📝 この記事のポイント
- まるで妖怪でもいるかのように、我が家の洗濯機は定期的に靴下を「召し上がる」のだ。
- いや、正確には乾燥機が吸い込んでいるのか、はたまた干す段階で僕がどこかに落としているのか。
- いずれにせよ、失われた片割れを前に、僕はいつも途方に暮れる。
洗濯物を干していたら、靴下の片方がない。
これで今月3枚目である。
どういうことだろう。
まるで妖怪でもいるかのように、我が家の洗濯機は定期的に靴下を「召し上がる」のだ。
いや、正確には乾燥機が吸い込んでいるのか、はたまた干す段階で僕がどこかに落としているのか。
いずれにせよ、失われた片割れを前に、僕はいつも途方に暮れる。
残された片方が、まるで「お前もいつかはこうなるのだ」とでも言いたげな顔で、こちらを見上げているような気がしてならない。
「また靴下ないじゃん!パパがちゃんと見てないからだよ!」
小学三年生の長男が、僕の足元を覗き込んで、まるで名探偵のように指摘する。
いや、君だって自分で脱いだ靴下を裏返しにしたまま洗濯かごに放り込むじゃないか。
その裏返しが、きっと何かのトリガーになって、靴下が異次元へと旅立つ「ワームホール」を開いてしまうのだ、と僕は心の中で反論する。
もちろん、そんな哲学的な言い訳は通用しない。
現実は、片方だけになった靴下の山が、静かに僕のドレッサーの引き出しを圧迫していくことだけなのだ。
いつか、それらが奇跡的にペアを見つける日が来ることを願って、僕は今日もまた、半端な靴下をそっとしまい込む。
まるで、いつか起こるであろう奇跡を信じて、宝くじを買い続ける人のように、と書くと少し大げさだろうか。
いや、この無駄なストックこそが、僕にとっての「いつか当たるかも」なのだ。
そんなことを考えながら、長男と次男がじゃれ合う声をBGMに、洗い物の山と格闘していた午後のこと。
妻は友人とランチだと言って、朝から上機嫌で出かけていった。
休日の朝、妻が美容院や友人との約束で外出する時、僕の心には常に一抹の寂しさと、ほんの少しの安堵が混在する。
寂しさは、まあ、単純に夫婦の時間が減るから、という建前。
安堵は、一日の指揮権が僕に委ねられ、ある意味で自由を得たような錯覚に陥るから、という本音だ。
しかし、その「自由」は、実際には「ワンオペ」という名の戦場に自ら赴くことを意味する。
朝食の片付けから始まり、午前中の公園遊び、昼食の準備、食べこぼしの掃除、おやつの催促、おもちゃの散乱、そして突然始まる兄弟喧嘩の仲裁。
ああ、考えるだけで胃がキリキリする。
「パパ、おなかすいたー!お昼ご飯まだー?」
時計を見れば、まだ午前11時。
いや、君たち、さっき食パンとバナナを平らげたばかりじゃないか。
我が家の小学生男子は、まるで燃料を際限なく食らう燃費の悪い旧式戦車か、あるいはブラックホールのような胃袋を持っている。
とりあえず、冷蔵庫を覗き込み、前日の残りのカレーを温めることにした。
カレーとご飯さえあれば、彼らは文句を言わない。
というか、むしろ歓喜する。
この単純さが、時に僕の心を救う。
しかし、二人がカレーを食べる姿は、まるで飢えた獣のようだった。
顔の周りについた米粒やカレーのシミは、まるで戦場を駆け抜けた兵士の勲章のようにも見える。
いや、彼らにとっては確かに「食事」は「戦い」なのだろう。
僕にとっては「片付け」という次の戦いの始まりを告げる合図なのだけれど。
食後、子どもたちがリビングで何やら騒がしく遊んでいる間、僕は洗い物を終え、ふと、リビングに転がっていた僕の丸めた靴下を見つけた。
片方だけだ。
ああ、君か。
また君なのか。
そんなことを思いながら、スマホを手に取って、何気なくニュースを眺めていた時のことだ。
目に飛び込んできたのは、「介護業界の過酷さに『すき家の深夜ワンオペ問題』みたいなのが起きなければ改善しないのでは?
」というネット記事の見出しだった。
「すき家の深夜ワンオペ問題」。
ああ、懐かしい。
いや、懐かしいと言っていいのか分からないけれど、社会問題として一時期ずいぶん話題になったものだ。
人手不足の中で、たった一人で店舗を回すという過酷な労働環境。
店員さんが気の毒で、しばらくすき家に行くのをためらった時期もあったっけ。
それが今、福祉職の過酷な労働実態と結びつけられて語られている。
記事を読み進めると、福祉職の方々の「ワンオペ」実態が次々と書き込まれていた。
夜間の施設でたった一人で何十人もの利用者を看る、緊急対応も一人でこなす、排泄介助から見守り、食事の準備まで、文字通り一人で全てを回す。
しかも、それは深夜だけに限らず、日中帯でも当たり前のように起きている現実だと。
僕が今、休日を使って小学生の子ども二人を相手に「ワンオペだー」と騒いでいるのとは、次元が違う話だ。
彼らが直面しているのは、人の命と尊厳に関わる、文字通りの「命がけのワンオペ」だ。
僕の休日のワンオペは、せいぜい子どもがテレビのリモコンを隠したとか、プラレールを破壊したとか、そういうレベルの話だ。
もちろん、それもその時々には僕の神経を逆撫でするには十分な「事件」ではある。
先日も、次男が水筒のお茶をリビングのど真ん中でぶちまけ、拭き掃除と着替えで小一時間消耗したばかりだ。
その間、長男は僕の足元で「パパ、ゲームしていい?
」と無邪気に尋ねてくる。
ああ、君たちの無邪気さが、僕の消耗を加速させるのだよ、と心の中で叫んだ。
でも、福祉職の方々のワンオペは、緊急時にどうするのか、体調を崩したらどうなるのか、という命に関わる切実な問題だ。
僕のワンオペは、最悪の場合でも「まあ、明日は妻がいるし、何とかなるか」という甘えがどこかに存在する。
しかし、彼らの現場には、その「甘え」が許されない。
常に緊張感を強いられ、肉体的にも精神的にも追い詰められているのだろう。
僕が、片方だけの靴下を探して「今月3枚目だ」と嘆いているような、牧歌的な悩みとは全く違う。
そういえば、うちの近所にあるデイサービスでも、朝早くから夜遅くまで、いつも同じ顔ぶれのスタッフさんが忙しそうに働いているのを見かける。
みんな、笑顔で利用者さんに接しているけれど、その裏側でどれほどの苦労があるのだろう、と想像するだけで胸が締め付けられる。
僕がスーパーでレジを待っている数分の間に、隣で介護施設から出てきた車椅子のおばあさんとスタッフさんが、にこやかに会話しているのを見たことがある。
そのスタッフさんは、僕より少し年下くらいに見えたけれど、きっと僕が想像もつかないような大変な日々を送っているに違いない。
僕なんて、スーパーのレジで5分並んだだけで「ちょっと待たせすぎだろ」と心の中で毒づいているような人間なのに。
そんなことを考えていたら、ふと、我が家の犬、柴犬の「まる」が、僕の足元にそっとおもちゃを置いていった。
まるで「パパ、遊んで」とでも言いたげに、上目遣いでこちらを見ている。
そうか、君も僕のワンオペに付き合ってくれているのか。
子どもたちが「まるー!
」と叫びながら、おもちゃを取り上げようとすると、まるはサッと身をかわして、また僕の足元に戻ってくる。
まるで、子どもたちの相手は「ワンオペ」で大変だから、僕に「ツーオペ」で遊んでほしいと訴えているかのようだ。
いや、犬の気持ちを代弁するのは少し無理があるか。
結局、僕の休日のワンオペは、子どもたちとまる相手に、おもちゃを投げたり、おやつをあげたり、絵本を読んだりしているうちに、あっという間に夕方になった。
夕飯は、子どもたちも手伝って(という名の邪魔をして)、餃子を焼くことにした。
僕が具材を混ぜていると、長男が「パパ、これも混ぜていい?
」と、冷蔵庫から取り出したプリンを投入しようとする。
間一髪で阻止したが、その後の言い訳は「だって、全部混ぜるって言ったじゃん!
」という、至極真っ当な(彼らにとっては)意見だった。
ああ、僕の指示が曖昧だったのか。
結局、餃子は無事に完成し、家族みんなで食卓を囲んだ。
子どもたちは、自分たちが手伝った餃子(実際は僕がほとんど作ったのだが)を「おいしい!
おいしい!
」と食べまくる。
その笑顔を見ていると、一日中感じていたワンオペの疲労感も、少しは報われるような気がする。
もちろん、食後の洗い物と、散らかったリビングの片付けという「次のワンオペ」が待っていることは分かっているけれど。
ふと、また洗濯物の山から、片方だけの靴下を見つけてしまった。
これ、どこから来たんだ?
もしかしたら、僕のワンオペで疲弊した心が、幻覚を見せているのかもしれない。
それか、本当に妖怪の仕業なのか。
いや、きっと僕の不注意なのだろう。
まあ、いいか。
とりあえず、この靴下も、いつか奇跡の再会を果たす日まで、そっと引き出しにしまっておこう。
そして、次の休日には、もう少し効率的な「家族ワンオペ」の運用方法を編み出せるよう、今夜からシミュレーションを重ねてみようと思う。
たぶん、無理だろうけど。
そして、介護現場の過酷なワンオペが少しでも改善されるよう、僕にできることは少ないけれど、せめて心の中でエールを送ることにしよう。
ああ、僕のワンオペの日々は、まだまだ続く。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。
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