📝 この記事のポイント
- エレベーターで乗り合わせた人と気まずい沈黙が続いて、降りるのが早まった。
- たった二階分なのに、その時間が永遠のように感じられて、つい「じゃあ」とでも言うように会釈して、本来よりも一階早く七階で降りてしまったのだ。
- 無駄に階段を一段降りて、自分の部屋のドアを開ける。
エレベーターで乗り合わせた人と気まずい沈黙が続いて、降りるのが早まった。
私は八階、相手は六階。
たった二階分なのに、その時間が永遠のように感じられて、つい「じゃあ」とでも言うように会釈して、本来よりも一階早く七階で降りてしまったのだ。
無駄に階段を一段降りて、自分の部屋のドアを開ける。
まったく、何をやっているんだろう、と自分で自分に呆れる。
こういう、ちょっとした恥ずかしさや後悔って、なぜか一日中尾を引くんだよね。
マンションの扉を閉め、深呼吸ひとつ。
今日の夕飯はどうしよう。
冷凍庫には豚バラ肉が、冷蔵庫には使いかけのプロセスチーズが眠っている。
どちらも、なぜか私を満足させきれない。
ふと、若かった頃の食卓が脳裏をよぎる。
あれは、もう随分と昔の話。
まだ二十代だった頃、ちょっとした縁でアメリカの片田舎に数年住んでいたことがある。
当時は、何もかもが新鮮で、見るもの聞くもの、食べるもの全てが刺激的だった。
特に、食事がね。
あの頃の私は、肉食獣とでも呼ぶべき存在だった。
毎日のように、分厚いステーキを焼いては平らげ、溶けたチェダーチーズがたっぷりかかったナチョスを友人と分け合って食べていた。
スーパーに行けば、手のひらよりも大きな牛肉の塊が、信じられないような値段で並んでいて、その横には、これでもかというほど種類の豊富なチーズが陳列されている。
モッツァレラ、ゴーダ、ブルーチーズ、ジャックチーズ……。
何を買っても、日本のそれとは比べ物にならないほどのボリュームと、濃厚な味わいだった。
特に記憶に残っているのは、あのピーナッツバターの味だ。
日本のスーパーでよく見る、甘くて滑らかなものとは一線を画していた。
瓶の底に油が分離していて、スプーンでガシガシ混ぜないと均一にならない。
口に入れると、ざらりとした舌触りのピーナッツの粒が主張してきて、ほんのり塩味が効いている。
それが、トーストに塗っても、セロリにディップしても、ただスプーンですくって食べても最高に美味しかった。
日本の友人たちは「太るよ!
」と悲鳴を上げていたけれど、当時の私はそんなこと気にもせず、毎日山盛り食べていたっけ。
おかげで、帰国した時には、人生で一番体重が重かったという、ちょっとした黒歴史がある。
それから三十年近くが経ち、今の私はどうだろう。
エレベーターで一階早く降りてしまうような、おっちょこちょいなところは相変わらずだけど、食の好みは随分と変わった。
いや、変わったというよりは、落ち着いた、という方が正確かもしれない。
若い頃のように、何が何でも肉!
チーズ!
ピーナッツバター!
と前のめりになることはなくなった。
むしろ、最近は和食に惹かれることが多い。
出汁の効いた味噌汁に、焼き魚、ひじきの煮物。
あっさりとした味付けに、ホッとする。
デパートの地下食品売り場で、ちょっといいお漬物を買うのが密かな贅沢だったりする。
でもね、たまに、本当にたまに、あの頃の自分が顔を出すことがあるんだ。
例えば、スーパーのチーズ売り場で、ずらりと並んだ国産チーズを眺めている時。
「うーん、なんか違うんだよなあ」と独りごちてみたり。
日本のチーズも美味しいのは知っている。
風味豊かで、繊細で、それはそれで素晴らしい。
でも、私が恋しくなるのは、もっとこう、ガツンとくるような、大味で、舌にまとわりつくような濃厚さ。
一枚食べたら、もう十分、みたいな満足感ではなくて、何枚でもいけちゃう、みたいな中毒性のあるチーズなんだよね。
特に、アメリカのスーパーで買っていた、あのオレンジ色のチェダーチーズ。
あれをパンに挟んで、オーブントースターで焼くと、とろーりと溶けて、パンの耳までカリカリになって。
あれを一口食べるたびに、ああ、海外にいた頃はよかったなあ、なんて、ちょっとセンチメンタルな気分に浸ってしまう。
肉に関してもそうだ。
最近は、霜降りの和牛よりも、赤身の外国産牛肉を選ぶことが増えた。
あの、肉らしい歯ごたえと、噛みしめるほどに溢れる旨味。
フライパンでサッと焼いて、塩胡椒だけで食べるのが一番好き。
でも、やっぱり日本のスーパーで手に入る肉は、あの頃食べていた分厚いステーキとは、どこか違うんだ。
肉の繊維感というか、ワイルドさが足りない気がする。
だから、たまにインターネットで、ちょっとお高いけれど、アメリカ産の厚切り肉をお取り寄せしたりする。
届いた塊肉を前にすると、なんだか遠い昔の自分に戻ったような、ワクワクした気分になるんだよね。
そして、ピーナッツバター。
これはもう、私の中で永遠の課題だ。
日本のスーパーで売られているものは、どれもこれも甘すぎるか、妙に滑らかすぎる。
あの、ざらざらとした食感と、濃厚なピーナッツの香ばしさ、そしてほんのりとした塩味。
それが日本のどこを探しても見つからない。
一度、自分でピーナッツを買ってきて、フードプロセッサーで自作してみようかと思ったこともあった。
ピーナッツを炒って、皮をむいて、ひたすらガーッと混ぜる。
でも、途中で面倒になって、結局諦めてしまった。
そういうところが、昔から変わらない私の怠惰な部分なんだろうな。
やろう、やろうと思って、結局やらない。
運動もそうだ。
部屋の隅には、数年前に「健康のために!
」と意気込んで買ったヨガマットが丸まったまま、オブジェと化している。
月に一度も広げないのに、捨てるのも忍びない。
この習慣と怠惰の狭間で揺れ動くのが、どうやら私という人間らしい。
昔は、もっとストイックに、こうあるべきだ、と自分を律しようとしていた気がする。
流行りの健康法に飛びついたり、新しい趣味に挑戦してみたり。
でも、どれも長続きしなかった。
三日坊主ならぬ、三週坊主、いや、三日坊主だったかもしれない。
今はもう、そんな自分を笑い飛ばせるようになった。
まあ、いっか、と。
完璧を目指すよりも、今の自分を受け入れる方が、よっぽど楽で、平和だということに気づいたんだ。
それでも、一つだけ、諦めきれない習慣がある。
それが、美味しいピーナッツバターを探す旅だ。
たまに、輸入食材店で見慣れない瓶を見つけると、ついつい手が伸びてしまう。
期待を込めて蓋を開け、スプーンですくって一口。
ああ、これじゃない。
毎回、そんな繰り返しだ。
でも、その「これじゃない」という落胆も、なんだか今は嫌いじゃない。
もしかしたら、もう二度とあの味に出会うことはないのかもしれない。
あの頃の味は、あの場所で、あの時代にしか存在しなかった、特別なものだったのかもしれない。
そう思うと、少し寂しくなるけれど、それもまた一興。
結局、今日の夕飯は、冷凍の豚バラ肉を焼いて、使いかけのプロセスチーズを乗せることにした。
味気ないだろうか?
いや、それも今日の私なりの「あり」だ。
きっと、食べ終わった後には、また「あのピーナッツバターがあればなあ」と、ぼんやり考えるのだろう。
そして、またいつか、懲りずに新しいピーナッツバターの瓶を手に取るのだろう。
この、小さな期待と、ほんの少しの諦めが混じり合った日常。
それこそが、今の私の、ささやかな喜びなのかもしれない。
エレベーターで早く降りてしまったことなんて、もうすっかり忘れてしまった。
まあ、いっか。
そんなものだ。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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