令和の最新ガラケー、画面の大きさに驚いた話

📝 この記事のポイント

  • 久しぶりに料理をしたら、塩と砂糖を間違えて悲惨な結果になった。
  • 妻が友人宅へ遊びに行き、幼児の寝かしつけを終えてからの貴重な夜、たまには俺が腕を振るってやろう、と意気込んだのが運の尽きだ。
  • 冷蔵庫の余り物と睨めっこして「豚バラ大根、煮込み」という脳内レシピを生成したまでは良かった。

久しぶりに料理をしたら、塩と砂糖を間違えて悲惨な結果になった。

妻が友人宅へ遊びに行き、幼児の寝かしつけを終えてからの貴重な夜、たまには俺が腕を振るってやろう、と意気込んだのが運の尽きだ。

冷蔵庫の余り物と睨めっこして「豚バラ大根、煮込み」という脳内レシピを生成したまでは良かった。

砂糖と塩、白い粉を並べて置いておく義母にも非がある、とまでは言わないけれど、あの「シャカシャカ」という音を耳にして、まさかそれが塩の塊だったとは。

一口食べた妻の顔が、この世の終わりのような表情をしていたのは言うまでもない。

そんな俺でも、世の中には「これだ!

」と思ったら一直線、というタイプの人もいるらしい。

かく言う俺も、かつてはそうだった時期がある、ような気がしないでもない。

昔から収集癖があったわけじゃない。

ただ、妙なものが気になると、なぜか手を出す習性がある。

それは、子供の頃に集めていた昆虫図鑑だったり、大学生の時にハマったサブスクのレコードだったり、はたまた今のガラケーだったりする。

先日、ふとネットニュースで目にした「令和のガラケー、2026年2月19日発売」という見出しに、俺の古傷がうずいた、と言えば少し大袈裟かもしれない。

だが、あの独特の形、パカッと開く時の心地よい音、そして何より、あの物理ボタンの感触。

ああ、懐かしい。

妻に「これ見てよ」と、その記事を見せた時の反応は、「へえ、まだ作ってるんだ。

でもあなた、今更使うの?

」と、案の定、冷ややかなものだった。

そりゃそうだ。

俺が在宅勤務で、ほとんど家にいる。

連絡手段なんて、今の携帯電話で十分すぎるほど足りている。

それでも、なんだか気になって仕方がない。

「昔のガラケーって、デザインが斬新でカッコよかったんだよね」「ほら、この写真のやつとかさ、なんか未来的じゃない?

」と熱弁を振るう俺に、妻は「ふーん、そうなの」と、幼児のおもちゃを片付けながら、生返事を返していた。

その態度に、少しばかり「この熱意を理解してくれ!

」という、いじけた感情が湧いてきたのは内緒だ。

そして数日後、俺はネット通販で、その「令和のガラケー」をポチっていた。

届いた箱を開けた時の、あの高揚感と言ったら。

まるで子供の頃、クリスマスプレゼントの箱を開ける時のような、いや、それ以上かもしれない。

だって、自分の意思で、自分の金で買ったのだから。

箱から取り出した実機は、想像よりもずっとしっかりとした作りで、適度な重みがあった。

パカッと開いてみる。

カチッ、という小気味良い音が部屋に響く。

指でボタンを触る。

この「押した」という確かな感触。

これだよ、これ。

そして何より驚いたのが、その「画面の大きさ」だ。

今の携帯電話に比べればそりゃ小さいけれど、昔のガラケーと比べると、明らかに一回り大きい。

「うわ、画面デカいな!

これなら文字も見やすいし、なんか、すごい進化してるじゃん」と独りごちて、思わずニヤけてしまった。

妻が隣で「何してるの?

」と聞いてきたので、得意げに「見てよこれ!

最新のガラケーだよ!

画面が大きくて見やすいんだ」と見せつけた。

妻は一瞥して、「ふーん、でもそれ、メールくらいしかできないんでしょ?

」「てか、ボタン押すの面倒じゃない?

」と、またしても冷静なツッコミ。

痛いところを突かれた。

いや、確かにそうなんだけどさ。

でも、この物理ボタンには、なんというか、抗いがたい魅力があるんだよ。

指で文字を打つ時の、あの独特のリズム。

まるでピアノの鍵盤を叩くような、いや、そこまで大袈裟じゃなくても、とにかく「入力してる感」が半端ない。

試しに、妻にメールを打ってみた。

「今夜は、君の好きな、あのチーズケーキを、買っておこうか?

」と、一文字ずつ丁寧に。

打ち終わるのに、今の携帯電話の倍以上の時間がかかった気がする。

送信ボタンを押して、数秒後、妻の今の携帯電話がピコーン、と鳴った。

「ありがとう。

でも、あなた、それ打つのに何分かかったの?

」と、またしても的確な、そしてどこか冷たい返信が来た。

俺は苦笑いしながら、「いや、これ、意外と集中力いるんだよね。

なんか、瞑想してるみたいでさ」と、苦しい言い訳をしてみた。

妻は「ふーん、で、瞑想の結果、チーズケーキは?

」と、結局そこかよ、と突っ込みたくなるような返事を寄越した。

しばらくの間、俺はそのガラケーを愛用してみた。

正確には、家にいる時だけ、だけど。

連絡は基本的に妻とのやり取りと、たまに実家の母に電話するくらい。

まあ、今の携帯電話でもできることばかりなんだけど、それでもガラケーを使うこと自体が、なんだか新鮮で楽しかった。

あの独特の着信音、電源を入れた時の起動画面、そして、何よりも、操作中に他のアプリに気が散らない、という点が、意外と心地よかったりする。

ネットサーフィンもSNSもできない。

あるのは、電話とメール、そしてカレンダー機能くらい。

なんてストイックなんだ。

しかし、その「ストイックさ」が、だんだんと俺を疲れさせてくるのにも、そう時間はかからなかった。

ある日、外出先で急に電車の乗り換えを調べたくなった時、ガラケーをポケットから取り出そうとして、ハッと我に返った。

「あれ、これ、ネット繋がらないんだった」と。

結局、今の携帯電話を取り出して、サッと乗り換えアプリを起動。

その時の、あの「ああ、やっぱり便利だな」という、少しばかり罪悪感の混じった安堵感。

昔の自分なら「文明の利器に魂を売ったな」と自嘲していたかもしれないけれど、今の俺は、素直に「助かった」と思った。

そういえば、昔もそんなことがあった。

アナログレコードにハマって、プレイヤーからアンプ、スピーカーまで揃えて、何時間もかけてレコードを聴いていた時期があった。

そのうち、一枚のレコードを聴き終えるたびに、ジャケットを眺め、盤を拭き、裏返す、という一連の作業が、なんだか「儀式」のように感じられてきて、次第に疲れてしまったんだよね。

結局、今では、またサブスクに戻って、手軽に音楽を楽しんでいる。

ガラケーも、結局は同じなのかもしれない。

最初は物珍しさや、過去への郷愁、あるいは、今の生活へのちょっとした反骨心みたいなものが、俺を突き動かしたのかもしれない。

でも、結局、人間は便利なものから離れられないようにできている、というか、必要に迫られれば、やっぱり便利な方を選ぶんだよね。

そりゃそうだ。

俺だって、あの塩と砂糖を間違えた豚バラ大根、美味しく食べられるなら、とっくにそうしてる。

今では、あの「令和のガラケー」は、リビングの片隅に、オブジェのようにひっそりと置かれている。

たまに、幼児がそれを見つけて「パカパカ!

」と言いながら、開いたり閉じたりして遊んでいる。

その姿を見ていると、なんだか、俺のささやかな「勘違い」と「恥ずかしい奮闘」が、少しだけ報われたような気がして、思わず笑ってしまうんだ。

結局、俺にとってのガラケーは、使うことよりも、そこに「ある」ことに意味があったのかもしれない。

まあ、次はもう少し、実用性のある「趣味」を見つけようかな、と妻に内緒で密かに計画している今日この頃である。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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