📝 この記事のポイント
- 銀行のATMで操作を間違えて、後ろに並んでいる人のプレッシャーを感じた。
- 僕の隣では、小学3年生くらいの男の子がお母さんに「ねえ、いつ終わるの? 」と詰め寄っている。
- お母さんは困った顔で「もうちょっとだからね」と返す。
銀行のATMで操作を間違えて、後ろに並んでいる人のプレッシャーを感じた。
僕の隣では、小学3年生くらいの男の子がお母さんに「ねえ、いつ終わるの?
」と詰め寄っている。
お母さんは困った顔で「もうちょっとだからね」と返す。
僕も同じ気持ちだった。
ごめんよ、僕の指が言うことを聞かなくて。
焦れば焦るほど、画面の選択肢が全部同じに見えてくる。
なんとか手続きを終え、深々と頭を下げてその場を後にした。
春先になると、どうも調子が出ない。
冬の分厚いコートから軽やかなスプリングコートに替えたのに、体はまだ冬眠したがっているようだ。
朝、目覚まし時計を止めてからもう一度布団に潜り込む。
五分だけ、と自分に言い訳をする。
でもその五分が、結局、朝食を抜いて家を飛び出す原因になる。
単身赴任時代は、もっと自由だった。
いや、自由という名の、ただのルーズな生活だったのかもしれない。
朝食はコンビニのパン一つ、みたいな日々。
家族と暮らす今は、そうはいかない。
妻は「ちゃんと食べなさい」と、焼きたてのパンや味噌汁を用意してくれる。
ありがたい話なんだけど、まだ体が慣れないんだ。
最近、職場の同僚が「目ん玉飛び出るくらい美味いもん見つけました!
」と熱弁していた。
何事かと思えば、カルピスの原液をビールで割って飲むと「ありえんくらい美味い」らしい。
聞くだけで、なんだか歯が浮くような話だ。
甘いカルピスと苦いビール。
想像しただけで、口の中が混乱する。
僕としては、ビールはビール、カルピスはカルピスで完結してほしい。
混ぜるな危険、と心の中で呟いた。
でも、同僚は目を輝かせながら「騙されたと思ってやってみてください!
」と力説する。
彼の熱意に押され、少しだけ興味が湧いてしまったのも事実だ。
その同僚、僕より少し年下で、実家暮らし。
週末はいつも実家で家族とご飯を食べていると話していた。
彼にとっての「ありえんくらい美味い」は、きっと家族との賑やかな食卓の延長線上にあるのだろう。
僕とは少し違う。
僕にとってのビールは、一日の終わりを告げる、静かで、ちょっとしたご褒美だ。
単身赴任から帰ってきて数ヶ月。
家族との生活は、それはそれで幸せなんだけど、どこかまだ、自分だけの時間や空間を探している自分がいる。
特に夜、子どもたちが寝静まった後のリビングで、一人ビールを飲む瞬間。
あの時間が、たまらなく落ち着く。
先日、スーパーで買い物中に、ふとカルピスの原液が目に入った。
同僚の言葉が頭をよぎる。
特売になっていたこともあり、結局、一本手に取ってしまった。
家に帰って、子どもたちにはいつものように水で割ったカルピスを出してやった。
彼らは嬉しそうにコップを傾ける。
その横で、僕はそっとビールを冷蔵庫から取り出した。
妻はまだキッチンで夕食の片付けをしている。
僕の怪しい行動には気づいていないだろう。
子どもたちが寝て、リビングは静寂に包まれた。
いつものようにビールをグラスに注ぐ。
黄金色の液体が泡立つ。
そこに、躊躇しながらカルピスの原液を少量、本当に少量だけ垂らしてみた。
白い液体が黄金色に混じり、少し濁った薄黄色になる。
見た目は、なんだか微妙だ。
恐る恐る一口。
…あれ?
なんだこれ。
甘い。
けど、ビールの苦味もちゃんとある。
甘いのに、キレがある。
まるで、僕の頭の中の常識を、いきなりひっくり返されたような感覚だ。
目ん玉飛び出る、とまではいかないけれど、確かにこれは「ありえんくらい美味い」の片鱗を見せている。
いや、正確には「ありえない組み合わせなのに、予想外に美味い」といったところか。
同僚の言っていたことは、どうやら本当だったらしい。
次の日、職場で同僚に「カルピスビール、試してみたよ」と話した。
彼は「どうでした!
」と前のめりになる。
僕は「意外と、悪くなかったよ」と、ちょっとすました顔で答えた。
でも、心の中では「めちゃくちゃ美味かったよ!
」と叫びたかった。
あの甘くて苦い、そしてちょっと不思議な味が忘れられない。
彼もまた、僕と同じように夜な夜なこの秘密の味を楽しんでいるのかもしれない。
僕と彼は、家族との距離感も、休日の過ごし方も、ビールの楽しみ方も、たぶん全然違う。
彼は実家でワイワイと、僕は帰宅後の静かなリビングで一人。
でも、カルピスビールという、ちょっとした冒険への好奇心は同じだった。
どちらが良いとか悪いとか、そんなことはない。
春の衣替えのように、僕の味覚も、少しずつ新しいものを受け入れているのかもしれない。
その晩も、子どもたちが寝た後、僕はまたカルピス原液に手を伸ばした。
妻がリビングに入ってきた。
「あら、まだ飲んでるの?
」。
僕は慌ててグラスを傾けた。
この秘密の味は、もう少しの間、僕だけのものにしておきたい。
家族との生活に再適応中の、ささやかな抵抗だ。
春の夜長は、まだ始まったばかり。
僕の味覚の冒険も、もうしばらく続きそうだ。
今度は、もう少し多めにカルピスを入れてみようか。
そんなことを考えていると、なんだかワクワクしてきた。
銀行のATMで焦った僕の指先も、この時ばかりはしっかりグラスを掴んでいる。
よし、もう一杯だ。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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