組合からのお祝いと、五百円玉貯金の遠い道のり

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📝 この記事のポイント

  • エレベーターで乗り合わせた人と気まずい沈黙が続いて、降りるのが早まった。
  • 階数ボタンを押した瞬間、彼も同じ階だったと気づき、互いに「あ、ども」と会釈したきり。
  • 降りるまでのわずか十数秒が、まるで無限の拷問のようだった。

エレベーターで乗り合わせた人と気まずい沈黙が続いて、降りるのが早まった。

階数ボタンを押した瞬間、彼も同じ階だったと気づき、互いに「あ、ども」と会釈したきり。

降りるまでのわずか十数秒が、まるで無限の拷問のようだった。

あと二階分くらいなら我慢できたのに、と後で少し反省する。

こういう、日常の小さな摩擦が、私の生活にはそこかしこに転がっている。

まるで、足元の石ころにつまずきそうになるたびに、反射的に「あぶない」と声が出るようなものだ。

先日、職場の組合から結婚祝い金をいただいた。

私は独身なのだが、長年勤続していることもあり、何かと区切りの良い年には組合から寸志が出る慣例がある。

今回は「永年勤続と独身貴族を謳歌したあなたへ」という、なんとも含蓄のある文言が添えられていた。

それはいいとして、問題はその現金の渡され方だった。

ごく普通の事務用封筒に、まるでスーパーで買ったばかりのネギをそのまま紙袋に突っ込んだかのように、無造作に、本当に無造作に、数枚のお札が挟まっていたのだ。

一万円札が何枚か、帯も外されたまま。

え、これ、このまま渡す?

と、一瞬固まった。

まるで、お賽銭箱に放り込まれる直前の、生々しいお札の姿を目の当たりにしたような気分だ。

なんだろう…こう、札で顔叩かれてる感、というのだろうか。

別に、組合に不満があるわけじゃない。

むしろ、毎年何かしら気遣ってくれるし、年末には近所の銘菓「カステラハウス・ミヤザキ」の焼き菓子セットをくれる粋な計らいもある。

だから、余計にこの、剥き出しのお札の衝撃は大きかった。

まさか、過去に「結婚祝いはちゃんと封筒に入れて渡せ!

」とでも揉めた人がいたんだろうか。

いや、それにしては雑すぎる。

まるで「はい、これ、もうこれでいいでしょ」と言われているような。

想像すると、ちょっと面白い。

もしそうなら、その揉めた人の怒りは、封筒一枚で鎮まる程度のものだったのか、それともこの雑な渡し方が、新たな火種を生む原因になったのか。

どちらにしても、人間関係の複雑さと、それに伴う事務処理の適当さが見え隠れするようで、妙に納得してしまう自分がいた。

昔の私は、もう少し世間体を気にしていた。

例えば、こんな渡し方をされたら、きっと顔には出さずとも、心の中で盛大に毒づいていたに違いない。

「なんて非常識なの!

」「私をなんだと思ってるの!

」と、自尊心を傷つけられたように感じたかもしれない。

二十代の頃なんて、コンビニでお釣りをもらう時でさえ、店員さんがレジ袋に入れるのをモタモタしていると、心の中で軽く舌打ちをしていたものだ。

急いでいるわけでもないのに、なぜか焦りを感じていた。

友人とのランチでも、お会計の時に割り勘で一円単位まで出すことに異様にこだわったりして。

今思えば、なんて小さい人間だったんだろうと、苦笑してしまう。

結婚についても、二十代後半から三十代にかけては、漠然とした焦りがあった。

周りが次々と結婚していくのを見て、「私もそろそろかな」「素敵な人に出会いたいな」なんて、雑誌の占い記事を真剣に読んでいたっけ。

あの頃の私は、結婚というイベントが、まるで人生のチェックポイントであるかのように思い込んでいた。

もちろん、当時の私も、愛する人と幸せな家庭を築きたいという純粋な気持ちはあったけれど、それと同じくらい「世間から取り残されたくない」という強迫観念に囚われていたのかもしれない。

休日の過ごし方も、やたらと「充実」を求めて、美術館に行ったり、カフェ巡りをしたり。

本当は家でゴロゴロしたいのに、誰かに見られているかのように、常にアクティブでいようと必死だった。

それが、三十代後半を過ぎ、四十代になる頃には、徐々に肩の力が抜けてきた。

焦燥感は薄れ、一人でいることの気楽さや自由さに気づき始めた。

友達が結婚して、子どもが生まれて、生活スタイルが変わっていくのを目の当たりにしても、「ああ、みんな幸せそうで良かったね」と心から思えるようになった。

同時に、自分自身の生き方にも自信が持てるようになってきたというか、開き直りというか。

「私は私」という、シンプルな結論にたどり着いたのだ。

今の私は、あの剥き出しのお札を見ても、「まあ、いいか」で済ませられる。

いや、正確には「まあ、いいか。

でも、ちょっと面白いな」という感覚。

あの時の店員さんが、もしかしたらすごく疲れていたのかもしれない、とか、あの割り勘にこだわっていた自分は、実は誰かに認めてほしかっただけなのかもしれない、とか。

そんな風に、物事を多角的に捉えられるようになったのは、年齢を重ねたおかげなのだろう。

マンションの郵便受けに、時々誰かのチラシがはみ出したままになっているのを見ても、「ああ、また誰か急いでたのね」と、穏やかな気持ちでそっと押し込んであげる余裕ができた。

昔なら「ちゃんと入れなさいよ!

」と、心の中で憤慨していたに違いない。

変わったことといえば、そんな風に、他人の粗雑さや不完全さに対して、昔ほどカリカリしなくなったことだろう。

そして、自分自身の粗雑さにも、少しは寛容になった。

例えば、週末に「よし、今日は部屋の模様替えをするぞ!

」と意気込んでも、結局ソファで映画を観て終わり、なんてことは日常茶飯事だ。

昔なら、そんな自分を責めて、自己嫌悪に陥っていたかもしれない。

「私はなんて怠け者なんだ!

」と。

でも今は、「まあ、いっか。

映画も観たかったし」と、あっさり自分を許せる。

これもひとえに、時間という名の魔法がもたらした変化なのかもしれない。

でも、変わらないこともある。

それは、習慣と怠惰の間の、微妙な攻防だ。

例えば、健康のために「毎日ストレッチをしよう」と決意する。

初日は張り切って、YouTubeの動画を見ながら三十秒ずつ各部位を伸ばす。

二日目もなんとか。

しかし三日目あたりになると、「今日はちょっと疲れてるから」「明日にしよう」という悪魔の囁きが聞こえてくる。

そして、あっという間に三ヶ月が経ち、「あれ、私、いつからストレッチやめたんだっけ?

」となる。

これはもう、私の人生における永遠のテーマだ。

五百円玉貯金もそうだ。

一年前、テレビで「五百円玉貯金で三十万円貯まった!

」という特集を見て、私もやってみようと、ダイソーで可愛い豚の貯金箱を買ってきた。

最初は意気揚々と、お釣りに五百円玉ができるたびに貯金箱へ。

チャリン、という音が心地よかった。

しかし、ある時、どうしても小銭が必要になり、貯金箱をひっくり返してしまった。

そこには、二千五百円分の五百円玉が、わずか五枚。

豚の貯金箱は、まだスカスカだった。

それ以来、五百円玉を貯金箱に入れる習慣は、どこかへ雲散霧消してしまった。

今は、キッチンカウンターの端で、豚の貯金箱が寂しげに私を見つめている。

まるで「あの時の情熱はどこへ行ったの?

」と問いかけているようだ。

こういう、やろうと思ってできないこと、続かないことの多さには、いい加減慣れた。

もう、諦めにも近い境地だ。

でも、不思議と悲壮感はない。

むしろ、「まあ、それが私だよね」という、妙な納得感がある。

人間、常に完璧である必要はないし、完璧であろうとすること自体が、実は人生を息苦しくさせているのかもしれない。

あの組合の担当者も、もしかしたら「ちゃんとした封筒に入れるの、もう面倒なんだよね」と、私と同じような諦めの境地にいたのかもしれない。

そう考えると、あの剥き出しのお札が、なんだか愛おしく思えてくるから不思議だ。

結局のところ、人生は思い通りにならないことばかりだ。

でも、その「思い通りにならない」ことの中に、クスッと笑えるような小さな発見や、ちょっとした気づきがある。

それが、日常という名の舞台を面白くしているのかもしれない。

五百円玉貯金は続かないけれど、映画を観る習慣は続いている。

そして、その映画の中で、また新たな発見をして、心の中で「ふむ、なるほど」と頷く。

そんな、ささやかな喜びが、今の私の生活を彩っている。

そしてきっと、また明日も、エレベーターで誰かと気まずい沈黙を経験し、ちょっとだけ早めに降りるのだろう。

そして、また「まあ、いっか」と、心の中で呟くのだ。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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