📝 この記事のポイント
- これは、私にとっての「あるある」であり、もはやルーティンだ。
- でも、店内を歩くうちに、吸い寄せられるようにカゴは膨らんでいく。
- この間は、排水溝ネットに加え、なぜかミニサイズの観葉植物、猫の形をしたお皿、水筒を洗うスポンジ、そして「きっといつか使うだろう」という謎の確信で握りしめた、手のひらサイズのノートが5冊。
100円ショップで必要なもの1つだけ買うつもりが、15個持ってレジに並んだ。
これは、私にとっての「あるある」であり、もはやルーティンだ。
最初は、台所の排水溝ネットだけ。
それだけを買って、颯爽と店を出る。
それが理想の私、なんだよね。
でも、店内を歩くうちに、吸い寄せられるようにカゴは膨らんでいく。
この間は、排水溝ネットに加え、なぜかミニサイズの観葉植物、猫の形をしたお皿、水筒を洗うスポンジ、そして「きっといつか使うだろう」という謎の確信で握りしめた、手のひらサイズのノートが5冊。
結局、レジでは「合計1650円です」と言われ、ああ、またやってしまった、と苦笑いするわけだ。
家に帰って、「これ、本当に必要だった?
」と自問自答する時間も、セットでついてくる。
観葉植物はすぐに枯れてしまうし、猫のお皿は義理の娘が「可愛いけど、うちの猫、人間のお皿でしか食べないよ」と冷静に指摘してくる。
水筒用スポンジは、まあ使う。
ノートは、未だに手つかずのまま、棚の奥で眠っている。
でも、不思議と後悔はしない。
その時、確かに私は「これは必要だ」と信じていたのだ。
その信念は、たとえ根拠が薄弱でも、私にとっては揺るぎないものだったりする。
この「その時は必要だと信じていた」という感覚、買い物にはつきものだ。
昔、CDショップで、試聴もせずにジャケ買いしたアルバムが、家に帰って聴いてみたら全然趣味じゃなかった、なんてことも数えきれない。
それでも、あのジャケットの魅力は、今でも覚えている。
あの時の私は、あのジャケットが放つ「きっと素晴らしい音楽が詰まっているに違いない」というオーラに、抗えなかったのだ。
それは、一種のロマンかもしれない。
最近、ネットのニュース記事で、ちょっと面白いものを見つけた。
ある漫画雑誌の、昔の号が、とんでもない値段で取引されているというのだ。
それは、「SLAM DUNK」というバスケットボール漫画が新連載として表紙を飾った、今から30年以上前の少年ジャンプ。
それが、なんと7万7千円で販売されている、という記事だった。
私は思わず「すごい!
初めて見た!
」と声を上げてしまった。
隣でソファに寝転がって漫画を読んでいた義理の娘が、ギョッとした顔でこちらを見ていたけれど、私はそんなことには構わず、記事を読み進めた。
「当時絶対買ってたはず」「これから新連載号だけ買おうかな」といったコメントが並ぶ。
わかる、わかるぞ、この気持ち。
私も毎週ジャンプを買っていた世代だ。
あの頃、あの雑誌は、たったの200円くらいだったはずだ。
それが、30年以上の時を経て、7万7千円。
値段が、当時のおよそ385倍。
コーヒーを飲んでいた手が止まった。
あの頃、もし私が「このジャンプは、将来とんでもない価値になるぞ」と予見できていたら、毎週2冊ずつ買っていたかもしれない。
1冊は読む用、もう1冊は保存用。
そして今頃、私は億万長者……いや、そこまでではないか。
でも、ちょっとしたお小遣いくらいにはなっていたかもしれない。
そんな妄想を繰り広げながら、ふと、あの頃の自分の買い物について思いを馳せてみた。
少年時代の私は、毎週のジャンプの他に、駄菓子屋で色々なものを買っていた。
きなこ棒、うまい棒、ヨーグル。
そして、カードダス。
あれも、一枚一枚が「当たり」なのか「外れ」なのか、開けてみるまでわからない、一種のギャンブルだった。
キラキラのレアカードが出た時の高揚感は、今でも鮮明に思い出せる。
あの頃、私はたった20円や50円の小さな買い物に、無限の夢と希望を託していた。
7万7千円のジャンプと、50円のカードダス。
金額は桁違いだが、そこにある「もしかしたら」という期待感は、もしかしたら同じだったのかもしれない。
義理の娘が、私がコーヒーカップを握りしめたまま固まっているのを見て、「お父さん、どうしたの?
ぼーっとして」と声をかけてきた。
「いや、昔のジャンプが7万7千円で売られてるっていう記事を読んでね」と言うと、「へえ、すごいね。
そんなの、お金持ちしか買えないじゃん」と、あっさり言われてしまった。
確かにそうだ。
今の私に、7万7千円の漫画雑誌を買う余裕があるかと言えば、正直、ない。
いや、ないこともないかもしれないけれど、その前に買うべきものがたくさんある。
例えば、妻が欲しいと言っていた、ちょっといい炊飯器とか。
結局、あの時買っていたはずのジャンプも、どこかへ行ってしまった。
部屋の片隅に積み上げられ、やがて古紙回収に出されたのだろう。
あの頃、私は漫画を読み終えると、すぐに次の週の発売を心待ちにしていた。
読み終わった雑誌に、未来の価値を見出すなんて、考えもしなかった。
目の前の「面白い」を貪ることに夢中だったのだ。
それはそれで、幸せなことだったのかもしれない。
再婚して、義理の娘と三人暮らしになってから、私の買い物に対する意識も少し変わった、ような気がする。
例えば、スーパーで食材を買う時。
「これ、あの二人は食べるかな?
」「もう少し安くて、美味しいものはないかな?
」と、自分の好みだけでなく、家族の顔が浮かぶようになった。
以前は、自分一人分なら、適当な惣菜で済ませていたけれど、今はきちんと野菜を買って、ちょっと凝った料理に挑戦してみたりもする。
もちろん、失敗することの方が多いけれど。
この間も、張り切って作ったグラタンが、義理の娘から「お父さん、味薄い」と辛辣な評価を受け、妻には「まあ、努力は認めるわ」と慰められた。
衝動買いも、全くなくなったわけではない。
この前も、ホームセンターで、特に必要でもないのに最新型の高圧洗浄機を買ってしまった。
広告の「玄関のタイルが新築のように!
」という文句に、まんまと乗せられてしまったのだ。
家に帰って、妻に「また無駄遣いして」と呆れられ、義理の娘には「お父さん、そんなのいつ使うの?
」と聞かれ、「いつか使うんだよ!
」と、あの100円ショップでノートを5冊買った時と同じような、根拠のない自信で言い返した。
結局、まだその高圧洗浄機は一度も使っていない。
物置の奥で、埃をかぶっている。
それでも、私はあの時の自分を否定しない。
あの時、私は「これがあれば、きっと家族みんなが気持ちよく過ごせるはずだ!
」という、ささやかな夢を見ていたのだ。
その夢は、まだ実現していないけれど、いつかきっと、玄関のタイルをピカピカにする日が来るだろう。
その日まで、高圧洗浄機は、私の心の片隅で、静かにスタンバイしている。
私はきっと、これからも「これ、本当に必要?
」と自問自答しながら、それでも「きっと必要だ!
」と信じて、色々なものを買ってしまうのだろう。
100円の排水溝ネットから、7万7千円の少年ジャンプ、そして、いつか使う高圧洗浄機まで。
衝動買いをして、後で少し後悔して、でも、なんだかんだで使ってみたり、結局使わなかったり。
それでいいのだ。
それが、私の日常であり、私の人生の一部なのだから。
そして、その失敗の積み重ねこそが、もしかしたら、未来の私をクスッと笑わせてくれる、ちょっとした宝物になるのかもしれない。
そう思えば、今日の100円ショップでの15個の買い物も、決して無駄ではなかった、と、少しだけ胸を張れるような、そうでもないような、そんな気がしている。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
📚 あわせて読みたい
- 透析治療費の悩み、私がどう解決したか教えちゃう!
- 【私も100歳まで安心!】60代からの老後資金計画|年金不安を解消できた私の具体的な一歩
- 【月8000円節約!】私が試したPB商品で、物価高に負けない生活を手に入れた話

