📝 この記事のポイント
- カラオケで十八番を歌ったら、キーが合わなくて途中でリセットした。
- いや、正確には二番のサビに入ったあたりで「これは違う」と確信して、潔くリセットボタンを押したのだ。
- 隣で熱唱していたシェアハウスの住人、タカシは「え、なんで? めっちゃ盛り上がってきたとこじゃん」と眉をひそめたが、僕にはわかる。
カラオケで十八番を歌ったら、キーが合わなくて途中でリセットした。
いや、正確には二番のサビに入ったあたりで「これは違う」と確信して、潔くリセットボタンを押したのだ。
隣で熱唱していたシェアハウスの住人、タカシは「え、なんで?
めっちゃ盛り上がってきたとこじゃん」と眉をひそめたが、僕にはわかる。
無理して歌い続けるのは、自分にも、曲にも、そして何より聴かされるタカシにも失礼というものだ。
結局、原曲キーから男性ボーカル向けに三つ下げて、ようやく僕の十八番は本来の輝きを取り戻した。
いや、輝きすぎたのかもしれない。
タカシが「お前、そんなに歌うまかったっけ?
」と驚いていたから。
そんなわけで、僕の歌唱力はキーに左右される、繊細なバランスの上に成り立っていることが改めて証明された日だった。
普段、僕らはそんなに歌が上手いとか下手とか、気にしていないつもりでいる。
でも、いざマイクを握って、自分の声がスピーカーから流れ出すと、急に「最高のパフォーマンスを!
」みたいな妙なスイッチが入るんだよね。
それでキーが合わないと、心の中で「あれ?
今日の俺、体調悪いのかな?
」とか「昨日食べ過ぎたせいか?
」とか、あらゆる言い訳を脳内で高速検索し始める。
最終的に「よし、リセットだ」となる。
これは、ある意味で自分と向き合う真剣勝負なのかもしれない。
最近、シェアハウスの僕らの間で、ちょっとした楽器ブームが来ている。
と言っても、まだ誰も楽器を買っていないし、練習すらしていない。
ただ、YouTubeでプロの演奏動画を見たり、「楽器って意外と安く始められるんだよな」なんて漠然とした会話を交わしているだけだ。
きっかけは、タカシが「なんか新しい趣味欲しいんだよね。
楽器とか良くない?
落ち着いた大人の趣味って感じ」と言い出したことだった。
僕は「それいいじゃん。
なんか渋くてかっこいいし、モテそう」と安易に同意した。
そこで、僕らは「楽器は安上がりな趣味」という、今思えば恐ろしい勘違いを共有することになる。
まず、タカシが目をつけたのはギターだった。
「アコースティックギターなら、なんかこう、キャンプとかで弾いたら絵になりそうじゃん?
」と、完全に見た目から入っている。
まあ、僕も人のことは言えないけど。
で、彼はネットでアコギの値段を調べ始めた。
最初は「入門用セットで一万円くらいからあるじゃん!
安い!
」と興奮していたが、数分後には「ん?
なんかこれ、レビューが微妙だな。
『すぐに弦が錆びた』とか『音程が狂いやすい』とか書いてある。
やっぱ安すぎるのはダメか」と、急に現実的になる。
結局、彼が「これくらいなら一生使えるかな」と見つけたのは、本体だけで十数万円する、いかにも「玄人向け」なギターだった。
そこからさらに、アンプとかエフェクターとかピックとかケースとか、どんどん追加されていくわけだ。
最終的に「いや、これはちょっと……」と渋い顔をして、その日はギター談義は終了した。
僕が興味を持ったのは、打楽器だった。
別にドラムとかではなく、もっとこう、シンプルに叩くやつ。
「ジャンベとか、なんかこう、自由な感じで良さそうじゃない?
手で叩くだけだし」なんて言っていたら、別のシェアハウスの住人、ユウキが突然、「打楽器って言ってもピンキリだからね。
例えばマリンバとか、買おうと思ったら普通に200万円とかするから」と、とんでもない爆弾発言を投下してきた。
僕らは「は?
マリンバ?
」「200万円?
」と、揃って目を丸くした。
マリンバって、あの幼稚園とかで見たことある、木琴のでかいやつだよね?
それが200万円?
どう考えても安上がりな趣味の範疇を超えている。
ユウキは得意げに「まあ、マリンバはちょっと特殊だけど、パーカッションって奥が深いんだよ。
スティック一本でも全然音が違うし、種類もめちゃくちゃ多いからね」と語り出した。
彼、まさか打楽器経験者だったのか。
聞いてみたら、小学校のクラブ活動で少しやっていただけらしい。
でも、その時の「プロのマリンバ奏者のリサイタル」で聞いた値段が、なぜか彼の記憶に深く刻まれているらしいのだ。
200万円のマリンバ。
その響きは、僕らの「楽器は安上がりな趣味」という幻想を木っ端微塵に打ち砕いた。
結局、その日の夜は、楽器の話から派生して、これまで僕らが「これって、意外と金かかるな」と驚いた趣味の話になった。
タカシは「釣りだよ、釣り。
竿一本で済むと思ったら大間違い。
リールに糸にルアーにクーラーボックスにライフジャケットに……」と、延々と釣具のレパートリーを語り始めた。
ユウキは「自転車もだよ。
ママチャリで満足するわけないんだから。
ロードバイク買ったら、次はウェアにヘルメットにライトにサイコンにボトルケージに……」と、まさかのサイクルウェア談義に突入。
僕も負けじと「いやいや、料理だってそうだよ。
最初はフライパンと包丁があればいいと思ってたけど、気づいたら圧力鍋とかフードプロセッサーとか、謎のスパイスとか、どんどん増えていくんだから。
特にあの、ちょっといいオリーブオイルとか、一回買っちゃうと、もう普通のには戻れないんだよね」と、得意げに語った。
そう、料理。
僕らのシェアハウスでは当番制で、週に二回くらい僕が担当する。
正直、最初はめんどくさいなと思っていたけど、最近はちょっとした楽しみになっている。
特に、新しいレシピに挑戦して、それがうまく行った時の達成感は格別だ。
この前は、ちょっといいスーパーで「国産鶏むね肉」が安くなっていたから、それを使ってチキン南蛮を作ってみたんだ。
タルタルソースも手作りで。
もう、その日の夕食は、みんな「うまっ!
」「これお店の味じゃん!
」と大絶賛。
僕も鼻が高かった。
でも、次の僕の当番の時、ちょっと調子に乗って「今日は洋風に攻めてみるか」と、鶏肉をバジルソースで焼いてみたんだ。
これがまた、微妙な仕上がりで。
鶏肉はちょっとパサつくし、バジルソースはなんだか水っぽい。
みんな「……おいしいよ」と、やけにゆっくりした声で言ってくれたけど、その顔には「チキン南蛮どこいった?
」と書いてあるのが丸わかりだった。
やっぱり、得意な料理で勝負するのが一番だよね。
冒険も大事だけど、信頼を失うのは一瞬だ。
あの時の僕の気持ちは、カラオケでキーが合わないまま歌い続けて、聴いているみんなが気まずい顔をしている時のそれと、全く同じだった。
結局、僕もタカシも、高額な楽器を買うには至らなかった。
でも、この「楽器は安上がりな趣味」という誤解から始まった一連の会話は、僕らに一つの気づきをもたらした。
それは、「趣味って、意外と沼が深い」ということだ。
どんな趣味でも、入り口は気楽に見えても、一歩足を踏み入れたら、そこには無限の選択肢と、それらを追求するための出費が待ち構えている。
そして、一度「もうちょっと良いもの」を知ってしまうと、なかなか後戻りはできない。
例えば、普段の食事がそうだ。
僕は時々、仕事帰りにコンビニでチキン南蛮を買って帰ることがある。
手作りのチキン南蛮の美味しさを知っているから、コンビニのそれは「まあ、こんなもんか」という感想になる。
でも、疲れて何も作りたくない時や、急にお腹が空いた時には、あのコンビニのチキン南蛮が最高の救世主になる。
あの甘酢とタルタルの組み合わせは、なんだかんだ言って中毒性があるし、温かいご飯との相性も抜群だ。
手軽に手に入る「そこそこ美味しいもの」って、本当にありがたい存在なんだよね。
そう考えると、趣味も同じなのかもしれない。
最高のマリンバを手に入れることはできなくても、カラオケでキーを調整して気持ちよく歌ったり、コンビニのチキン南蛮で手軽に満足したり。
それだって立派な「趣味」であり、「楽しみ」なんだ。
完璧を求めすぎずに、今の自分に合った形で、ささやかな喜びを見つける。
それが、僕ら20代のシェアハウス暮らしには、ちょうどいいバランスなのかもしれない。
今日も、当番制の夕食は僕が作る番だ。
冷蔵庫には、あの時のリベンジとばかりに、また鶏むね肉が入っている。
今度は、手堅く鶏肉と野菜の和風炒めにする予定だ。
新しいスパイスは買わない。
いつもの醤油とみりんと酒で、安心できる味を目指す。
失敗しないことが、何よりも大事なんだ。
もちろん、食後のデザートは、コンビニで買ってきた新しい味のシュークリーム。
きっと、シェアハウスの僕らは、今日もそんな日常の小さな「そこそこ」で、幸せを感じるんだろう。
ね、みんなもそうだよね?
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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