📝 この記事のポイント
- 久しぶりに料理をしたら、塩と砂糖を間違えて悲惨な結果になった。
- 正確には、鶏肉の下味で塩と胡椒をするつもりが、砂糖と胡椒になったのだ。
- 普段は妻がちゃちゃっと済ませてくれる家事も、たまに自分でやるとこうだ。
久しぶりに料理をしたら、塩と砂糖を間違えて悲惨な結果になった。
正確には、鶏肉の下味で塩と胡椒をするつもりが、砂糖と胡椒になったのだ。
普段は妻がちゃちゃっと済ませてくれる家事も、たまに自分でやるとこうだ。
一口食べた時の、あの脳がバグるような甘じょっぱさ。
いや、甘辛さではない。
甘じょっぱさ。
なんとも表現しがたい違和感。
幼児の息子も一口食べ、「あまーい!
」とニコニコしていたが、その後に「これ、ちょっとへん!
」と正直な感想を述べていた。
私もそう思う。
自分の舌を疑う前に、なぜかフライパンの鶏肉を凝視してしまった。
肉ってこんなに甘かったっけ、とか。
いや、違う。
よく見たら、塩と砂糖の容器が酷似していたのだ。
いや、酷似しているのは私の収納方法が悪いだけで、本来は明確に区別されているはずなのだが、なぜか私の脳内では両者が混同されがちだ。
特に、料理中に何か別のことを考えたり、息子が「パパ、だっこ!
」と足にまとわりついてきたりすると、もうダメ。
集中力がプツンと切れて、思考回路がショートする。
結果、甘い鶏肉が誕生するわけだ。
人間、思い込みって恐ろしい。
一度、脳が「これは塩だ」と認識すると、もうそれは塩なのだ。
味見をするまで、その勘違いに気づけない。
そんな私の脳内勘違いシステムの話を妻にしたら、「またやってる」と半笑いで言われた。
いや、「また」って。
別に毎週毎週、料理で塩と砂糖を間違えているわけではない。
半年に一度くらいだ。
半年に一度、甘い鶏肉が食卓に並ぶ。
それが我が家の伝統になりつつある。
困ったものだ。
この「思い込み」とか「勘違い」ってやつ、日常のあちこちに転がっている。
つい先日、福岡のマクドナルドで見た貼り紙が、まさにそれだった。
「生徒のみでの出入りを禁止させて頂きます」と、特定の学校名を挙げて。
いや、学校単位で出禁って、すごい話じゃないか。
しかも、マクドナルドだけじゃなくて、観光施設とかでも同じようなことが起こっているらしい。
特定の学校の生徒だけ、利用禁止。
これって、ある種の「勘違い」から始まったんじゃないかと、私は勝手に推測している。
たぶん、最初はごく一部の生徒が悪目立ちしたんだろう。
騒いだり、ゴミを散らかしたり、店の利用方法を逸脱したり。
最初は店側も注意する。
それでも収まらない。
それで、その学校の生徒全体に「迷惑な客」というレッテルが貼られてしまう。
もちろん、店側には店側の事情があるだろうし、迷惑行為があったのは事実だろう。
だから「禁止」という措置に出るのは、最終手段として理解できる。
でも、その学校の生徒全員が迷惑行為をするわけではない。
真面目に利用している生徒だってたくさんいるはずだ。
それなのに、学校名だけで一括りにされてしまう。
これは、迷惑行為をした生徒と、そうでない生徒が、店側にとって「同じもの」として認識されてしまった結果なんじゃないか。
私の塩と砂糖の勘違いとは、規模も性質も全く違うけれど、根底にある「見分けがつかなくなる」というメカニズムは、似ているような気がしてならないのだ。
この「勘違い」の連鎖は、なんとも皮肉なものだ。
本来なら、個々の行動を見て判断すべきなのに、特定の情報だけで全てを判断してしまう。
まるで、私が塩と砂糖の容器の形状だけで中身を判断してしまうように。
そして、その勘違いが、当事者にとっては「なんで私まで?
」という理不尽な結果を生む。
きっと、出禁になった学校の生徒の中には、マクドナルドで友達と楽しくおしゃべりしたり、勉強したり、ただポテトを食べたかったりするだけの生徒もいるだろう。
彼らにとっては、まさにとんだとばっちりだ。
世の中って、こういう「一括り」にしたがる傾向があるよな、と常々思う。
例えば、ある趣味にハマっている人たちを、まとめて「オタク」と呼んだり。
いや、オタクだって色々だ。
同じゲームをしていても、ひたすら攻略に時間を費やす人もいれば、ストーリーの世界観に浸るのが好きな人もいる。
キャラクターのグッズを集めるのが生きがいの人もいれば、二次創作に熱中する人もいる。
それぞれの楽しみ方があるのに、外から見ると「あー、またゲームやってるよ」で終わってしまう。
私も、昔は色々な趣味に手を出しては飽きて、また戻って、を繰り返してきた。
学生時代はバンドに熱中して、毎日ギターを弾き倒していた時期もあった。
アンプの音量を上げすぎて、近所迷惑だと怒られたことも数知れない。
あの頃は、ギターを弾くことが人生の全てだった。
でも、社会人になってからは、仕事に追われて、いつの間にかギターケースは部屋の隅でホコリをかぶるようになった。
週末はひたすら睡眠に時間を費やすか、友人と飲み歩くか。
ギターを弾く時間なんて、全く取れなかった。
何年か経って、ふと昔のバンド仲間と再会した時に、彼らがまだ細々とバンド活動を続けていることを知った。
しかも、以前よりも腕を上げている。
焦った。
私もまたギターを弾き始めた。
最初は指が全く動かなくて、昔弾けていたフレーズすらままならない。
フレットを押さえる指先はすぐに水ぶくれになった。
でも、少しずつ勘を取り戻していくうちに、またあの頃の熱が蘇ってきた。
休日に息子が昼寝をしている間に、ヘッドホンをつけてアンプを通さないで練習する。
静かな音しか出ないが、それでも楽しい。
最近は、昔は全く興味がなかった「キャンプ」にハマりかけている。
きっかけは、友人から誘われて一度行ってみたこと。
それまでは「虫とか無理だし、不便そうだし」と食わず嫌いだったのだが、焚き火の炎を見つめていると、妙に心が落ち着くことに気づいた。
パチパチと薪が爆ぜる音、薪が燃える匂い。
何も考えずに、ただ炎を眺めている時間が、在宅勤務で凝り固まった脳みそを溶かしてくれるような気がした。
最初は「道具を揃えるのが面倒だな」と思っていたのだが、一度ハマり出すと、もう止まらない。
あれも欲しい、これも欲しい。
テント、タープ、ランタン、焚き火台、クーラーボックス……。
週末になると、スマホでキャンプ用品のレビュー動画を見漁り、妻に「これ、安くなってるんだけどどうかな?
」とプレゼンする日々だ。
まだキャンプは2回しか行っていないが、もう立派な「キャンパー予備軍」を自称している。
これも、外から見たら「またなんか始めたよ」で一括りにされる趣味の一つかもしれない。
この「熱中」と「飽き」のサイクルは、人生の縮図のような気がする。
最初はがむしゃらに追いかけて、一度は離れて、でもまた戻ってきて、違う角度から楽しむ。
まるで、塩と砂糖を間違えた私が、今度はしっかりラベルを確認して、甘くない鶏肉を調理するようなものだ。
結局のところ、マクドナルドの出禁の話も、私の趣味の話も、そして甘い鶏肉の話も、全ては「個」を見ることの難しさに繋がるんじゃないかと思う。
人は、とかく全体で物事を捉えがちだ。
特定の情報だけで全てを判断し、一括りにしたがる。
でも、その「一括り」の中には、様々な個がひしめき合っている。
真面目な生徒もいれば、ふざける生徒もいる。
初心者キャンパーもいれば、ベテランもいる。
そして、塩と砂糖を間違える人間もいれば、完璧な味付けをする人間もいる。
だからこそ、私は、たまに料理で塩と砂糖を間違えてしまう自分を、少しだけ愛おしく思う。
そのドジな失敗が、私に「思い込み」や「一括り」にすることの危うさを教えてくれるのだから。
次は間違えないように、塩と砂糖の容器にデカデカとマジックで「塩」「砂糖」と書こうと思っている。
いや、それもまた、一括りの視点に陥っているのかもしれないな。
もしかしたら、妻がそのマジックの文字を「なんかダサい」と一蹴する可能性だってある。
人生、何が起こるかわからない。
だからこそ、面白い。
そう、甘じょっぱい鶏肉のように、人生もまた、複雑な味がするのだ。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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