📝 この記事のポイント
- エレベーターで乗り合わせた人と気まずい沈黙が続いて、降りるのが早まった。
- うちのマンションは、同じフロアに住んでいる人がほとんど顔見知りなんだけど、たまに誰かの友人らしき人や、宅配便のお兄さんと一緒になることがある。
- そういう時って、話しかけるのも変だし、かと言って全くの無言だと妙に気まずい空気になって、結局、私はいつもより一階早く降りてしまう。
エレベーターで乗り合わせた人と気まずい沈黙が続いて、降りるのが早まった。
うちのマンションは、同じフロアに住んでいる人がほとんど顔見知りなんだけど、たまに誰かの友人らしき人や、宅配便のお兄さんと一緒になることがある。
そういう時って、話しかけるのも変だし、かと言って全くの無言だと妙に気まずい空気になって、結局、私はいつもより一階早く降りてしまう。
で、階段を使いながら「別にこのままでも良かったんじゃないの」と自分にツッコミを入れる。
全く、何をやっているんだか。
そんな風に、ちょっとした気まずさから逃げるように日常を送っていると、ふと、先日目にしたニュースの言葉が蘇った。
「ぬるま湯、の痛ましさ」という、ある記事の見出しだった。
寝たきりの娘さんを殺めてしまったお母さんの事件。
詳細を知ると胸が押し潰されそうになると同時に、その「ぬるま湯」という表現が、どうにも頭から離れなかった。
もちろん、事件の背景にあったであろう絶望とは比べ物にならないけれど、私は私の日常の中で、それとは全く違う種類の「ぬるま湯」に浸かっているような気がしてならないのだ。
昔の私は、もっと色々なことに前のめりだった。
というより、そう思い込んでいたフシがある。
学生時代はサークル活動にバイト、社会人になってからも、新しい習い事を始めてみたり、会社の部署が変わるたびに「今度こそは!
」と意気込んで、関係部署の人たちに積極的に話しかけてみたり。
映画だって、封切りされたらすぐに劇場に足を運んで、パンフレットを隅々まで読むのが習慣だった。
週末は必ずどこかに出かけて、新しいカフェを見つけたり、ちょっと遠い街まで足を延ばしたり。
そうやって、常に何か新しい刺激を求めていたような気がする。
もちろん、それもまた、当時の私が浸っていた「ぬるま湯」だったのかもしれないけれど、少なくとも今の私よりは、熱量があったと思う。
それがいつからだろう。
劇場の座席に座って2時間じっとしているのが、どうにも苦痛に感じるようになってしまったのは。
家で配信サービスを使い始めたのがきっかけだったか。
家だと途中で一時停止できるし、トイレにも行けるし、ちょっとしたおつまみを用意することもできる。
そうなると、わざわざ外出してまで映画を観る、という行為が、途端に面倒なことに思えてくる。
最初は「これは新しい生活様式だ」なんて自分を正当化していたけれど、気がつけば、観たい映画リストだけが延々と積み重なり、結局一度も再生されないまま、何ヶ月も過ぎていく。
あの頃、どんなに面白い映画でも、上映期間が終われば二度と観られないかもしれない、という飢餓感にも似た感情があったからこそ、あんなに熱心に映画館に通っていたのかもしれない。
今や、いつでも観られる、という安心感が、そのまま怠惰に繋がっている。
皮肉なものだ。
変わったことと言えば、一番は行動の「腰の重さ」だろうか。
昔はフットワークが軽い方だったと思う。
急な誘いにも「行く行く!
」と二つ返事で乗っていたし、興味を持ったことにはとりあえず手を出してみる、というタイプだった。
それが今や、何か新しいことを始める前に、まず「面倒くさい」という感情が真っ先に顔を出す。
例えば、部屋の模様替えをしようと、雑誌やインターネットで色々調べて、頭の中では完璧なプランが出来上がっているとする。
でも、いざ家具を動かすとなると、「これを動かしたら床に傷がつくかも」「このスペースに置くものはどこに片付けよう」など、あれこれ考えているうちに、もういいや、と諦めてしまう。
結果、何年も同じ配置のまま、カーテンだけは三年ごとに変えている、という中途半端な状態。
この前、友人が遊びに来て「この部屋、昔から変わってないね」と何の悪気もなく言われた時は、思わず苦笑いしてしまった。
そうだよね、変わってないのよ。
変えられないのよ、私が。
一方で、変わらないこともたくさんある。
例えば、読書だ。
これは昔からずっと変わらず、私の生活に根付いている習慣の一つ。
本だけは、どんなに忙しくても、どんなに疲れていても、寝る前の数ページは欠かさない。
昔は書店で何時間も立ち読みして、これだ!
という一冊を見つける喜びがあったけれど、今はネットで注文することがほとんど。
配送業者さんが玄関先まで届けてくれるから、重い本を何冊も抱えて帰る必要もない。
これもまた、ある種の「ぬるま湯」なのかもしれないけれど、本を開いている間だけは、物語の世界にどっぷり浸れる。
登場人物の感情に共感したり、知らなかった知識を得たり。
それは、現実の「面倒くさい」から一時的に解放される、私にとっての聖域のようなものなのだ。
ただ、積読の冊数は、昔より確実に増えている。
これもまた、いつでも読める、という安心感の弊害だろうか。
図書館で借りた本は、返却期限があるから必死で読むのに、自分で買った本となると、とたんに気が緩む。
締切がないと、人間はここまで怠けるものなのか、と自分のことながら呆れてしまう。
習慣と怠惰。
この二つの言葉は、まるでコインの裏表のように、私の日常に潜んでいる。
毎日同じ時間に起きて、同じスーパーで買い物をし、同じルートで散歩をする。
この規則正しい生活は、一見すると「ちゃんとしている」ように見えるけれど、その実、新しいことへの挑戦を避けるための「怠惰な習慣」なのかもしれない。
だって、新しいスーパーに行けば、商品の配置が分からなくて戸惑うだろうし、新しい散歩道を選べば、途中で迷子になるかもしれない。
そういう、ちょっとした「面倒くさい」を避けるために、私は無意識のうちに同じ行動を繰り返しているのだ。
この前、コーヒーを淹れる時に、うっかりお湯を沸かしすぎて、カップに注いだら熱すぎて飲めなかったことがあった。
急いで冷まそうと、氷を入れようか、それとも少し時間を置こうか、とあれこれ悩んだ挙げ句、結局、冷めるまでしばらく放置してしまった。
その間、他のことをしていればいいのに、私はただ、テーブルの上のコーヒーカップをじっと見つめていた。
その時、ふと、あの「ぬるま湯」という言葉が頭をよぎったのだ。
熱すぎず、冷たすぎず、ちょうどいい温度。
それは一見快適に思えるけれど、そこから一歩踏み出すには、ちょっとした勇気と、ちょっぴりの「面倒くささ」を乗り越える必要がある。
自分は、この「ぬるま湯」の中で、いつまでこうしているのだろう。
もちろん、あの事件のお母さんのような、極限の状況とは全く違う。
私の「ぬるま湯」は、むしろ、心地よさすら感じるぬるさだ。
でも、その心地よさが、ひょっとしたら、私を動けなくしているのかもしれない。
いつか、このぬるま湯が、急に熱くなったり、あるいは凍るほど冷たくなったりする日が来るのだろうか。
その時、私はちゃんと、自力でそこから抜け出せるだろうか。
そんなことを考えながら、今日もまた、冷蔵庫に残っていた半額の鶏肉と、使いかけのネギを使って、いつもの夕飯を作る。
明日こそは、ちょっと凝った料理に挑戦してみようかな。
そう思って、レシピサイトを眺めるけれど、結局、いつものメニューに落ち着くんだろうな、と薄々感じている。
でも、まあ、それもまた、私なりの「ぬるま湯」の過ごし方なのかもしれない。
とりあえず、今日は熱すぎないように、お風呂の温度だけはちゃんと確認しておこう。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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