汗と後悔と、それでも捨てられないダンベルの話

📝 この記事のポイント

  • 久々に会った友人が激やせしていて、「大丈夫? 」と聞いたらダイエット成功とのこと。
  • 聞けば、半年前からパーソナルジムに通い始めたらしい。
  • 食生活もがらりと変えたと、ツルツルになった肌で得意げに話す。

久々に会った友人が激やせしていて、「大丈夫?

」と聞いたらダイエット成功とのこと。

聞けば、半年前からパーソナルジムに通い始めたらしい。

週に二回、自分を追い込む時間。

食生活もがらりと変えたと、ツルツルになった肌で得意げに話す。

彼の目は、以前の覇気のないそれとはまるで違っていた。

なんというか、こう、妙に輝いている。

「お前もどうだ? すごくいいぞ。俺、生まれて初めて運動が楽しいって思ったもん」

そう言われても、私は生返事を返すのが精一杯だった。

運動、ねえ。

それは私にとって、まるで夏休みの宿題の最終日にまとめてやる作業のようなものだ。

気が重く、始めるまでに時間がかかり、終わったところで達成感よりも疲労感が勝る。

そして、なぜかいつも完璧には終わらない。

中学、高校と、私は部活に真面目に取り組んでいた。

いや、取り組まざるを得なかった、が正しいかもしれない。

体育会系の部活特有の、あのピリピリした空気。

タイムを測るたびに「遅い!

」と怒鳴られ、先輩の視線に怯えながら練習に励む日々。

目標は常に「より早く」「より強く」で、自分の体が今、どう感じているかなんて、考える余裕もなかった。

むしろ、感じてはいけない、とさえ思っていた節がある。

少しでも疲れた素振りを見せれば「気合が足りない」と一蹴されるのがオチだ。

そんな毎日を過ごしているうちに、私の体はすっかり運動嫌いになってしまった。

部活を引退した時の解放感は、今でも鮮明に覚えている。

あれは、義務からの解放、という他ない。

それ以来、私は自ら進んで運動するという行為から遠ざかってきた。

体育の授業は最低限にこなし、大人になってからは、たまに散歩するくらいが関の山。

それでも特に不便を感じることもなく、休日は恋人と美味しいものを食べに出かける生活を満喫していた。

だから、友人の目の輝きを目の当たりにしても、すぐに「私も!

」とはならなかった。

しかし、同時に、彼の変化を少しだけ羨ましいと感じたのも事実だ。

なんというか、自分の体と向き合って、それを変えていく姿は、純粋に格好いい。

そして、楽しそうだった。

その日の夜、同棲している恋人に友人の話をした。

「へえ、すごいね」と、彼は特に興味もなさそうに、テレビを見ながらポテトチップスを食べていた。

彼は私と違って、細身で食べる量も多く、特に運動をせずとも体型を維持できる、世にも稀な体質を持っている。

ある意味で、私とは真逆の存在だ。

いや、逆だからこそ、一緒にいるのかもしれない。

「でもさ、ちょっとだけ、私も運動してみようかなって思っちゃった」
「え、まじで?


彼は驚いた顔をして、ポテトチップスの手を止めた。

「うん、なんとなく。

なんか、こう、自分と向き合う、みたいな?


「ふーん。

まあ、いいんじゃない?

彼のあっさりとした返事に、拍子抜けしつつも、私は妙な決意を固めた。

別にパーソナルジムに通うような大掛かりなことはしない。

まずは、家でできることから始めよう。

そう思って、次の休日、私と恋人は近所の大型スーパーの隣にあるスポーツ用品店へ向かった。

店内には、カラフルなウェアや、機能的なシューズ、そして様々なトレーニング器具が並んでいる。

目に飛び込んできたのは、やたらとマットな質感のダンベルだった。

鮮やかなミントグリーンと、淡いピンク。

まるでオブジェのように可愛らしい。

「これ、可愛いね」
私が指差すと、恋人も「ほんとだ。

こういうのだったら、部屋に置いてあっても邪魔にならないかもね」と、珍しく乗り気だった。

「どうせなら、ちょっと重めがいいんじゃない?

効果ありそうだし」
「でも、いきなり重いのだと続かないんじゃない?

謎の自信に満ち溢れ、私はミントグリーンの3kgのダンベルを手に取った。

ずっしりとした重みが、なんだか「ちゃんと運動してる感」を掻き立てる。

隣で恋人は、500gの可愛らしいピンクのダンベルを手に取り、「これくらいがちょうどいい」と笑っている。

おいおい、それ、パンを焼くときに使う重りか?

と心の中でツッコミを入れつつ、私も3kgのダンベルをレジへ持っていった。

家に帰り、早速ダンベルを床に置いてみた。

可愛らしいミントグリーンが、殺風景な部屋に彩りを添える。

なんだか、それだけで運動した気分になった。

その日は、ダンベルを眺めるだけで終わってしまったけれど、翌日こそは、と意気込んだ。

翌日。

意気込んだはいいものの、いざダンベルを手に取ると、どうしていいか分からない。

YouTubeで「自宅 ダンベル トレーニング」と検索し、初心者向けの動画をいくつか見てみる。

画面の中のトレーナーは、笑顔で軽々とダンベルを上げ下げしている。

「まずは、肩からゆっくりと上げていきましょう」
言われた通りにやってみるが、3kgのダンベルは、見た目以上に重い。

たった数回上げ下げしただけで、肩が悲鳴を上げた。

「うーん、これ、効いてるのかな?


鏡に映る自分の姿は、まるで初めて逆上がりに挑戦する子どものように、ぎこちない。

恋人は隣で、私の半分の重さのダンベルを軽々と持ち上げながら、にこやかにスクワットをしている。

なぜかちょっと腹が立った。

結局、その日も数分でギブアップ。

ダンベルは、部屋の隅に置かれたまま、私の運動意欲と共に静かに佇むことになった。

それから数週間、ダンベルはインテリアの一部と化していた。

時々、掃除の邪魔になるからと、恋人が別の場所に動かすくらいで、私が手に取ることはほとんどない。

「あのダンベル、どうしたの?


ある日の夕食中、恋人が突然聞いてきた。

「え、あー、あれね……」
私は言葉を濁した。

まさか、部屋の隅でホコリをかぶっている、とは言えない。

「もしかして、もう使ってない?


彼の目は、私の心を全て見透かしているかのように、真っ直ぐだった。

「いや、たまには、ね。

気分転換に」
苦しい言い訳だ。

自分で言っていて、顔が熱くなるのを感じた。

結局、ダンベルは、私の「運動したい」という一時的な衝動の象徴となってしまった。

あの日のスポーツ用品店での高揚感はどこへやら。

店員さんに「効果ありますよ!

」と言われて、つい買ってしまった、あの時の自分を少しだけ恨めしく思う。

でも、完全に無駄になったわけではない、と自分を慰める。たまに、本当にたまにだけど、気が向いた時にダンベルを手に取ってみる。相変わらず、数回で肩が痛くなるけれど、それでも「ちょっとだけ」は動かしている。

最近、友人に連絡してみた。

「あの後、どうなった?

」と聞かれたら、どう答えようかと思っていたら、彼の方から「最近、運動してる?

」と聞いてきた。

「うーん、まあ、マイペースにね」
「そっか。

俺もさ、最近はジムも週一くらいなんだ。

なんか、無理すると続かないって分かってさ」
彼の言葉に、私は少しだけホッとした。

そうか、無理しなくてもいいんだ。

私たち大人になった人間は、誰かに強要されるわけでもなく、誰かと競争するわけでもなく、ただ「自分のためだけに」何かをするのが、本当に難しいのかもしれない。

部活のトラウマというほど大袈裟なものでもないけれど、何かに「縛られる」ことへの抵抗感は、確かに私の中に根付いている。

先日、恋人と近所の公園を散歩している時、ふと、地面に落ちていた石を拾い上げた。

手のひらに乗るくらいの、ごく普通の石だ。

これを握って、腕を振るだけでも、少しは運動になるんじゃないか?

なんて、馬鹿なことを考えて、そっとポケットに入れた。

家に帰り、ポケットから石を取り出すと、隣にミントグリーンのダンベルが置いてある。

そうか、この石も、ダンベルも、結局は同じなんだ。

どちらも、私が「何かを始めたい」と思った時に、そっと寄り添ってくれる、ただの道具。

結局、私はあの頃の友人のように、運動で激やせしたり、体つきが劇的に変わったりすることはなさそうだ。

でも、それでいいような気がする。

休日は恋人と美味しいものを食べに出かけ、家に帰れば、部屋の隅に置かれたダンベルと、ポケットの中の石を眺める。

そして、気が向いた時に、ほんの少しだけ、体を動かす。

運動を嫌いにさせたのは、誰だったのか。

あるいは、何だったのか。

それはもう、どうでもいい。

ただ、汗を流すという行為が、誰かの評価のためでも、序列を上げるためでもなく、ただ自分自身の心と体のためだけのものになる日が、いつか来るのかもしれない。

その日を夢見ながら、今日も私は、スーパーで期間限定のスイーツを眺めている。

まあ、それも、私にとっての「運動」みたいなもの、かもしれない。

たぶん。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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