📝 この記事のポイント
- 図書館で借りた本の返却期限が過ぎていて、延滞金を払う羽目になった。
- たった六百円なんだけど、なんか妙に悔しい。
- でも、もうちょいどうにかならなかったのかな、このシステムって。
図書館で借りた本の返却期限が過ぎていて、延滞金を払う羽目になった。
三冊で六百円。
たった六百円なんだけど、なんか妙に悔しい。
いや、借りた私が悪いんですよ、ええ。
分かってるんです。
でも、もうちょいどうにかならなかったのかな、このシステムって。
だって、期限切れを教えてくれるメールは来るのに、なんで「はい、返却ボタン」みたいなのがないんだろ、図書館アプリ。
いや、きっとセキュリティとか、色々な大人の事情があるんだろうな、と、レジで延滞金を払いつつ、ぶつぶつ独り言を呟いていたら、受付のお姉さんが微かに笑いをこらえているのが見えて、慌てて「ごめんなさい、私、今変なこと言いましたね」と謝った。
家に帰って、しゅん、とソファーに沈み込んだら、膝の上にあずき色の毛玉が二つ、のそのそと乗ってきた。
我が家の猫、大福と最中だ。
私が落ち込んでいると、なぜかやたらと甘えてくる。
「慰めてくれてるの?
それとも単に暖かいから?
」なんて話しかけてみても、返ってくるのは「みゃー」という、どう考えても「まあ、どっちでもいいけどね」という感じの、実に適当な返事だ。
そんな猫たちを撫でていると、なんだか癒されるような、いや、むしろ「早く飯寄こせ」という圧を感じるような、なんとも言えない気持ちになる。
とにかく、今日のうっかり延滞金事件は、彼らにはまったく関係のない、人間界のちっぽけな悩みなのである。
しかし、この六百円、どこに消えるんだろう。
図書館の運営費?
新しい本の購入費?
そう考えると、まあ、寄付したと思えばいいか、と自分を納得させてみるものの、やっぱりちょっと悔しい。
この悔しさが、また次のうっかりにつながるような気がしないでもない。
そんな、どうでもいいことを考えながら、ぼんやりとテレビをつけたら、ちょうどプロ野球中継が流れていた。
あ、そういえば最近、「野球は『ながら見』に最適」って話、よく聞くよね。
ネットの記事の見出しでよく見るやつだ。
私も、在宅で仕事をしながら、なんとなくテレビをつけてる時って、大体、野球か旅番組だ。
旅番組は、突然、秘境の温泉とか出てきて「うわ、行きたい!
」ってなるから、集中力が途切れることもしばしば。
その点、野球はいい。
淡々と試合は進んでいくし、解説の人の声も心地よいBGMになる。
たまに、バッターボックスに推しの選手が出てきたら、ちょっとだけ手を止めて、前のめりになって「おお、行け!
」って声を出す。
で、結果がどうあれ、またすぐに仕事に戻れる。
この、程よい集中と脱力のバランスが、確かに絶妙なんだよな。
でも、「ながら見」って、ちょっと失礼じゃない?
って、ふと疑問に思った。
いや、選手の皆さんは、一球一球に魂を込めているわけでしょ。
監督さんも、コーチさんも、裏方さんも、みんな真剣な顔で、膨大な時間と労力を費やしているわけで。
それを、私がパソコンに向かって、猫の毛を払いながら、「まあ、流し見でいっか」なんて言ってたら、なんか申し訳ない気がする。
いやいや、そんなことない。
むしろ、その「ながら見」を許容する懐の深さこそが、野球の魅力なんじゃないか?
と、勝手に擁護してみる。
だって、スポーツ観戦って、本来もっとこう、熱狂的で、息をのんで、一喜一憂するもの、っていうイメージが強いじゃない。
サッカーとか、バスケとか、展開が速い競技は、ちょっと目を離した隙に、とんでもないことが起きたりする。
トイレに行くタイミングも、お茶を入れるタイミングも、見計らわないと大変なことになる。
その点、野球は、なんていうか、緩急がある。
間の取り方が、実に日本的というか、計算し尽くされているというか。
いや、計算なんかしてないか。
自然と、そうなってるだけだよね、きっと。
で、その「ながら見」の究極の形って何だろう、と考えてみた。
ラジオかな。
音だけで楽しむ野球って、めちゃくちゃ「ながら見」に適してる。
いや、「ながら聴き」か。
ご飯を作りながらとか、散歩しながらとか。
実況と解説の言葉だけで、頭の中で球場の情景を描き出すのって、結構楽しい。
そういえば昔、祖父がよくラジオで野球を聴いていたっけ。
テレビもあるのに、わざわざラジオ。
あの頃は、その心理がまったく分からなかったけど、今ならちょっと分かる気がする。
自分のペースで、想像力を働かせながら、ゆるやかにスポーツを楽しむ。
なんか、いい。
とても良い。
そんなことを考えながら、スマホで「野球 ながら見 理由」とか調べてみた。
すると、出てくる出てくる。
同じような意見を持つ人たちの声が。
「間が多いから」「展開がゆっくりだから」「BGMに最適」「家事しながら見れる」。
うんうん、やっぱりそうなんだ。
みんな同じように思ってるんだ。
で、さらに調べていくと、面白い意見を見つけた。
「野球は、人生に似ているから」。
え、なに、急に哲学的なこと言い出した?
と一瞬思ったけど、よくよく読んでみると、なるほど、と膝を打った。
人生って、ずっと全力疾走してるわけじゃないじゃないですか。
たまには立ち止まったり、休憩したり、遠回りしたり、思わぬアクシデントに見舞われたり。
野球も、まさにそんな感じ。
ホームランで一発逆転があれば、エラーで凡ミスもある。
三振続きで沈黙する時もあれば、ヒットが繋がって猛攻を見せる時もある。
人生の縮図、とまでは言わないけれど、確かに、私たちの日常のアップダウンに、妙にリンクする部分があるのかもしれない。
で、そこからさらに脱線して、私の「ながら見」にまつわるこだわりを思い出してしまった。
私、映画とかドラマを「ながら見」するのが、どうしてもできないんですよ。
いや、できる人はできるんだろうし、むしろそれが普通、みたいな風潮もあるけれど、私にとってはそれはもう、冒涜に近い。
せっかく作り手の方々が、音響も、映像も、セリフの一つ一つも、完璧なタイミングで仕込んでくださっているのに、それを「ながら見」で台無しにするなんて、もったいなくてできない。
だから、映画を観る時は、おやつも飲み物も、全部準備してから、部屋を暗くして、猫たちには「静かにしててね」と一応声をかけてから、完全に集中して、観る。
もし途中でトイレに行きたくなったら、一時停止して、用を済ませてから、また再生する。
いや、これ、自分でもちょっと意味不明なこだわりだとは思うんですよ。
別に誰に怒られるわけでもないし、むしろもっと気軽に楽しめばいいじゃん、って言われることも多々ある。
でも、このこだわりだけは、なぜか譲れない。
きっと、映画館で育った世代だから、とか、そういうことなんだろうか。
いや、そんな大層なもんじゃないな。
ただの、私の「そういうもんだ」っていう、思い込みと頑固さの現れだ。
だから、野球は私にとって、その厳格な「映画鑑賞ルール」から解き放たれる、一種の解放区なのかもしれない。
だって、野球は「ながら見」が許されるんだもん。
むしろ、「ながら見」を推奨されている、とさえ感じる。
仕事の合間に、休憩がてら、ちらりとスコアボードを確認して、おお、勝ってるじゃん、とか、あー、また負けてる、とか、そういう緩い関わり方が、すごく心地良い。
決して、真剣じゃないわけじゃない。
応援する気持ちは、ちゃんとある。
でも、その気持ちの質が、映画を観る時とは、ちょっと違うだけ。
なんていうか、生活の一部に、自然と溶け込んでいる感じ。
まるで、大福と最中が、私の日常に当たり前に存在しているように。
彼らが、ただそこにいるだけで癒されるように、野球も、ただ画面の隅で流れているだけで、なんだか安心する。
そうやって、ぼんやり野球を眺めながら、ふと、延滞金のことを思い出した。
あの六百円も、もしかしたら、私の人生における、ちょっとした「間」だったのかもしれないな、なんて、都合のいい解釈をしてみたりする。
いや、ただのうっかりミスだろ、と言われたらそれまでだけど。
でも、そのうっかりがあったから、こんな風に、猫を撫でながら野球を眺めて、どうでもいいことをつらつらと考える、こんな時間が生まれたんだから、まあ、いっか。
そんな風に、ちょっとだけ心が軽くなる。
結局のところ、私の生活は何も変わらない。
延滞金は払ったし、次の本の返却期限はちゃんと確認するけど、多分またうっかりするだろう。
そして、猫たちは相変わらず、私の膝の上でゴロゴロと眠り、野球は今日も、どこかの球場で、ゆっくりと、時に劇的に、展開していくんだろう。
それが、なんだか、すごく平和で、いいな、と思う。
あ、そういえば、今日の晩御飯、何にしようかな。
冷蔵庫に昨日半額で買った鶏むね肉があったはず。
よし、あれで何か作ろう。
そんな、些細な日常が、また続いていく。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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