📝 この記事のポイント
- 散歩中、知らない犬に懐かれて飼い主より先に仲良くなった。
- なぜか、犬は私を見つけると、尻尾をブンブン振って駆け寄ってくる。
- 飼い主さんが「あら、ごめんなさいね! 」と慌ててリードを引っ張る横で、私は「大丈夫ですよ〜! 」と言いながら、犬の頭を撫でくり回している。
散歩中、知らない犬に懐かれて飼い主より先に仲良くなった。
いつものことだ。
なぜか、犬は私を見つけると、尻尾をブンブン振って駆け寄ってくる。
飼い主さんが「あら、ごめんなさいね!
」と慌ててリードを引っ張る横で、私は「大丈夫ですよ〜!
」と言いながら、犬の頭を撫でくり回している。
まるで昔からの知り合いみたいな熱烈歓迎ぶりに、飼い主さんまで「うちの子、珍しいのよ」と苦笑いしている。
一体何なんだろう、このモテ期。
犬限定のモテ期って、嬉しいんだか寂しいんだか。
そんな犬との出会いがあった日の午後、久しぶりに会った友達と、近所の喫茶店でランチを食べながら、私は唐突に聞いてみた。
「ねえ、エヴァンゲリオンってさ、嫁に先立たれて狂った父と息子の親子喧嘩って認識であってる?
」友達は、フォークでナポリタンを巻きながら、一瞬動きを止めた。
「……いや、大きくは間違ってないけど、それで全部語れるかって言ったら、まぁ、そうだけどそうじゃない、みたいな?
」と、歯切れの悪い返事。
そうだよな、そんなシンプルだったら、あんなにオタクが熱く語り合ったりしないよな、と納得する。
それにしても、あの作品の根底に流れる「誰かに認められたい」とか「分かり合いたい」みたいな、拗らせた承認欲求が、まさかあんな壮大なスケールで描かれるとは。
庵野監督、あんたは一体どんな青春時代を送ったんだい?
と、つい画面の向こうに問いかけたくなる。
私自身、アニメや漫画は好きだけど、いわゆる「沼」にハマるほど熱中する作品って、そんなに多くない。
だから、たまにそういう沼の住人たちに出会うと、その情熱に圧倒されることがある。
先日、電車の中で、私の斜め前に座っていた50代くらいの男性二人組が、それはもう熱くエヴァンゲリオンについて語っていた。
一人はメガネをかけた痩せ型で、もう一人は少し恰幅の良い、見るからに「オタク道20年」みたいな雰囲気。
彼らの会話は、もはや私には暗号にしか聞こえない。
「やっぱりさ、ユイが一番の罪人だろ?
」
「いやいや、ゲンドウこそすべての元凶だろ。
ユイは、あれはあれで真っ当な選択だったと思うんだよ、人類補完計画を、ああいう形でしか実現できないと信じていたんだから」
「いや、でも、シンジをあんなに追い詰めたのは…」
「あれはシンジが、自分の殻に閉じこもった結果だよ」
「結局、他人に期待しすぎなんだよ、シンジは」
「いや、期待させておいて、裏切る方が悪いだろ」
……延々と続く「ユイが真っ当か否か論争」と「ゲンドウとシンジ、どっちが悪い論争」。
私は、彼らの間に挟まる透明な壁を透かして、そっと耳を傾けていた。
まるで、動物園の檻の中の珍しい動物を観察するかのように。
彼らの口調は、まるで自分たちの子供の進路について真剣に悩む親のようであり、あるいは、長年連れ添った夫婦の馴れ初めを語るかのような、妙なリアリティと、ちょっとした切なさがあった。
特に痩せ型の男性が「ユイはさ、結局、自分の理想を追い求めただけなんだよ」と、ちょっと涙ぐんでさえ見えた時には、思わず「おじさん、頑張れ!
」と心の中でエールを送ってしまった。
彼らにとって、エヴァンゲリオンは単なるアニメではなく、人生の一部であり、まるで自分の身内のような存在なんだろう。
そんな彼らの熱い議論を聞いていると、私まで「ユイって、そんなに悪い女だったの!
」と、なんだか感情移入してきてしまう。
あの時、私は「やっぱりゲンドウが悪い!
」派に傾きかけていた。
人間って、他人の意見に流されやすい生き物なんだな、とつくづく思う。
結局、彼らの論争は結論が出ないまま、私が降りる駅に着いたので、勝手に「途中退場」させてもらった。
電車を降りてからも、しばらく「ユイ、真っ当」とか「ゲンドウ、元凶」といったワードが頭の中をこだましていた。
あの二人、きっと、この後も喫茶店にでも寄って、何時間もエヴァ談義に花を咲かせるんだろうな。
そして、最終的に「結局、みんな不器用で、誰かに愛されたいだけなんだよな」みたいな、ちょっと哲学的な(でも、結局は凡庸な)結論にたどり着くんだろう。
いや、それとも、また次の論争の火種を見つけて、さらに深掘りしていくのか。
その情熱たるや、まるで、うちの母がスーパーの特売日に、わずか5円安い卵を求めて隣町まで自転車を飛ばすあの情熱に匹敵する。
いや、それ以上かもしれない。
人間観察って、本当に面白い。
特に、自分の「好き」を熱く語る人を見ていると、なんだか心が温かくなる。
先日も、スーパーのレジで、前の高齢女性が「あら、これ、おまけついてるのね!
ラッキー!
」と、牛乳パックについた小さなオマケのマグネットを、まるで宝物のように大事そうに眺めていた。
その表情は、エヴァ談義に熱中していた男性たちの、あの真剣な眼差しと、どこか重なる部分があった。
対象は違えど、「好き」とか「嬉しい」といった純粋な感情は、年齢も性別も関係なく、人を輝かせる力があるんだな、としみじみ思う。
そういえば、犬に懐かれる話に戻るけど、あれもきっと、私の「好き」が伝わってるからなのかもしれない。
散歩中の犬を見つけると、ついついニヤニヤしてしまう私。
犬の可愛さに、抗えないのだ。
その「好き」という感情が、目に見えない電波となって、彼らの嗅覚や聴覚、あるいは第六感に訴えかけているのかもしれない。
だから、彼らは私に駆け寄ってくる。
まるで、「あなた、私を好きでしょう?
私もあなたが好き!
」とでも言いたげに。
結局のところ、エヴァンゲリオンを熱く語るオジサンたちも、牛乳のオマケに喜ぶおばあちゃんも、そして私に懐いてくれる犬たちも、みんな、自分の「好き」に正直なだけなんだろう。
そして、その「好き」という感情が、ちょっとだけ不器用だったり、壮大すぎたり、あるいは、ささやかだったりするけど、それがまた、人間らしくて愛おしい。
そんなことを考えながら、私は今日も、知らない犬に懐かれながら、実家の庭で洗濯物を干している。
ちょっと肌寒いから、フリース素材のパジャマを出すか、いや、まだ早いか、と真剣に悩む私。
私の「好き」は、まずは快適な室温と、干したてのフワフワのタオルケット、あたりからスタートするわけだ。
これもまた、一つの人生だな、なんて、ちょっとだけ壮大に締めくくってみたりするけれど、まあ、所詮は日常のささやかな出来事。
ユイが真っ当かどうかは、まだ結論が出てないけれど、とりあえず、今日の晩ご飯は豚の生姜焼きにしよう、と冷蔵庫の豚肉を見ながら思うのだった。
ああ、私にとっての「人類補完計画」は、今日の献立なんだな、と、どうでもいいことを考えながら。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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