📝 この記事のポイント
- エレベーターで乗り合わせた人と気まずい沈黙が続いて、降りるのが早まった。
- 階数ボタンを押した瞬間から、この人と二言三言、当たり障りのない会話をするべきか、それとも無言を貫くべきか、ほんの数秒で脳内会議が繰り広げられた結果、いつも「無難に無言」という結論に至る。
- そして、降りる階が同じだとわかった途端、さらに気まずさが増して、結局、目的地の一階手前で降りて階段を使った。
エレベーターで乗り合わせた人と気まずい沈黙が続いて、降りるのが早まった。
階数ボタンを押した瞬間から、この人と二言三言、当たり障りのない会話をするべきか、それとも無言を貫くべきか、ほんの数秒で脳内会議が繰り広げられた結果、いつも「無難に無言」という結論に至る。
そして、降りる階が同じだとわかった途端、さらに気まずさが増して、結局、目的地の一階手前で降りて階段を使った。
こういう小さな敗北感、独り暮らしの日常にはよくある。
あの数秒の沈黙、なんであんなに重たいんだろう。
別に何か話さなきゃいけないルールがあるわけでもないのにね。
そんな風に、今日も今日とて、どうでもいいことを考えながら、いつものスーパーの特売品コーナーを物色していたら、ふと、イギリスにいる昔の友人のことを思い出した。
彼女とは、大学生の時に同じゼミで、卒業旅行でイタリアを周った仲だ。
あの頃は、海外旅行なんて、ちょっと背伸びをすれば手の届く、眩しい冒険だった。
ローマのコロッセオで、はしゃいで変なポーズで写真を撮ったり、フィレンツェで食べたジェラートの味が忘れられなくて、毎日違う店で食べ比べたり。
そんな他愛もないことで、地球の裏側まで来たことを実感して、感動で胸がいっぱいになったものだ。
財布の中身は常に寂しかったけれど、心はいつでも満たされていた。
今思えば、あの頃の私は、どんなことにも理由をつけずに飛び込める、変な自信に満ちた人間だった気がする。
いや、自信というよりは、無知ゆえの怖いもの知らずだったのかもしれない。
とにかく、目の前の「楽しい」がすべてで、明日や未来のことなんて、ほとんど頭になかった。
その友人が、先日久しぶりに連絡をくれた。
「今、イギリスで卒業旅行中の娘が泣いてるのよ」と、開口一番に言った。
イラン・イスラエル情勢の緊迫化で、航空便が次々と欠航になり、娘さんが帰国便を失ってしまったらしい。
「せっかくの卒業旅行なのに、こんなことになるなんて」と、電話口で彼女の声が震えていた。
卒業旅行、なんて素敵な響きだろう。
私もかつて、未来への希望を胸に旅立った。
飛行機が飛ぶこと、無事に帰国できること、そんな当たり前のことが、当たり前じゃなくなってしまうなんて、あの頃の私たちには想像すらできなかった。
世界はもっとシンプルで、もっと安全な場所だと思っていた。
いや、ただ単に、自分たちの身に降りかからないと思っていただけなのかもしれない。
若さゆえの、楽天的な無関心。
昔の私は、何かというと「世界平和」なんて漠然とした言葉を口にして、友人と熱く語り合ったりしたものだ。
でも、それはどこか遠い国の、自分とは関係ない場所で起こっていること、という感覚だった。
今、目の前で友人が、自分の娘のことに心を痛めている。
遠い国の情勢が、本当に身近な人の日常を直撃する。
そのリアルさに、胸が締め付けられるような思いがした。
私だって、もう50代。
あの頃のように、何も考えずに飛び出せるような無鉄砲さはない。
いや、無鉄砲さがないというよりは、飛び出す体力がなくなってしまった、というのが正直なところかもしれない。
旅の計画を立てるだけでも億劫で、飛行機に乗ることを想像するだけで疲れてしまう。
昔は、重いバックパックを背負って、駅の階段を駆け上がっていたのに。
変わったことといえば、そんな風に、ちょっとしたことで体力の限界を感じるようになったことだろう。
昔は、ちょっと疲れても「ま、いっか」で済ませていたことが、今は「ちょっと無理」になる。
エスカレーターが混んでいたら、迷わず階段を駆け上がっていたのに、今は迷わず、次のエスカレーターを待ってしまう。
まるで、人生の残りのエネルギー量を計算しながら生きているみたいだ。
でも、その一方で、変わらないこともある。
それは、スーパーの特売品コーナーで、たった数十円安い野菜を手に取るか、諦めて隣のもう少し高い方にするかで、5分以上悩んでしまうこと。
そして、結局、どちらでもない一番安い方を選んで、家で「やっぱりあっちの方が良かったかな」と後悔すること。
この、終わりのない選択と後悔のループだけは、年齢を重ねても変わらない。
というか、むしろ深まっている気がする。
最近は、読書と映画が趣味、なんて格好つけているけれど、実際は、Amazonプライムの「おすすめ」を延々と眺めているだけで、結局何も見ずに寝落ちすることが多い。
積読本は、書棚のオブジェと化している。
あの頃は、課題図書を徹夜で読み漁り、映画館に足繁く通っていたのに。
そういえば、昔は「毎日ジョギングするぞ!
」と意気込んで、ランニングシューズまで買ったのに、三日坊主で終わったことが何度もある。
今はもう、シューズの紐すら結んでいない。
あれはどこにしまったんだろう。
きっと、クローゼットの奥深くで、埃をかぶっているに違いない。
そういう、やろうと思ってできないこと、続かないことの多さも、ずっと変わらない。
むしろ、年々そのリストは長くなる一方だ。
でも、そんな怠惰な自分を、最近はもう責めないことにしている。
人間だもの、完璧じゃなくてもいいじゃないか。
たまには、どうでもいいことで悩んだり、やるべきことを後回しにしたり、それが人間らしいってもんだ。
エレベーターの沈黙も、無理に打ち破らなくていい。
ただ、そうやって自分の内側にこもってばかりいると、世界で何が起こっているのか、大切な友人が何を思っているのか、見過ごしてしまうこともある。
結局、私はスーパーで、特売のきゅうりを3本買って、家に戻った。
冷蔵庫を開けると、先日買ったきゅうりがまだ一本残っていた。
またやってしまった。
買い物リストを作らないからこうなるんだ。
これも、変わらない私の悪い癖だ。
友人の娘さんが無事に帰国できることを祈りながら、きゅうりの酢の物を作ろう。
まずは、きゅうりを冷水にさらして、シャキッとさせることから始めよう。
世界は相変わらず混沌としていて、私の日常も相変わらず、ちょっとしたドジと怠惰でできている。
でも、それでいいんだ、と今は思う。
小さな平穏の中で、遠い場所で起きていることに心を寄せる。
それもまた、50代の私にできる、ささやかな「世界平和」なのかもしれない。
酢の物ができたら、友人に連絡してみようかな。
たわいもない話でも、きっと喜んでくれるはずだ。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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