官舎の壁と、隣のカレーの香り

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📝 この記事のポイント

  • 回転寿司で、隣のレーンの皿が気になって自分の注文を忘れた。
  • タッチパネルを前にして、「あ、あれ、美味しそうだな」なんて思ってたら、妻に「ねえ、何にするの? もう三皿目だよ」と呆れられた。
  • 僕も人のことは言えないけれど、他人の選択って、なぜか魅力的に映るものなんだよね。

回転寿司で、隣のレーンの皿が気になって自分の注文を忘れた。

タッチパネルを前にして、「あ、あれ、美味しそうだな」なんて思ってたら、妻に「ねえ、何にするの?

もう三皿目だよ」と呆れられた。

僕も人のことは言えないけれど、他人の選択って、なぜか魅力的に映るものなんだよね。

自分の目の前の選択肢よりも、ちょっと遠くに見える、別の誰かの皿。

そんなふうに、僕はいつも隣の芝生が青く見えるタイプだ。

そんな僕が、この春から自衛隊官舎に住むことになった。

妻の転勤に伴い、僕も仕事を変え、家族で引っ越すことになったのだ。

官舎と聞いて、まず頭に浮かんだのは、テレビドラマで見たような、綺麗に整備されたモダンな集合住宅だった。

「広々としたリビングで、休日は家族みんなで映画鑑賞かな」「共有の庭でバーベキューもできるのかな」なんて、勝手に期待を膨らませていた。

新しい生活への期待は、まさに回転寿司のタッチパネルに並んだ、夢のようなメニューのようだった。

何しろ、これまで住んでいたアパートは、築30年を超え、冬は窓からすきま風が吹き込み、夏はエアコンがフル稼働してもなかなか冷えない、そんな愛すべきガタピシ物件だったから、官舎と聞いただけで、一気にグレードアップするようなイメージがあったんだ。

しかし、現実は、いつも想像の斜め上をいく。

引っ越し当日、僕たちの前に現れたのは、正直言って、僕が夢見ていたモダンな集合住宅とは、だいぶ趣の異なる建物だった。

正直、「え、ここ?

」と思わず声に出そうになったほどだ。

外壁は色あせていて、あちらこちらに雨だれのような黒い筋が残っている。

駐車場に目をやれば、駐車ラインはかすれ、アスファルトにはヒビが入っていた。

まるで、昔の映画のセットみたいだな、と妙に感心してしまった。

妻は僕の隣で、無言でスマホの画面を凝視していたけど、きっと「想像と違う…」と検索でもしていたのかもしれない。

部屋の中も、期待とは少々違った。

壁紙はところどころ剥がれかけていて、昭和レトロを通り越して、もはや歴史的建造物に近い風格を醸し出している。

築年数を尋ねたら、大家さんならぬ担当者の方が「ええと、ええと…正確なところはちょっと…」と歯切れの悪い返事。

これはきっと、僕が生まれる前からここに立っているんだな、と直感した。

風呂場のタイルには、目地の黒ずみが深く刻まれ、蛇口からは水がポタポタと落ちていた。

台所の換気扇は、スイッチを入れるたびに「ガラガラガラ!

」と、まるで恐竜の鳴き声のような豪快な音を響かせる。

その音を聞くたびに、妻は「今日のご飯は、きっと冒険ね」と笑うようになった。

正直、最初の数日は、引っ越し疲れと相まって、少しばかり落ち込んだ。

せっかく新しい生活が始まるのに、こんなはずじゃなかった、と。

夕食当番の僕は、ボロボロの台所で、ガラガラ鳴る換気扇の下、今日の献立を考える。

冷蔵庫の中はまだスカスカで、スーパーで買ってきた特売の鶏肉とにんじん、玉ねぎでカレーを作るのが精一杯だった。

IHコンロは、温度調整がどうも癖があって、いつも焦げ付かないかヒヤヒヤする。

でも、文句を言っても仕方がない。

これが僕らの新しい「城」なんだから。

引っ越しから一週間が経ち、少しずつ生活に慣れてくると、この官舎の「味」のようなものが、見えてきた。

まず、この古めかしい建物の構造のおかげなのか、隣の部屋の音が、驚くほどよく聞こえるのだ。

朝は、隣の奥さんが子供たちを起こす声。

「早く起きなさい!

パン焦げちゃうわよ!

」という声で、僕も目が覚める。

夜は、どこかの部屋から聞こえるテレビの笑い声。

休日の昼下がりには、ギターの練習をしているような音もする。

正直、最初は「プライバシーって何だっけ?

」と思ったけれど、慣れてくると、それがどこか心地よかったりする。

まるで、大きな家族の中にいるような、不思議な感覚だ。

そして、この官舎の最大の魅力は、なんと言っても「人」だった。

引っ越しの挨拶回りでは、僕たちが持っていった粗品のお菓子よりも、はるかにたくさんのお土産をいただいた。

隣の奥さんからは、手作りの漬物。

斜め向かいの単身赴任の方からは、地元の銘菓。

少し離れた棟のベテランらしき方からは、「困ったことがあったらいつでも言ってね」と、まるで昔からの知り合いのような温かい言葉をかけてもらった。

スーパーで、見知らぬ官舎の住人らしき人とすれ違うと、目が合えば「こんにちは」と自然と挨拶を交わす。

この「当たり前」が、都会のアパート暮らしでは、なかなか経験できなかったことだ。

ある日の夕食当番の日、僕はいつものようにガラガラ鳴る換気扇の下で、特売の豚肉を炒めていた。

今日のメニューは、豚肉とピーマンの炒め物だ。

味付けをどうしようかと悩んでいると、ふと、隣の部屋から、美味しそうなカレーの香りが漂ってきた。

「お、今日はカレーか。

いいなあ」なんて思いながら、僕も自分のフライパンの豚肉に、醤油とみりんを投入した。

香りって、不思議だよね。

他人の家のカレーの匂いを嗅ぐと、なぜか自分の家の料理も、いつもより美味しく感じる気がする。

この官舎での生活は、僕の「期待」を良い意味で裏切った。

ピカピカの新しい設備はなかったけれど、その代わりに、人と人との繋がりという、もっと大切なものを手に入れたような気がする。

風呂場のタイルは相変わらず黒ずんでいるし、換気扇も恐竜の鳴き声だけど、もうそれも「味」だと思えるようになった。

壁のひび割れも、誰かの笑い声も、雨上がりの湿った匂いも、全てがこの官舎の日常を彩る一部だ。

人生って、結局、そんなものなのかもしれないな、と最近思う。

完璧なものを追い求めすぎると、目の前にある小さな幸せを見落としてしまう。

期待通りのものが手に入らなくても、代わりに思わぬ収穫があったりする。

官舎の老朽化した建物は、確かに僕の「モダンな暮らし」という期待を打ち砕いたけれど、その代わりに、温かい近所付き合いと、ちょっとだけ強靭な精神力、そして「隣のカレーの香り」という、ささやかな幸せを僕に与えてくれた。

今夜も、僕はガラガラ鳴る換気扇の下で、妻のために夕食を作る。

さて、明日の隣の晩御飯は何だろう?

密かに期待しながら、今日も僕はフライパンを振るのだ。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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