📝 この記事のポイント
- 休日の昼下がり、ソファで寝転んでいたら猫に顔を踏まれて目が覚めた。
- どっしりとした重みに、一瞬、何かに襲われたのかと身構えたが、ゆっくりと目を開けると、毛むくじゃらの額とつぶらな瞳がすぐそこにあった。
- 猫は満足げに喉を鳴らし、私の胸の上で丸くなる。
休日の昼下がり、ソファで寝転んでいたら猫に顔を踏まれて目が覚めた。
どっしりとした重みに、一瞬、何かに襲われたのかと身構えたが、ゆっくりと目を開けると、毛むくじゃらの額とつぶらな瞳がすぐそこにあった。
ああ、いつものことか。
ため息とともに、もう一度まぶたを閉じる。
猫は満足げに喉を鳴らし、私の胸の上で丸くなる。
その重みは、昼寝の続きを許さない。
ぼんやりと天井の染みを数えながら、ふと、昨日目にした奇妙なコメントを思い出した。
何の変哲もない、ただの朝ごはんの写真に、「製麺師の才能もありますね」とあったのだ。
いや、ただ食パンを焼いて目玉焼きを乗せただけである。
麵の要素はどこにもない。
コメント主のプロフィールを確認すれば、よくある謎のアカウントで、いわゆるインプレゾンビというやつだ。
彼らは一体、何をどう判断して、あのコメントを書き込んだのだろう。
あるいは、何も判断していないのか。
もしも、私がいつもと違う投稿をしたら、彼らはどう反応するのだろうか。
例えば、普段は横書きで流れてくる文字を、突然、縦書きで投稿してみたら。
彼らのAIなのか、それとも中の人が人力でやっているのかは知らないけれど、視覚的にいつもと違うものが現れた時、彼らはそれにどう「適応」するのだろうか。
「縦書きって珍しいですね」とか、ストレートなコメントが来るのか。
それとも、相変わらず内容とはかけ離れた、とんちんかんな褒め言葉を並べるのか。
「書道家のような美しい文字ですね」とか、そんな感じかもしれない。
いや、あのトーンだと、きっと「素晴らしい文学作品ですね」とか言い出すに違いない。
想像すると、ちょっと面白くて、試してみたくなる衝動に駆られた。
その衝動は、買い物の時によく似ている。
先日も、スーパーで妙な調理器具を見つけてしまった。
棚の隅っこにひっそりと置かれていたそれは、「簡単!
〇〇メーカー」と銘打たれた、手のひらサイズのプラスチック製容器だった。
何が作れるのか、具体的には書かれていなかったが、パッケージにはふわふわとしたパンケーキの写真と、いかにもプロが作ったようなオムレツが写っている。
値段はたったの800円。
これひとつで、朝食が劇的に変わるかもしれない。
そう思ったら、もう手に取っていた。
家に帰って、早速説明書を読み込む。
どうやら、卵と牛乳を混ぜて振るだけで、簡単にふわふわのオムレツやパンケーキが作れるらしい。
半信半疑で試してみたが、結果は惨敗。
振れば振るほど、泡は立つものの、肝心のふわふわ感は全く出ない。
ただただ、卵液が飛び散り、キッチンが汚れるだけだった。
夫は私の奮闘を横目に、「製麺師の才能でもあるの?
」と、あのインプレゾンビもどきのコメントを放ってきた。
いや、確かに泡立てる動作は麺を打つ動きにも似ているが、これは完全に失敗である。
結局、その〇〇メーカーは、一度使われたきり、キッチンの奥底に眠っている。
たまに、食器棚の奥から顔を出すたびに、「ああ、また無駄なものを買ってしまった」と小さな後悔が押し寄せる。
でも、捨てられない。
いつか、何かに使えるかもしれない、という淡い期待が、いつも私の判断を鈍らせるのだ。
そういう意味では、私の衝動買いの歴史は、さながら奇妙な博物館のようだ。
たとえば、数年前、雑貨店で見つけた妙に長い菜箸。
普通の菜箸の1.5倍くらいの長さがあり、「揚げ物もラクラク!
」というポップに惹かれて買ってしまった。
しかし、いざ使ってみると、長すぎて取り回しが悪い。
フライパンの端から端まで届くのはいいが、手の動きが鈍くなり、むしろ揚げ物を落としそうになる。
結局、普通の菜箸に戻ってしまったが、あの長い菜箸も、いつか出番が来るかもしれないと、シンク下の引き出しに居座っている。
邪魔だとわかっているのに、なぜか手放せない。
他には、海外旅行に行った際、現地のスーパーで衝動買いした、やたらとカラフルなスパイスセット。
見た目の可愛さに惹かれ、使うあてもなく購入したものの、家に帰ってきてみれば、どれもこれも香りが強すぎて、日本の料理には合わない。
エスニック料理を作る機会もめったにないため、未だにほとんど手付かずで、棚の奥で異彩を放っている。
たまに夫がそれを見て、「これ、いつ使うの?
」と聞いてくるが、「そのうちね」と曖昧に答えるしかない。
その「そのうち」がいつ来るのか、私自身もよくわかっていない。
考えてみれば、私はいつも、何か新しいものや、ちょっと変わったものに惹かれがちだ。
それがネット上の奇妙なコメントであれ、スーパーで見かける珍しい調理器具であれ、何か予想外の反応や効果を期待してしまう。
でも、たいていの場合、結果は私の期待を裏切るか、あるいは期待通りにならず、結局は元の状態に戻ってしまう。
あの縦書きの投稿も、きっと試したところで、彼らの反応はいつもと変わらないかもしれない。
いや、もしかしたら、何の反応もないかもしれない。
それはそれで、ちょっと寂しい気もする。
でも、それでいいのだ。
無駄な買い物だとわかっていても、あの〇〇メーカーは、いざという時の「もしも」のために、キッチンの奥でスタンバイしている。
長い菜箸も、いつか私がプロの料理人になったら、その真価を発揮する日が来るかもしれない。
カラフルなスパイスだって、いつか突然、無性に異国の味が恋しくなる日が来るかもしれない。
そして、インプレゾンビさんたちの奇妙なコメントも、私の日常にささやかな笑いと、ちょっとした好奇心をもたらしてくれる。
縦書き投稿の実験は、まだ実行していないけれど、いつかきっと、気が向いたら試してみるだろう。
そして、きっと私は、また「製麺師の才能もありますね」とでも言われるのだろう。
その時、私はきっと、クスッと笑って、また猫の顔を踏まれないように、そっと目を閉じる。
結局、私は変わらない。
そして、それでいいのだ。
それが、私の日常なのだから。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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