孫と猫とスーパーと、妙な胸騒ぎの巻

essay_1772124771602

📝 この記事のポイント

  • 夜中にトイレに起きたら、廊下で猫と鉢合わせして両者固まった。
  • 暗闇の中、シルエットだけが浮き上がり、互いの気配を察知して停止。
  • 私が「ひゃっ」と小さく声を上げた途端、猫はまるで忍者のようにスッと物陰に消えていった。

夜中にトイレに起きたら、廊下で猫と鉢合わせして両者固まった。

暗闇の中、シルエットだけが浮き上がり、互いの気配を察知して停止。

私が「ひゃっ」と小さく声を上げた途端、猫はまるで忍者のようにスッと物陰に消えていった。

まったく、この年になっても猫に驚かされるとはね。

足元がおぼつかないのは人間のほうだというのに。

最近、孫が泊まりに来るたびに生活のリズムがひっくり返る。

朝は早起きして庭の草木に水をやり、猫の餌をやり、それから朝食の準備。

このルーティンはもう何十年も変わらないけれど、孫が来ると、そこに「アンパンマンのパンケーキを焼く」「昨日の折り紙の続きをする」といった項目が追加される。

おかげで、午前中のスーパーへの買い出しは、もう一大イベントと化している。

以前は、平日の午前中なんて、もっとのんびりしたもんだった。

お気に入りのトートバッグを引っ提げて、今日の夕飯は何にしようかな、なんて考えながら、鮮魚コーナーを吟味したり、新商品のドレッシングに目を奪われたり。

それが今じゃ、孫の手をしっかり握って、カートにはアンパンマンのジュースとプリキュアのソーセージ、そして大人用の食材は半分諦め気味に放り込む。

レジに並ぶ間も、隣のカートの中身をチェックする余裕なんてどこにもない。

むしろ、孫が「ママ、これ買って!

」と大声を出さないか、ハラハラしているばかりだ。

この前なんて、ちょっとした騒動があった。

スーパーの入り口で、見知らぬ男性がレジ袋を山ほど抱えて床にぶちまけてしまったのだ。

キャベツがゴロゴロ転がり、卵パックが割れてベチャリ。

ああ、可哀想に。

誰かが手伝ってあげなきゃ、と思った瞬間に、その男性はなぜか大きな声で「なんでだ!

なんでこんなことになるんだ!

」と叫び始めた。

周りの人は一瞬でフリーズ。

私も孫の手をギュッと握りしめて、まるで透明人間になったかのようにその場を通り過ぎた。

店員さんが恐る恐る近づいていく様子を見ながら、ああ、こんな風に感情を爆発させてしまう人もいるんだ、と胸が締め付けられた。

家に帰ってきても、あの光景が頭から離れない。

私も昔は、困っている人がいたら迷わず手を差し伸べていたような気がする。

でも今は、何かあったら怖い、とつい身構えてしまう。

孫を連れているとなおさらだ。

平和な日常に、突然亀裂が入るような、そんな漠然とした不安が、スーパーの通路の隅っこに転がっているような気がしてならない。

考えてみれば、このところ近所でもちょっとした変化を感じることが増えた。

このマンションに住んで三十年。

昔は、顔を合わせれば「あら奥さん、今日はいいお天気ね」「ええ、お宅のお孫さんも大きくなったわね」なんて、当たり前のように世間話が弾んだものだ。

うちの猫が迷子になった時も、町内総出で探してくれたり、庭の手入れをしていると「あら、また珍しいお花を植えてるわね」なんて声をかけてくれたり。

そんな他愛もない会話が、日常を彩っていた。

それが最近は、どうも様子が違う。

若い世代は挨拶しても軽く会釈するだけだったり、目が合ってもすぐに逸らされたり。

もちろん、みんながみんなそうではないけれど、以前のような「ちょっとお茶でもどう?

」なんて気軽に誘い合える雰囲気は薄れてきたように感じる。

顔見知りなのに、どこか壁があるというか、踏み込んではいけないような距離感。

それは、もしかしたら私も含めて、みんなが「トラブルは避けたい」と無意識に思っているからなのかもしれない。

だから、スーパーで困っている人を見ても、すぐに手を差し伸べられない。

何か事件があったと聞いても、他人事のように感じる。

それは、自分が薄情になったわけではないと信じたいけれど、どこかで「関わらないのが一番」という気持ちが、知らないうちに心の中に芽生えてしまっているのかもしれない。

特に、孫を連れていると、その傾向は顕著になる。

この小さな手を、この笑顔を、何としてでも守らなければ、という本能的な感情が、警戒心を何倍にも膨らませるのだ。

そんなことをぼんやり考えていたら、孫が「ばあば、お腹空いたー!

」と叫んだ。

ハッと我に返って時計を見れば、もうお昼の時間だ。

買ってきた食材の中から、孫の大好物である鶏むね肉を取り出し、今日のメニューは唐揚げにしようと決めた。

唐揚げを揚げていると、香ばしい匂いが台所いっぱいに広がる。

その匂いを嗅ぎつけたのか、猫が足元をまとわりつくように「にゃあ」と鳴いた。

まったく、食いしん坊なんだから。

揚げたての唐揚げを皿に盛り、食卓に並べると、孫が目を輝かせた。

私もできたての熱々を頬張る。

うん、やっぱり揚げたては最高だ。

あのスーパーでの出来事も、今日の昼ごはんの美味しさで、少しだけ薄らいだ気がした。

食後、孫は庭でシャボン玉を飛ばして遊んでいる。

私も縁側に座って、その様子を眺める。

陽射しがポカポカと暖かく、庭の花々が風に揺れている。

隣の家の奥さんが、洗濯物を取り込みながら「あら、お孫さんいらしてるのね。

元気ねぇ」と声をかけてくれた。

私も「ええ、もうこの子が来ると家の中がひっくり返っちゃうわ」と笑いながら返す。

そういう、何気ないやりとりが、やはり日常には必要なんだと改めて思う。

スーパーでの出来事は怖かったけれど、その怖さにばかり囚われていては、せっかくの日常が味気ないものになってしまう。

結局のところ、人生なんて、期待した通りにはいかないことばかりだ。

昔はこうだったのに、とか、こうあってほしいのに、なんて思っても、現実は常に変化していく。

でも、その変化の中で、小さな幸せや、ささやかな温かさを見つけ出すことだってできる。

あのスーパーでの胸騒ぎは、日常に潜む影だったかもしれない。

でも、その影があるからこそ、今日の唐揚げの美味しさや、孫の笑顔、そして隣人との挨拶が、より一層輝いて見えるのかもしれない。

猫が私の膝に飛び乗ってきて、ゴロゴロと喉を鳴らす。

その温かさと、のどかな音に、ふと心が安らいだ。

スーパーの子連れも、無敵の人も、世の中には色々な人がいる。

そして、色々なことがある。

だけど、私は私の日常を、できる限り明るく、楽しく、そしてちょっぴり警戒しながら(笑)、これからも生きていこうと思う。

それでいいのだ。

きっと、人生なんてそんなものなのだ。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

目次

📚 あわせて読みたい

 AIピック AI知恵袋ちゃん
AI知恵袋ちゃん
最新版の進化がすごそう
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次