📝 この記事のポイント
- クリーニング店で預けた服を3ヶ月放置していたことに気づいたのは、つい先日、夫婦で近所の「ふるさとクリーニング」に寄った時のことだった。
- 引き換え券を財布の奥底から掘り出し、うっかり期限が過ぎていることに気づいた時の、店員さんの「ああ、よくありますよ」という慣れた笑顔に、私は少しだけホッとし、そして少しだけ恥ずかしくなった。
- 夫は横で「お前はいつもそうだな」と呆れ顔だが、きっと彼も似たような経験があるはずだ。
クリーニング店で預けた服を3ヶ月放置していたことに気づいたのは、つい先日、夫婦で近所の「ふるさとクリーニング」に寄った時のことだった。
引き換え券を財布の奥底から掘り出し、うっかり期限が過ぎていることに気づいた時の、店員さんの「ああ、よくありますよ」という慣れた笑顔に、私は少しだけホッとし、そして少しだけ恥ずかしくなった。
あれ、これ去年の冬物だったかしら。
いや、その前のだったか。
どうにも時間の流れが曖昧でいけない。
夫は横で「お前はいつもそうだな」と呆れ顔だが、きっと彼も似たような経験があるはずだ。
言わないだけだ、たぶん。
私たち夫婦は、この小さな町に越してきてからもう十年になる。
朝は鳥の声で目を覚まし、夫は早々に畑へ、私は庭の花木に水をやるのが日課だ。
日中は、畑で採れたばかりの茄子やキュウリを近所の直売所に運び、午後は縁側で温かいお茶を淹れて、積ん読になっていた文庫本を広げる。
そんな、まるで絵に描いたようなのんびりした日々を送っている。
都会の喧騒からは程遠い、穏やかな時間の流れに身を委ねていると、約束事や締め切りといった類のものは、まるで別世界の出来事のように思えてくる。
だから、というわけでもないけれど、うっかりが多い。
クリーニングの引き取り期限なんて可愛いものだ。
区役所からのハガキを締切ギリギリまで忘れていて、慌てて夫に車を飛ばしてもらったことが三度や四度ではない。
夫の誕生日に「あ、今日だった」と夕食の準備中に思い出し、慌てて冷蔵庫の余り物で豪華そうに見える一品をでっち上げたこともある。
そのたびに夫は「お前は本当に困ったもんだな」と言いながらも、なぜかいつも笑顔だ。
きっと、もう諦めの境地に達しているのだろう。
そんな私たちが、この町に越してきてから唯一、熱狂的に追いかけているものがある。
それは、月刊誌『ふるさと探訪』に連載されている、郷土史家・大野先生の漫画エッセイ『地元最高!
』だ。
この漫画、先生の軽妙な筆致と、この町の人間模様を愛情たっぷりに描き出す観察眼が素晴らしい。
登場人物は皆、実在する近所のじいさんやばあさんがモデルになっていて、物語に出てくる「田中さんの飼い猫が、また魚屋の軒先で昼寝してた話」なんて、まさに今日見た光景そのままだったりする。
それが、突然の休載。
2025年1月号を最後に、「先生の体調不良のため、しばらく休載いたします」という編集部の告知が出て、私たち夫婦はそれはもうがっかりしたものだ。
毎月、本屋に並ぶ『ふるさと探訪』を手に取るのが楽しみだったのに。
夫と二人で「先生、おいくつになられたのかしら」「無理はいかんよな」と心配しつつ、でも内心では「早く再開しないかしら」と願っていた。
あの頃は、毎月15日の発売日がくるたびに、本屋の棚をそわそわしながら覗きに行くのが習慣になっていた。
結局、一年近く、その棚は虚ろなままで、やがて雑誌を手に取る習慣すら薄れていってしまった。
それが、先日、いつものように直売所で野菜を売っていた時のことだ。
隣のブースのおばちゃんが、興奮した声で「奥さん、知ってる!
『地元最高!
』が、来月から連載再開だって!
」と耳打ちしてきたのだ。
一瞬、耳を疑った。
「え、本当ですか!
」と聞き返すと、「ええ、今朝の新聞に載ってたわよ!
しかも、月イチ連載にパワーアップするんだって!
」と、キラキラした目で教えてくれた。
その瞬間、忘れていたはずのあの興奮が、胸の奥からドクドクと蘇ってきた。
帰宅するなり、夫にその話を伝えた。
夫は「おお、それは良い知らせだ!
」と、普段滅多に見せない笑顔を見せた。
私たち夫婦にとって、『地元最高!
』の連載再開は、まさに日々の生活に彩りを添えるビッグニュースだったのだ。
翌日、私は早速、発売されたばかりの『ふるさと探訪』を買いに走った。
一年ぶりの再会。
表紙には、見慣れた大野先生の、少しだけ線が細くなったような、でも力強いイラストが描かれていた。
ページをめくると、そこには衝撃の展開が待っていた。
休載前までは、穏やかな日常の描写が中心だったはずなのに、復活第一弾は、いきなり「町内対抗ゲートボール大会で、不正疑惑が勃発し、最終的には村長の飼い犬が優勝トロフィーを咥えて逃走した事件」が描かれているではないか。
しかも、登場人物たちの表情は、休載前よりもデフォルメされ、怒りや焦りが狂気じみたタッチで表現されている。
これは、大野先生、一体どうされたんだ…?
読み進めるうちに、私は震えが止まらなくなった。
以前のほんわかした雰囲気はどこへやら、登場人物たちのセリフはより辛辣になり、絵のタッチも劇的に変化している。
まるで、先生の内に秘められたマグマが一気に噴出したかのようだ。
「あの畑の角のじいさんが、実は元ヤクザだった」とか、「公民館のカラオケ大会で、誰も歌えない曲を歌い続けて場を凍らせるばあさんの存在」とか、これまでタブーとされてきたような、町の「闇」の部分にまで踏み込んでいる。
これはもう、エッセイ漫画というより、ある種のドキュメンタリー、いや、パニックホラーに近い。
夫もまた、その変貌ぶりに驚きを隠せないようだった。
彼は無言でページをめくり続け、時折「うーん」と唸りながら、困惑した表情を浮かべていた。
特に、いつも温厚だったはずの「町長」が、今回は「ゲートボール大会の疑惑の真相を追う探偵役」として、異常なまでに探求心を見せ、ついには「町長室の壁を破って秘密の通路を見つける」という展開には、さすがの夫も「おいおい、先生、これはちょっと…」と呟いていた。
しかし、不思議なことに、そんな「狂気」に満ちた内容なのに、なぜか目が離せないのだ。
これまで知らなかった、この町のもう一つの顔を垣間見たような気がして、妙に惹きつけられる。
私たち夫婦も、最初は戸惑いを隠せなかった。
毎月の楽しみが、少しスリリングすぎるものに変わってしまった。
ゲートボール大会の疑惑の真相について、夫と二人で夜な夜な考察し合う日々が始まった。
今ではもう、その新しい作風にもすっかり慣れてしまった。
いや、むしろ、以前よりも毎月の発売日が待ち遠しくなっているかもしれない。
「今月はどんなドロドロした人間模様が描かれるんだろうね」「あのばあさんが、今度は何を仕出かすのかしら」と、夫婦の会話の端々に『地元最高!
』の話題が上るようになった。
直売所のおばちゃんたちとの会話も、もっぱら「今月の『地元最高!
』見た?
」だ。
みんな、あの狂気的な展開を心待ちにしている。
正直なところ、以前のほんわかした『地元最高!
』も恋しい。
縁側で温かいお茶を飲みながら、くすりと笑えるような、優しい物語もまた読みたいと思う。
でも、今の『地元最高!
』が放つ、抗いがたい魅力もまた事実だ。
この町に住む人々の「リアル」を、ここまで生々しく、そしてどこかユーモラスに描けるのは、やはり大野先生しかいないのだろう。
次の発売日は、またもやクリーニングの引き取り期限を忘れそうな私の記憶力よりも、はるかに鮮明に、私の頭の中に刻み込まれている。
来月の『ふるさと探訪』は、一体どんな「狂気」を見せてくれるのだろう。
私たち夫婦の、新たな「月イチの約束」が、また一つ増えた。
期限を破りがちな私だけれど、こればかりは、絶対に忘れない自信がある。
いや、自信はないけれど、忘れたら夫が教えてくれるだろう。
きっと。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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