コチュジャンと機内食と、約束の時間

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📝 この記事のポイント

  • 帰宅したら、同じ建物の別の部屋のドアを開けようとしていた。
  • 何度か鍵を差し込んでもスカスカして、ようやく「あれ? 」と首を傾げる。
  • 朝、燃えるゴミを出し忘れたのも、昨日、スーパーで特売の卵を買い忘れたのも、きっと同じ脳の働きなんだろう。

帰宅したら、同じ建物の別の部屋のドアを開けようとしていた。

何度か鍵を差し込んでもスカスカして、ようやく「あれ?

」と首を傾げる。

自分の部屋はもうひとつ奥だった。

まったく、歳を取るとこんなことばかりだ。

朝、燃えるゴミを出し忘れたのも、昨日、スーパーで特売の卵を買い忘れたのも、きっと同じ脳の働きなんだろう。

こういう些細なドジを踏むたび、なんだか自分が人間として少しずつ「ゆるんで」いくような気がして、ちょっとばかり寂しくなったり、いやいや、これも老いの味わいというものだと無理やり納得したりする。

最近は、約束の時間もよくうっかりしてしまう。

特に人に迷惑をかけるわけではない、自分だけの約束なのだが、それでもやはり情けない。

例えば、毎週水曜日の午後は、近所の公園でゲートボール仲間と一戦交えるのがルーティンになっている。

いや、なっていた、と言うべきか。

どうも最近は、その水曜日を、火曜日だと思い込んだり、木曜日だと勘違いしたりして、うっかり公園に行きそびれることが増えた。

先週などは、ちょうどゲートボールの時間に、釣り番組の再放送に熱中してしまい、気がつけば日が傾いていた、なんてこともあった。

もちろん、仲間には「風邪気味でね」とか「腰が痛くて」とか、それらしい言い訳はする。

するとみんなも「お互い様だからね、無理はしないで」と優しく言ってくれる。

その優しさが、また私のダメ人間に拍車をかけるのかもしれない。

「いやいや、本当はテレビ見てました」なんて正直に言えるわけもない。

そんな私だが、若い頃は結構きっちりした方だったと記憶している。

会社の会議には5分前には着席。

出張の計画は完璧に練り上げ、手帳は予定で真っ黒。

それが、どうだろう。

定年して数年。

釣りの仕掛けを忘れる。

散歩に出たつもりが、目的地の図書館を通り過ぎてしまい、結局家に引き返す。

挙げ句の果てに、自分の部屋のドアすら間違える始末。

いやはや、人間とはかくも変わるものなのか。

それとも、これが本来の私で、これまで無理してきっちりしていただけなのか。

そんなことを考えながら、ようやく自室のドアを開け、いつもの定位置に腰を下ろす。

さて、そんな「ゆるみっぱなし」の日常を送る私に、先日、ちょっとした「衝撃」があった。

海外旅行だ。

息子の家族が企画してくれた韓国旅行で、飛行機に乗る機会があった。

機内食といえば、なんだか洒落たプラスチック容器に、ミニトマトがちょこんと乗っていたり、小さなパンが添えられていたり、まあ、上品なものだというイメージがあった。

ところが、出てきた機内食に、私は思わず二度見した。

白いご飯、チキン、ナムルといった一般的なおかずに加え、小皿にはキムチ。

そこまではまあ、想定内だ。

問題は、その隣に鎮座していた「コチュジャンのチューブ」だった。

それはもう、スーパーで売っているような、あのデカいチューブである。

指でつまむような小袋入りではない。

カレー粉のチューブよりも一回りも二回りも大きい、あのサイズだ。

「え、これ、まさか、全部使うの…?


 私は戸惑った。

機内食でこんなに豪快なコチュジャンが出てくるなんて。

しかも、こんな大量のコチュジャンを、果たしてどうやって使えばいいのか。

お好みで、なんてレベルじゃないだろう。

とりあえず、ご飯の端っこにちょこっとだけ絞り出してみる。

赤い塊が、にゅるりと出てくる。

まるで、畑のミミズが顔を出したみたいだ。

これを少量混ぜて食べてみたが、正直、辛さと甘みが強すぎて、素材の味がどこかへ行ってしまう。

私は困惑しながら、周りの乗客たちの様子を伺った。

すると、驚くべき光景が目に飛び込んできた。

彼らは皆、躊躇することなく、そのデカいコチュジャンのチューブを、ご飯の上やチキンに、まるで絵の具を絞り出すかのように、豪快に、そして惜しみなく、まるまる一本を絞り出しているのだ。

ある人はご飯全体が真っ赤になるまで混ぜ、またある人はチキンにたっぷり塗って、まさに「これでもか!

」という勢いで食べている。

「うそだろう…」
 私の小さな常識が、ガラガラと音を立てて崩れていく。

彼らは皆、韓国の方々だ。

きっと、これが彼らにとっては日常なのだろう。

機内で出されるコチュジャンは、遠慮なく使うもの。

いや、むしろ、使わない方が失礼にあたるのか、とすら思えてくる。

それからというもの、私はその「コチュジャン一本使い切り文化」に、ひどく心を揺さぶられた。

最初は戸惑った。

少しずつ、恐る恐る、周りの人たちを真似て、チューブを絞り出す量を増やしてみる。

最初はご飯の半分、次には全体に。

するとどうだろう。

最初は強烈だと感じた辛さも、不思議と慣れてくるものだ。

むしろ、ご飯とチキンとコチュジャンが一体となって、これぞ韓国の味!

というような、独特の旨味が口いっぱいに広がる。

一度、コチュジャンをたっぷりかけたご飯を口に運んだ時、隣に座っていた息子が「お父さん、すごいね」と目を丸くしていた。

普段は「辛いものは苦手でね」と敬遠していた私だから、余計に驚いたのだろう。

その時の息子の顔を見たら、なんだかちょっと得意げな気分になった。

「いやあ、これも異文化体験というやつでね」なんて、もっともらしい顔をして言ってみたものの、心の中では「いや、これ、結構いけるんだな」と、新たな発見に興奮していた。

旅行中、食事のたびにコチュジャンが出てくる機会があったのだが、私はもう迷わない。

出てくるチューブは、ためらいなく、まるまる一本を絞り出す。

いや、むしろ、絞り出すのが楽しくなってしまったのだ。

にゅるり、と出てくる赤い塊は、もはやミミズではなく、食欲をそそる魔法のソースにしか見えない。

帰国してからも、あのコチュジャンの味が忘れられず、近所のスーパーでデカいチューブのコチュジャンを買ってきてしまった。

夕食の時に、ご飯にたっぷりとかけてみる。

妻が「まあ、あなた、そんなに辛いもの食べられるようになったの?

」と驚いていたが、私はニヤリと笑って「これも経験だよ、経験」と答えた。

すっかり、コチュジャンチューブ一本使い切りが、私の新たなルーティンになってしまったのだ。

思えば、あの機内食のコチュジャンは、私の凝り固まった日常の「ゆるみ」を、さらに深く、しかし、もっと楽しくしてくれる、そんなきっかけだったのかもしれない。

小さなドジを踏みながらも、新しい発見に出会う。

約束を忘れがちな私だが、それでもまだ、心躍るような「初体験」がある。

それはまるで、コチュジャンチューブのフタを開けるように、新しい扉を開くような感覚だ。

さて、明日はゲートボールの日だったかな。

いや、水曜日だから、今日だったか。

まあ、どちらにしても、家に帰ったら、まずはコチュジャンをたっぷりかけたご飯でも食べようかな。

うん、それも悪くない。

自分の部屋のドアを間違えずに開けられたら、今日の私は上出来だ。

コチュジャンチューブ一本使い切り。

この豪快さが、私の「ゆるみっぱなし」の日常に、ちょっとしたスパイスを与えてくれる。

そんな気がしているんだ。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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