📝 この記事のポイント
- スーパーのレジで並んでいた時、前の人のカゴの中身が気になってしまった。
- これはもう、エッセイストのサガみたいなもんで、人のカゴの中身を見ずにはいられない体質になっちゃってるんだよね。
- 特に興味を引いたのは、妙にヘルシー志向なラインナップ。
スーパーのレジで並んでいた時、前の人のカゴの中身が気になってしまった。
これはもう、エッセイストのサガみたいなもんで、人のカゴの中身を見ずにはいられない体質になっちゃってるんだよね。
特に興味を引いたのは、妙にヘルシー志向なラインナップ。
オーガニック野菜、全粒粉パン、無添加ハム。
うわ、意識高い系!
と心の中でツッコミを入れたものの、ちらりと見えたお会計は8000円超え。
あれ、意外と普通?
いや、もしかしたらこの意識高い系を毎日続けてるだけで、月の食費は軽く数万円飛んでいくのかもしれない。
私なんか、休日のブランチは近所のパン屋で300円の惣菜パンと牛乳で済ませて、夕飯は猫のカリカリを横目にレトルトカレーだったりするから、その差はもう太平洋と日本海くらいあるな、なんてくだらないことを考えていたら、レジが少し混み始めた。
ちょうどその時、私の後ろに車椅子のおじいさんが並んだ。
正確には、列には並べないから、レジの横の通路で待機している感じ。
カゴには牛乳と食パン、それからお徳用サイズのチョコレートが2袋。
うん、親近感湧く!
さっきの意識高い系の人とは真逆の、なんというか、親しみやすい食生活だ。
で、問題はここから。
おじいさんは牛乳をカゴから出すのに少し手間取っている。
店員さんが気づいて手伝ってあげるのが一番スマートなんだけど、生憎レジの店員さんは新人さんらしく、バーコードを通すのに必死で周りが見えていない。
うん、頑張れ新人さん!
でも、おじいさん困ってるよ!
一瞬、どうしようか迷った。
手を貸すべきか、いや、でも変にプライドを傷つけたら悪いかも。
それに、私はすぐレジだし、私の番になったらおじいさんを助けるどころか、カゴの中身をベルトに乗せるので精一杯になっちゃう。
そうこうしているうちに、おじいさんが「すいません、ちょっと…」と小さく声を上げた。
これはもう、行くしかない。
「あの、大丈夫ですか?
」
私が声をかけると、おじいさんはにこやかに頷いて、「これ、ちょっと届かなくてね」と、カゴの奥にある食パンを指した。
よしきた!
とばかりに、私はおじいさんのカゴから食パンとチョコレート2袋を取り出し、ベルトに乗せてあげた。
おじいさんは深々と頭を下げて「助かったよ、ありがとうね」と繰り返す。
いやいや、これくらいお安い御用ですよ!
と、ちょっといい気分になっていたのも束の間、レジのベルトはもう私の商品の番だ。
「ここまでで、ごめんね」と、私は思わず口に出してしまった。
おじいさんはまだレジの会計を済ませていない。
きっと、お財布を出すのにも手間取るだろうし、買った商品を袋に入れるのも一苦労のはず。
でも、私の番が来ちゃったし、後ろには他にもお客さんがいる。
ここで私がずっとおじいさんの隣にいて、全部手伝うのはちょっと…いや、かなり無理がある。
自分の買い物も済ませなきゃいけないし、そもそも、そこまで手伝うのが”善意”なのか”お節介”なのかの境界線も曖昧だ。
何より、私もそこまで余裕のある人間じゃない。
結果、私は自分の会計を済ませて、買ったエコバッグを肩にかけ、おじいさんに会釈をしてスーパーを出た。
外に出ても、なんだかモヤモヤする。
結局、私はどこまでおじいさんを助けたかったんだろう?
カゴから商品を出すところまで?
それとも、袋詰めまで?
いや、もしかしたら、家まで送ってあげるところまで?
いやいや、そこまではさすがに無理でしょ!
でも、あの「ここまでな」という言葉に、なんかこう、ものすごく中途半端な自分を見た気がした。
完遂できない善意は、果たして善意と言えるのか?
なんだか悪徳商法のキャッチフレーズみたいになってきたぞ。
善意は分割払いできません、みたいな。
この「ここまでな」モヤモヤ、思い返せば過去にも何度か経験している。
例えば、電車の中。
座席に座っていたら、目の前に重そうな荷物を持ったおばあさんが立っている。
よし、席を譲ろう!
と立ち上がったはいいものの、そのおばあさんは「大丈夫よ、もう次の駅で降りるから」と、まさかの辞退。
え、まじか。
もう立っちゃったんだけど。
で、結局、次の駅まで立ったまま過ごす羽目になる。
いや、いいんだよ、別に。
立ったって疲れるわけじゃないし。
でも、なんかこう、私の「席を譲る」という善意が、宙ぶらりんで着地できなかった感じ。
あれって、どっちが得したんだろう。
私が席を譲るという意思を示せたから、私自身の満足度は上がった。
でも、おばあさんは結局立ってた。
うーん、引き分け、ってところかな。
いや、私が負けてる気がする。
あとは、そうだな、実家に帰った時、母親が夕飯の準備でバタバタしてる。
よし、手伝おう!
と意気込んで台所に立つんだけど、料理が壊滅的に苦手な私は、もっぱら野菜を切る係。
ピーラーでジャガイモの皮を剥いてたら、途中で指を切っちゃって、結局、包帯を巻いた指で洗い物をするハメに。
なんか、手伝ってるはずなのに、余計な手間を増やしてる気がする。
母親も「あんたはそこで座ってて!
」と半ギレになるし、もう、私の善意が裏目に出る典型的なパターン。
この時も、「ここまでしかできない」どころか「ここまでしかできない上に怪我した」という、三重苦みたいな状況だった。
そう考えると、あのスーパーでのおじいさんとの一件も、私にとっては「できる範囲でやった」という線引きだったんだな、と。
そして、その線引きに対して、ちょっとした罪悪感というか、もっとできたんじゃないか?
というモヤモヤが残った。
でも、それはきっと、人間が「完璧な善意」なんてものを持ち合わせていない証拠なんだろう。
誰もが、自分のキャパシティと、ちょっとした見栄と、あとはまあ、面倒くさいという本能みたいなものと戦いながら、日々生きているわけだ。
うちの猫のミケも、まさにそう。
ご飯をあげると、最初は勢いよく食べるんだけど、皿の底に近づくと急にスピードダウン。
最後の数粒を、まるで哲学者のように考え込みながらカリカリやる。
で、私が「もうお腹いっぱい?
」って聞くと、一応、首を横に振るんだけど、結局食べない。
いや、あと一口でしょ?
あと一口食べたらお皿が空になるのに、なんでそこで諦めるかな。
あれって、ミケなりの「ここまでな」なんだろうか。
いや、違うな。
ミケの場合は「食べたいけど、ちょっと面倒くさい」とか、「もう少し美味いものが出てくるんじゃね?
」とか、そういう邪な気持ちが働いてるに違いない。
猫は正直だからな。
まあ、そんなことを考えていたら、なんだかあのモヤモヤも、ちょっとだけ軽くなった気がする。
スーパーのおじいさんには、きっとあの後、別の誰かが助け舟を出したか、あるいはご自身でどうにかされただろう。
私が「ここまでな」と区切りをつけた後も、世界はちゃんと回ってるんだ。
そして、私も猫も、それぞれの「ここまでな」と付き合いながら、明日も生きていく。
さて、晩ご飯は何にしようかな。
冷蔵庫には半額になってた鶏むね肉があるけど、調理するの面倒くさいな。
あ、でも、あの全粒粉パンと無添加ハムの人が食べてたサラダ、ちょっと美味しそうだったな。
よし、今日は奮発して、コンビニでちょっと高めのサラダチキンでも買って帰ろうか。
そして、冷蔵庫のむね肉は、明日、猫のおやつになるかどうか検討しよう。
たぶん、ならない。
私は料理が苦手なのだ。
完遂できない善意も、完遂できない自炊も、まあ、人生の一部ってことで。
なんてね。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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