コンビニ弁当の湯気と平安時代のオタク、まさかの共通点

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📝 この記事のポイント

  • 近所のコンビニで、いつもと違う店員さんが弁当を温めすぎて湯気がすごい。
  • レンジのドアを開けた瞬間、まるで温泉旅館の露天風呂かと思うくらいの白い靄がモワッと立ち上って、一瞬、自分の頼んだ「チキン南蛮弁当」が仙人の食べ物みたいに見えた。
  • 店員さんもちょっとバツが悪そうに「あっ、すみません…」と声を漏らす。

近所のコンビニで、いつもと違う店員さんが弁当を温めすぎて湯気がすごい。

レンジのドアを開けた瞬間、まるで温泉旅館の露天風呂かと思うくらいの白い靄がモワッと立ち上って、一瞬、自分の頼んだ「チキン南蛮弁当」が仙人の食べ物みたいに見えた。

店員さんもちょっとバツが悪そうに「あっ、すみません…」と声を漏らす。

いやいや、謝ることないですよ。

むしろ食欲を刺激されるというか、ここまでしっかり温めてくれると「おお、今日はいけるぞ!

」って謎の気合いが入る。

ホカホカを通り越して、もう「アツアツの向こう側」に到達している弁当を受け取ると、指先に熱がじんわり伝わってきて、ビニール袋越しなのに「これは熱い!

」とわかる。

家まで徒歩3分なのに、その短い道のりでさえ冷めないんじゃないかと期待してしまうほどの熱量だった。

家に持ち帰り、テーブルに置いた弁当はまだ湯気をフツフツと立ち上らせていた。

蓋を開ければ、鶏肉の唐揚げが衣の中で油と秘伝のタレを抱え込み、熱気でテラテラと輝いている。

タルタルソースも心なしかトロッとしている気がする。

ご飯は米粒一つ一つが躍動しているような熱さで、レンチンしすぎてちょっと水分が飛んでしまったのか、普段より少しだけパサついているような気もするけれど、この熱さの前では些細なことだ。

むしろ熱々のご飯を頬張った時の「フハッ!

」と息を吐き出す瞬間が、冷めた弁当にはない醍醐味だったりする。

フーフーしながら食べるチキン南蛮は、いつもより罪悪感が薄れるというか、なんかこう、手間暇かけて作られたご馳走を食べているような錯覚に陥るから不思議だ。

そんな熱々のチキン南蛮を頬張りながら、ふとネットで目にしたある説を思い出していた。

「昭和にオタクは存在しなかった」という言説だ。

なんでも、当時は今ほどアニメや漫画の情報が豊富じゃなかったし、インターネットもないから、深掘りする環境がなかった、みたいな論調だった気がする。

いやいや、そんなはずはないだろう、と僕は思った。

だって、人間の「好き」という感情は、時代やテクノロジーの進化とは関係なく、もっと根源的な部分にあるはずだからだ。

好きなものを見つけたら、とことんのめり込みたい、もっと知りたい、語り合いたい。

この衝動は、きっといつの時代も変わらないんじゃないだろうか。

例えば、僕が筋トレにハマり出した時もそうだった。

最初は漠然と「体を鍛えたいな」くらいだったのに、YouTubeでトレーニーの動画を見始め、筋トレ雑誌を読み漁り、プロテインの種類やサプリメントの成分について調べ始めると、もう止まらない。

仕事の休憩時間にはジムの空き状況をチェックし、帰宅したらすぐにウェアに着替えて、近所のジムへ向かう。

雨の日も風の日も、実家暮らしの僕を心配する母の視線を感じながらも、僕は黙々とバーベルを挙げ続ける。

まるで、何かに憑かれたかのように。

これも立派な「オタク」活動じゃないか。

「オタク」という言葉が市民権を得たのは比較的最近かもしれないけれど、その概念自体はもっと昔からあったんじゃないかと僕は思う。

だって、考えてもみてほしい。

平安時代には既に、『源氏物語』の光源氏にドハマりした、今で言う「ガチ恋勢」のような人たちがいたはずだ。

貴族の女性たちは、物語の中で描かれる光源氏の魅力に文字通り骨抜きにされ、夜な夜な巻物を繰りながら、彼の言動や振る舞いを妄想し、友人と語り合ったに違いない。

きっと「えー、あそこは紫の上より明石の上が最高じゃない?

」「いやいや、あの手の男は浮気性だからね」みたいな、今と全く変わらない会話が繰り広げられていたはずだ。

中には、物語の展開に一喜一憂しすぎて、夜も眠れなくなって体調を崩す人もいたかもしれない。

推しが結婚したと聞いて寝込んだり、推しが新しい女性と関係を持ったと知って嫉妬に狂ったり。

それって、今の「推し活」と何ら変わらないじゃないか。

情報量が少ないからこそ、想像力で補完する。

文字だけの世界だからこそ、自分だけの「推し」像を心の中で膨らませる。

むしろ、情報が溢れすぎている現代よりも、昔の方がより深く、純粋な「推し」への愛が育まれた可能性だってある。

当時の人々は、今のように画像検索で一瞬にして推しのビジュアルを確認したり、SNSでリアルタイムの情報を追ったりすることはできなかった。

だからこそ、たった数行の描写から、光源氏の顔立ちや声、立ち居振る舞いを脳内で完璧に再現し、その存在をまるで実在する人物のように感じていたのではないだろうか。

きっと、物語に登場する着物の色や柄一つにしても「あのシーンの光源氏の装束は最高だったわ」「いや、私は六条御息所のあの喪服姿に痺れたの」なんて、ディテールについてまで熱く語り合っていたはずだ。

現代の僕らが、アニメの作画の乱れに気づいたり、漫画の背景に隠された小ネタを発見したりするのと同じ熱量で。

僕の母も、昭和生まれだけど、昔から結構な「オタク」気質だ。

彼女が若い頃は、アイドル歌手の追っかけに夢中だったらしい。

テレビの歌番組を録画するために、家族がテレビを見ているのを遮って、チャンネルを死守していたとか。

雑誌の切り抜きを集めてスクラップブックを作り、アイドルの写真が載っている週刊誌を何冊も買っていたと笑いながら話してくれたことがある。

まるで、今の僕が漫画の限定版を集めたり、好きなトレーニーのサイン入りTシャツを買ったりするのと同じだ。

もちろん、当時は「オタク」なんて言葉はなかったから、「追っかけ」「ファン」「ミーハー」などと呼ばれていたのだろうけれど、熱量としては全く変わらない。

むしろ、今よりも情報が手に入りにくい時代だった分、その情熱は尋常じゃなかったはずだ。

手に入れた一枚の写真、テレビで見た数分間の映像、それら全てが彼女にとっての「推し」を構成する貴重な情報源だったのだ。

僕が筋トレの動画を繰り返し見て、フォームを研究するのと一緒だ。

そう考えると、人間の「好き」という感情の根っこは、本当に昔から変わっていないんだなと思う。

誰かに憧れたり、何かに夢中になったりする気持ちは、時代を超えて普遍的なものだ。

手段や表現方法が変わっただけで、その本質は脈々と受け継がれてきた。

むしろ、今よりも情報が少なかった時代だからこそ、人々はより深く、より純粋に、自分の「好き」と向き合っていたのかもしれない。

情報が溢れる現代だからこそ、僕らはもっと、自分の「好き」を信じていいんじゃないかな。

熱々のチキン南蛮弁当は、食べ進めるうちに冷めてきた。

最後の一口をフーフーせずに頬張りながら、ふと考える。

平安時代の人々も、きっと熱々のご飯をフーフーしながら食べていたのだろうか。

それとも、もっと上品に、ゆっくりと冷ましながら食べていたのだろうか。

想像してみると、ちょっと面白い。

もし僕がタイムスリップして平安時代に行ったとしたら、熱々のチキン南蛮弁当を片手に「現代の食べ物は熱々なんですよ!

」って驚かせてみたい。

そして、光源氏のオタクたちと熱く語り合ってみたい。

「源氏物語、結局どの巻が最高でした?

」って。

きっと、それぞれの「推し」について、夜が明けるまで語り合えるはずだ。

だって、僕らはみんな、好きなものに夢中になる「オタク」なんだから。

ね、みんなもそうだよね?


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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