📝 この記事のポイント
- 久しぶりに料理をしたら、塩と砂糖を間違えて悲惨な結果になった。
- 正確には、味噌汁の味見で、味噌を溶かす前に味見スプーンですくった顆粒だしを、てっきり塩だと勘違いし、そこへさらに砂糖を足してしまったのだ。
- 一口飲んだ妻の顔は、まさに「この世の終わり」といった表情で、息子もなぜかその顔を見て泣き出した。
久しぶりに料理をしたら、塩と砂糖を間違えて悲惨な結果になった。
正確には、味噌汁の味見で、味噌を溶かす前に味見スプーンですくった顆粒だしを、てっきり塩だと勘違いし、そこへさらに砂糖を足してしまったのだ。
一口飲んだ妻の顔は、まさに「この世の終わり」といった表情で、息子もなぜかその顔を見て泣き出した。
僕の休日ランチは、かくして地獄絵図と化したのである。
そもそも僕が台所に立つこと自体、年に数回あるかないかのレアイベントだ。
在宅勤務になってからというもの、昼食は妻が作ってくれるか、自分でちゃちゃっとカップ麺で済ませるかの二択で、包丁を握る機会はめっきり減った。
たまに奮発してスーパーで買ったアジの開きを焼くくらいが関の山。
そんな僕がなぜ急に味噌汁を作ろうとしたのか。
それは、前夜に観た海外ドラマの影響が色濃い。
登場人物がやたらと「ヘルシー志向」を語っていて、それに感化されたのだ。
単純な男である。
妻が「日本の役者の演技って大袈裟だよね」とテレビに向かって呟くのを、僕はいつも「へー、そうなんだ」と聞き流していた。
洋画をほとんど見ない僕には、その感覚がいまいちピンとこなかったのだ。
まあ、日本のドラマや映画で役者さんが急に大声を出したり、顔をクシャクシャにして泣いたりする場面は確かに多い気がするけれど、それが「大袈裟」なのか「熱演」なのかの判断は、見慣れていないと難しい。
僕にとっての演技とは、良くも悪くもそういうものだった。
そんな僕に、ある日突然、天啓が訪れた。
いや、正確には、流行に乗っかっただけなのだが。
世間を賑わせた「ワンピース」の実写ドラマが配信された際、たまたま僕も軽い気持ちで見てみた。
漫画は昔読んでいたし、アニメも少しは知っている。
だから、どんな風に実写化されるのかという野次馬的な興味が勝ったのだ。
一話目からグイグイ引き込まれた。
特にルフィ役の俳優の、あの飄々とした感じがたまらなく良い。
そう、飄々としているのだ。
なんだかんだで全話一気見してしまった。
そして、見終わった後にフッと気づいた。
「あれ?
これって、もしかして…」と。
僕が感じたのは、登場人物たちの「ローテンション感」だった。
いや、決してネガティブな意味ではない。
むしろ、それが彼らの魅力なのだ。
例えば、感情が大きく動くシーンでも、日本のドラマのように全身で表現するのではなく、視線や口角のわずかな変化で心情を表す。
怒っているのに声のトーンは低いままで、でもその眼差しがゾッとするほど冷たい、とか。
逆に、めちゃくちゃ嬉しいはずなのに、ちょっとニヤリと笑うだけ、とか。
彼らは決して感情をストレートにぶつけない。
フィルターを通して表現しているかのような、抑制された演技なのだ。
それが、登場人物の内面にある奥行きを感じさせて、妙にリアルだった。
日本の俳優が演じるルフィなら、きっともっと腕をぶんぶん振り回して、大声で「海賊王に俺はなる!
」と叫び、怒りや喜びを爆発させるだろう。
それはそれで熱くて良いのだけど、実写版のルフィは、もっとクールで、どこか達観しているような雰囲気がある。
それでいて、内に秘めた熱い思いはビンビン伝わってくる。
この「内に秘める」というのが、きっと日本の演技と欧米の演技の大きな違いなのだろう。
僕の日常にも、この「ローテンション感」が忍び寄ってきた。
味噌汁の惨劇の後、妻は呆れ顔で僕の失敗を茶化すでもなく、ただ静かに新しい味噌汁を作り始めた。
その背中を見つめながら、僕はふと思ったのだ。
「あれ?
これって、怒ってる…のか?
でも、表情は無だぞ…」と。
僕だったら、きっと「ちょっと!
何やってんのよ!
」と声を荒げるか、少なくともため息の一つくらいはつく。
しかし妻は、静かに、そしてスッと、味噌とだしを取り出した。
その一連の動作に、僕はなぜか欧米の俳優のような抑制された怒りを感じ取ったのだ。
いや、妻は別に欧米の俳優ではないし、僕の失敗にそこまで怒ってはいなかったのかもしれない。
ただ単に「面倒くさいな」と思っていただけかもしれない。
でも、僕の脳内では勝手に「これは抑制された怒りだ!
奥深い!
」と解釈が進んでしまった。
完全にワンピース実写版の影響である。
普段から「どうせ僕の考えてることなんて誰も理解してくれない」と斜に構えている僕が、妻の無表情から感情を読み取ろうと必死になっている姿は、我ながら滑稽だっただろう。
結局、作り直された味噌汁は、ちゃんと温かくて美味しかった。
息子もゴクゴク飲んでくれた。
僕の失敗は、妻の冷静な対処によって見事に帳消しになったわけだ。
その日以来、僕は妻の何気ない言動や表情の端々に、勝手に「隠された意味」を探すようになった。
スーパーで特売の卵をカゴに入れた妻が、わずかに口角を上げたのを見て、「これは、今日の献立がオムライスであることを示唆しているのか!
」と深読みしたり、僕が洗い物をサボってリビングでゴロゴロしている時に、妻がフッと窓の外に目をやったのを見て、「これは、遠い海賊の航海に思いを馳せているのか!
」と勝手にストーリーを構築したり。
もちろん、そんな僕の深読みはほとんどが的外れで、妻に「何ニヤニヤしてるの?
」と怪訝な顔をされるのがオチなのだが。
でも、なんだかそれが面白いのだ。
これまで平坦に見えていた日常が、急に奥行きのあるドラマのように感じられる。
僕の勘違いが、僕なりの娯楽に昇華された瞬間である。
そういえば、昔はゲームにどハマりして夜な夜なコントローラーを握りしめ、次に写真に凝って週末ごとにカメラ片手に遠出をし、気がつけばどれも飽きていた。
でも、こうして日常にちょっとした「見方」の変化を取り入れるだけで、世界はガラッと変わる。
まさに、冒険の始まりというやつだろうか。
僕の目の前の味噌汁は、もう塩と砂糖を間違えることはないだろうが、その一口に込められた妻の感情を、僕はこれからも勝手に深読みし続けるのかもしれない。
きっとそれが、僕にとっての「海賊王への道」なのだ、と。
もちろん、妻には内緒の話である。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
📚 あわせて読みたい
