり深追いしないタイプだ。
情報が多すぎて、どれが本当でどれが違うのか、分からなくなるのが苦手だから。
でも、妻はこういう世の中の動きに敏感で、いつも色々なことを調べている。
「これね、話題になってるみたいよ。
反戦デモに参加した理由を、漫画で描いてるんだけど、それが賛否両論なんだって」と妻が教えてくれた。
「ふーん」と生返事をしながらも、あんバターサンドの最後の一切れを口に運ぶ。
妻は記事を読みながら、「すごく考えてるんだなあって思うんだけど、一部の人からは『デモを安易に考えている』とか『軽薄だ』って言われているみたいね」と眉を下げた。
僕の頭の中では、あんバターサンドの甘じょっぱさがまだ渦巻いている。
考えすぎ人間か。
僕なんかは、あんバターサンドを食べるかどうかも、あんまり深く考えない人間だ。
美味しいそう、食べよう、それだけ。
でも、その「それだけ」の選択すら、実は日々の無数の選択の積み重ねなんだろうな、なんてぼんやりと思った。
結局、僕はそのマンガを妻の隣でざっと読ませてもらった。
なるほど、主人公の「考えすぎ人間」が、あれこれ悩んで、迷って、それでもやっぱり自分の目で見て、感じたことを信じて行動する、という内容だった。
マンガの中の彼女は、デモに行くことすら「ちゃんと意味があるのか」と自問自答している。
その真面目さに、僕なんかは「そこまで考えなくてもいいのに」と思ってしまうけれど、きっと彼女にとっては、そこまで考えないと行動できないんだろう。
僕が宅配便の再配達を3回も逃して、営業所まで行くことになった理由も、突き詰めれば「もう少し早く家を出ればよかったのに」とか「なんでインターホンに気づかなかったんだ」とか、色々考えすぎた結果、最終的に取りに行った、という行動に繋がるわけで。
結局、人間って、みんな何かしらを「考えすぎ」て、何かしらの行動をしてるんじゃないかな。
マンガを読み終えた後、妻が「このマンガ、すごく共感する部分もあるんだけど、やっぱりデモっていうと、ちょっと身構えちゃう人もいるのよね」と呟いた。
僕もそう思う。
僕らの世代がデモと聞くと、学生運動のイメージが強く残っているからか、どうしても「過激」とか「熱血」みたいな言葉と結びつけがちだ。
でも、マンガの中の彼女は、とても静かに、そして個人的な理由でそこに参加している。
それは、僕らの知っている「デモ」のイメージとは、少し違うのかもしれない。
昔、新宿の居酒屋で飲んでた時、偶然デモ行進に遭遇したことがある。
道行く人が皆、怒った顔をしていて、プラカードを掲げていた。
その時の僕らは、店の中から「すごいねぇ」なんて言いながら、少し遠巻きに見ていたっけ。
でも、あの人たちの中にも、きっと今回のマンガの主人公のように、たくさん悩んで、考えて、それでも声を上げずにはいられなかった人がいたんだろうなぁ。
「でもさ」と僕は妻に言った。
「こういうマンガが話題になるってことは、多くの人が『考えすぎ』て、そして『どう行動したらいいか』って迷ってるってことでもあるんじゃないかな」妻は僕の言葉に頷いた。
「そうかもしれないね。
昔は、もっと白黒はっきりしてたというか、世の中の意見も二極化してた気がするけど、今はグラデーションだもんね」たしかに、昔はテレビのニュースだって、もっと単純明快だった気がする。
今は、色々な情報が溢れていて、どれを信じるか、信じないか、その判断すら、もう一つの「考える」ことになっている。
僕が昔、新婚旅行でハワイに行った時、現地の人が「アロハ」って挨拶してくれるのがすごく心地よかったんだけど、あれもただの挨拶じゃなくて「思いやり」とか「尊重」の意味が込められてるって、後で知って感心したことがある。
言葉一つにしても、奥が深いんだよな。
僕らの時代は、まだ「空気を読む」とか「みんなと同じ」が美徳とされる部分が強かった。
だから、デモなんてものに参加する人は、特別な人たちだ、という感覚があったかもしれない。
でも、このマンガの主人公は、いたって普通の、僕らの隣にいてもおかしくないような「考えすぎ人間」だ。
デモに行く前には、ちゃんとヘアオイルをつけて髪を整えて、お気に入りの服を着ていく。
そういう細部の描写が、すごくリアルだった。
まるで、コンビニで新商品のスイーツを選ぶみたいに、悩んで、考えて、そして決断する。
僕だって、コンビニのレジ横で売ってる揚げたてコロッケを一つ買うかどうかで、今日の夕食の献立を考え直したりするもんね。
そのコロッケ一つで、食卓の雰囲気が変わったりするんだから。
そう考えると、田中優菜さんのマンガが賛否両論になるのも、当然なのかもしれない。
だって、みんなそれぞれ「考えすぎ」てきたことや、そこから得た結論が違うんだから。
ある人にとっては「安易だ」と感じられても、別の人にとっては「よくぞ言語化してくれた」となる。
それは、僕がスーパーで特売品の鶏むね肉を前にして「今日は唐揚げか、それともチキン南蛮か…」と悩むのと、同じくらい個人的で、そして時に壮大な「考えすぎ」の結果なんだろう。
僕だって、たまに夕飯の献立を考えるのが面倒になって、結局近所の美味しいお弁当屋さんで買って帰ることがあるんだけど、その時だって「家族の健康を考えたら自炊すべきか、でもたまには楽したい…」みたいな葛藤が、頭の中で繰り広げられている。
誰かにとっては「ただお弁当を買っただけ」でも、僕にとっては「考えすぎ」の末の、小さな、でも確かな決断だったりする。
結局、僕も妻も、そのマンガについて「なるほどねぇ」としか言わなかったけれど、心の中ではそれぞれの「考えすぎ」が渦巻いていたような気がする。
別に、僕らが何か行動を起こすわけじゃない。
でも、こういう「考えすぎ人間」たちの行動や葛藤に触れることで、僕らの日常の何気ない選択や決断も、実はたくさんの「考えすぎ」の上に成り立っているんだな、と再認識する。
ほら、今日の夕飯だって、冷蔵庫に余ってる大根をどう料理するか、今から「考えすぎ」が始まるわけだ。
大根の煮物か、それともサラダにするか。
それとも、いっそ大根おろしにして、昨日スーパーで買った高級ソーセージに添えるか。
この選択だって、僕にとっては立派な「考えすぎ」のテーマなんだよね。
みんなも、きっとそうだよね?
日常の小さなことから、世の中の大きなことまで、僕らは案外、みんな「考えすぎ人間」なのかもしれない。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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