廃墟のミニチュアと、私の未完成な習慣

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📝 この記事のポイント

  • エレベーターで乗り合わせた人と気まずい沈黙が続いて、降りるのが早まった。
  • うちのマンションは三階建てで、私は二階に住んでいる。
  • 本当ならドアが閉まる音を聞いてからゆっくりと部屋に向かえばいいものを、一階のボタンが押された途端、なんとなくこちらも気配を消した。

エレベーターで乗り合わせた人と気まずい沈黙が続いて、降りるのが早まった。

うちのマンションは三階建てで、私は二階に住んでいる。

本当ならドアが閉まる音を聞いてからゆっくりと部屋に向かえばいいものを、一階のボタンが押された途端、なんとなくこちらも気配を消した。

別に、向こうが怪しい人というわけではない。

ただ、あの静かで密閉された空間で、お互いに無言で天井の表示を見つめ合う五秒間が、たまらなく居心地が悪いのだ。

たかが五秒。

されど五秒。

その五秒を回避するためなら、私は喜んで一階で降りて、階段を上がる。

ちょっとした運動にもなるし、と自分に言い訳をして。

若い頃、二十代の頃の私は、今よりもっと社交的だった、ような気がする。

少なくとも、エレベーターで気まずい沈黙を気にするような人間ではなかった。

むしろ、見知らぬ人との出会いにも何かドラマチックな予感を抱いていたフシさえある。

当時は、出版社で編集の仕事をしていて、毎日が刺激的で、人と会うのが当たり前だった。

取材で初めて訪れる場所に胸を躍らせ、街を歩けば何気ない風景にも物語を見出す。

そんなふうに、世界が広くて、自分の好奇心はどこまでも旺盛だと信じていた。

今思うと、あれは「仕事」という強制的なモチベーションがあったからこそ、持続できた習慣だったのかもしれない。

常に新しい情報を追いかけ、新しい表現を模索する。

締切という明確なゴールと、読者に届けるという責任感が、私を動かしていた。

当時の私にとって、世界はまるで完成された巨大な九龍城砦のようだった。

複雑に入り組んだ路地、無秩序に積み重なった建物、どこからでも光が差し込む隙間があり、どんな小さな窓からも新しい発見が覗く。

そんな場所を、私は探検家のように駆け回っていた。

ところが、数年前に出版社を辞め、フリーランスのエッセイストという名ばかりの肩書きで、細々とライター業を続けるようになってから、少しずつ変化が訪れた。

いや、変化というよりは、本来の私の怠惰な性分が、じわじわと顔を出してきた、というのが正確だろう。

締切こそあれ、自分で仕事を選び、自分でペースを決められる。

その自由は、私をどこまでも自由にした。

それはもう、重力から解き放たれた宇宙飛行士のように、ふよふよと宙を漂う自由だ。

最初のうちは、その自由を謳歌し、好きな時間に起きて、好きな時間に書き、好きな時間に映画を観て、好きな時間に寝る、という生活を楽しんだ。

しかし、やがてそれは、ある種の退屈と、そして、小さな後悔を伴うようになった。

最近、インターネットの記事で見た九龍城砦の3Dモデルが、やけに心に引っかかっている。

写真や映画でしか見たことのない、あの密集した混沌の塊が、精巧なミニチュアとして再現されているらしい。

しかも、ただ眺めるだけでなく、自分で視点を変えて、まるで建物の中を歩き回るように「ガチャガチャ動かすだけでも楽しそう」とあった。

記事には、「作品を作ってなくても買いたくなる」と書かれていたが、まさにその通りだ。

私は別に、ジオラマを作る趣味があるわけではないし、プラモデルだって最後に作ったのは小学校の時だ。

それでも、あの複雑な構造を、自分の指先で探検できるという想像に、どうしようもなく惹かれた。

きっとそれは、かつて私が仕事を通して探検していた「世界」の、手のひらサイズの模型だったからだろう。

昔の私は、何かを「作りたい」という衝動に駆られることが多かった。

例えば、旅行に行けば、そこで見た風景や出会った人々をスケッチブックに描き留めようとした。

家に帰れば、旅の思い出をまとめたアルバムを手作りしたり、友人への手紙にイラストを添えたり。

そんなささやかな創作活動が、日常を彩るスパイスだった。

しかし、今の私はどうか。

本棚には、いつか読もうと思って買ったまま積んである専門書や、途中まで読んで放置された小説が、まるで崩れかけた九龍城砦のように重なっている。

押し入れには、数年前に「健康のために」と意気込んで買ったヨガマットが、埃を被っている。

そして、一番奥には「いつか絵を描こう」と揃えた高価な色鉛筆セットが、一度も削られることなく眠っている。

変わったことと言えば、あの頃の「何かを始めたい」という衝動が、「何かを続けたい」という切実な願いに変わったこと、かもしれない。

いや、切実とまではいかないか。

せいぜい「何かを続けられたらいいな」という、ゆるい願望だ。

例えば、朝食に温かいスープを毎日作る、とか。

観葉植物にちゃんと水をやる、とか。

そういう、ごく当たり前のことが、私にとっては途方もない努力に見えてしまうのだ。

先日も、スーパーで新鮮な春菊を見つけて、「よし、今日は春菊のおひたしを作ろう!

」と意気込んだ。

ところが、家に帰ってテレビをつけたら、面白そうなドキュメンタリーが始まってしまい、結局、春菊は冷蔵庫の野菜室でしおれていく運命を辿った。

ああ、ごめんね春菊。

君の生命を、私は無駄にしてしまった。

そう心の中で謝罪する。

変わらないのは、相変わらず何か新しいものに心を奪われる、好奇心旺盛な面と、それを「習慣」という形に昇華できない怠惰な面が、常に私の内で綱引きをしていることだろう。

九龍城砦のミニチュアを見ても、「欲しい!

」とは思うけれど、実際に買って、それを毎日眺めたり、いじったりするだろうか。

きっと、最初の数日は熱心に触るだろう。

細部までじっくり観察し、あの迷宮のような構造に思いを馳せるだろう。

しかし、一週間もすれば、飽きて本棚の片隅に置かれるのが関の山だ。

埃を被り、やがては「いつかちゃんと掃除しよう」という罪悪感の対象になる。

ちょうど、あの色鉛筆セットやヨガマットのように。

それでも、私は時々、あのエレベーターでの五秒間の沈黙を破って、見知らぬ誰かに話しかけてみたい、という衝動に駆られることがある。

まあ、実際には実行しないけれど。

あと、あの九龍城砦のミニチュアも、いつか本当に手に入れて、埃を被る前に、隅から隅まで冒険し尽くしてみたい。

そんな、ささやかな、しかし、どうにも実現しそうもない夢を抱えながら、私は今日も、スーパーで買った半額の惣菜と、いつか読もうと思っている本を抱えて、二階の部屋へと階段を上がる。

もちろん、エレベーターでの気まずい沈黙を避けるために、一階で降りてからのことだ。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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