📝 この記事のポイント
- 散歩中、知らない犬に懐かれて飼い主より先に仲良くなった。
- いや、懐かれたというより、私のおやつポーチから嗅ぎつけたジャーキーの匂いに釣られただけかもしれない。
- その犬、フレンチブルドッグの「ブーちゃん」というらしいんだけど、もう飼い主さんのリードを引っ張って私の足元にへばりついて離れない。
散歩中、知らない犬に懐かれて飼い主より先に仲良くなった。
いや、懐かれたというより、私のおやつポーチから嗅ぎつけたジャーキーの匂いに釣られただけかもしれない。
その犬、フレンチブルドッグの「ブーちゃん」というらしいんだけど、もう飼い主さんのリードを引っ張って私の足元にへばりついて離れない。
「すみませんねえ、この子、食いしん坊で」と恐縮する飼い主さんと「いえいえ、かわいいですねえ」と応じる私。
いやいや、かわいいけど、私のジャージの膝、ブーちゃんのよだれでびっしょりなんだけど?
っていうか、飼い主さん、もうちょっと強くリード引いてくれないかな。
ブーちゃん、私の脛に頭突きかましてるよ。
そんな風に、日常ってのは予期せぬ小さな摩擦とか、妙な親密さでできてたりする。
特に、うちの台所とか、その最たるものだよね。
もうね、うちは実家暮らしで、親の介護も手伝ってるんだけど、台所の散らかり具合が半端ない。
母も父も、若い頃から物を捨てるのが苦手なタイプで、一度使ったものは「まだ使える」と信じてやたらと保管したがる。
特に顕著なのが「ワンカップ」だ。
父が晩酌で愛用している日本酒のワンカップ。
飲み終わったそれらは、洗って乾かされた後、なぜか台所の隅にずらりと並べられる。
最初は「漬物でも入れるのかな」と楽観視していた私も、数が増えるにつれて「これは一体何に使うんだ?
」と疑問を抱かざるを得ない状況になった。
で、ある日のこと。
夕食の準備をしようと台所に立つと、シンクの横に異様な光景が広がっていた。
数本のワンカップが、透明な液体で満たされている。
いや、液体だけじゃない。
その中には、茶色く色づいた何かがゆらゆらと漂っているのだ。
目を凝らしてよく見ると、それはどう見ても「焼きめざし」だった。
しかも、一本や二本じゃない。
細かくちぎれためざしが、ワンカップの中でまるで深海の生物のように浮遊している。
父に「これ、何?
」と聞くと、本人は至って真顔で「ああ、カスのアクアリウムだよ」と宣う。
カスのアクアリウム。
ちょっと待って。
ネーミングセンス、悪くないけど中身がカスだよ。
なぜ、焼きめざしをワンカップに突っ込むのか。
それがアクアリウムなのか。
意味がわからない。
父曰く、「ワンカップに残った酒の風味を、めざしに吸わせてやろうと思ってな。
酒のアテとして、二度美味しいだろう?
」とのこと。
なるほど、理屈はわからなくもない。
日本酒に浸しためざし、美味しいかもしれない。
でもね、父よ。
それ、ワンカップにそのまま突っ込む?
しかも、何日も放置してるよね?
中の液体、もう日本酒の匂いじゃないよ。
なんか、磯の香りが酸っぱくなったような、複雑な香りが漂ってるよ。
しかも、液体がちょっと濁ってる。
めざしから出た油分と、酒と、あとは一体何が混ざってるんだろう。
考え出すと、背筋がゾッとする。
さらに恐ろしいのは、その「カスのアクアリウム」が、時を経るごとに進化を遂げていくことだ。
最初はただの「焼きめざしワンカップ」だったものが、いつの間にか「漬物石代わりの小石」が底に沈められたり、「庭で拾った謎の枯れ葉」が浮かんでいたりするようになった。
父は満足げにそれを眺めながら、「うん、なかなか幻想的になってきたな」と呟く。
幻想的?
幻想的って、一体何を指してるの?
私の目には、ただの廃棄物としか映らないんだけど。
もはや、それはアクアリウムというより、古代の遺跡から発掘された、生命の痕跡を宿したガラス瓶、といった様相を呈している。
この光景を見るたび、私はいつも考える。
人間の想像力って、どこまでも自由で、そして時に奇妙な方向へ暴走するんだな、と。
電車の中で見かける人々の行動も、時にそれに近いものがある。
先日、山手線に乗っていた時のこと。
隣に座っていた男性が、突然、何の前触れもなく、持っていた紙袋の中から生の大根を取り出した。
いや、別に食べるとかじゃない。
その大根を、まるで赤ん坊を抱くかのように、優しく、本当に優しく撫で始めたのだ。
フワフワの毛布に包んで、よしよし、と。
しかも、結構な時間。
最初は「え、何?
パフォーマンス?
」と思ったんだけど、男性の表情は至って真剣で、どこか慈愛に満ちている。
あれは、きっと彼にとっての「大根アクアリウム」だったに違いない。
誰にも理解されない、彼だけの、秘められた世界。
スーパーのレジで、会計が終わってから店員さんに「あの、これ、袋に入れなくていいんで、裸でください」と頼むおじいちゃんを見かけた時も、似たような衝撃を受けた。
裸でください。
その「裸」という表現が、妙に生々しくて、レジの若い店員さんが一瞬固まっていたのが印象的だった。
結局、おじいちゃんは買ったばかりのキャベツを、そのまま腕に抱えて颯爽と去っていった。
ビニール袋なんか使わなくても、俺は俺のスタイルで帰るんだ、という確固たる意志を感じたね。
ああいう人たちは、自分の中にしっかりとした「マイルール」みたいなものがあって、それが私たちからは理解不能な「カスのアクアリウム」に見えたりするんだろうな、と。
そういえば、昔、私がまだ小学生だった頃、友達の家に遊びに行った時にも、似たような体験をしたことがある。
その友達の家は、とにかく動物が好きで、犬も猫も鳥も、果てはザリガニまで飼っていた。
で、そのザリガニの水槽。
普通のザリガニ水槽って、砂利とか水草とか、それなりにレイアウトされてるじゃない?
でも、その友達の家のザリガニ水槽は違った。
底には、なぜか古い野球ボールが沈められていて、その上にザリガニが鎮座していたのだ。
しかも、水は妙に緑色に濁っていて、ザリガニもどこか覇気がない。
友達は「このボール、ザリガニが隠れるのに丁度いいんだよね!
」と満面の笑みで言っていたけど、私は心の中で「いや、これ、ただの野球ボール腐らせてるだけじゃない?
」とツッコミを入れていたっけ。
結局、「カスのアクアリウム」というのは、その人にとっての「美学」とか「こだわり」とか、そういうものが凝縮された結果なのかもしれない。
私から見ればただのゴミ同然の焼きめざしワンカップも、父にとっては深淵を覗くための瞑想ツールであり、日々の小さな喜びの源なのだ。
それはまるで、枯れ果てた盆栽を何十年も愛でる趣味の達人とか、石ころを磨いては「これは地球の息吹が宿ってるんだ」と語るコレクターとか、そういう人たちに通じるものがあるのかもしれない。
もちろん、衛生面とか、ニオイとか、そういう現実的な問題は山積している。
私は毎日、その「カスのアクアリウム」を横目に、ため息をつきながら台所に立つ。
そして、時折、父がそれを熱心に観察している姿を見ると、正直なところ、ちょっとだけ怖い。
でも、その怖さの中にも、どこかユーモラスな愛着のようなものが芽生え始めているのも事実だ。
もはや、それは台所の風景の一部であり、うちの家族の一員。
先日、父がそのワンカップを手に取り、「おお、今日のめざしは、いつもより深みがあるな」と、まるでソムリエのように語っていた。
いやいや、父よ。
それ、もうめざしじゃなくて、めざしの残骸が発酵した何かだから。
深み、あるのはわかるけど、それはきっと旨味じゃなくて、ヤバ味の深みだから。
でも、そんな父の姿を見ていると、私もまた、なんだかよくわからないけど、この「カスのアクアリウム」に、かすかな「幻想」を感じてしまう瞬間がある。
きっと、人間ってのは、目の前のちっぽけなものの中に、どれだけでも意味を見出すことができる生き物なんだろうね。
そして、その見出した意味が、時に誰にも理解できない「カスのアクアリウム」だったりするんだけど。
まあ、それもまた一興、ってことで。
今日も私は、台所の隅で静かに存在感を放つ、焼きめざしワンカップを横目に、夕食の準備に取り掛かるのだ。
ああ、今夜のメニューは、普通に焼き魚にしようかな。
魚、見るとなんか、ちょっとだけ複雑な気分になるんだよね。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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