100均とフィギュアと、僕の変わらない日常

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📝 この記事のポイント

  • いつもは「今日はこれだけ」と心に決めて店に入る。
  • でも、あの陳列棚の魔力というか、引力というか。
  • 特に、今まで知らなかった便利グッズや、色違いで揃えたくなるような文具を見つけてしまうと、もうダメだ。

100円ショップで必要なもの1つだけ買うつもりが、15個持ってレジに並んだ。

いつものことだ。

いつもは「今日はこれだけ」と心に決めて店に入る。

でも、あの陳列棚の魔力というか、引力というか。

特に、今まで知らなかった便利グッズや、色違いで揃えたくなるような文具を見つけてしまうと、もうダメだ。

レジ前で「なんでこんなに?

」と我に返るものの、後の祭り。

買ったものは結局使うから、まあいいか、と自分を納得させるのもいつものパターンだ。

今日は、文庫本サイズのブックカバーを買いに行ったはずなのに、何故か観葉植物用の小さなジョーロとか、猫の形のクリップとか、全く必要なかったものまでカゴに入っていた。

家に帰って買ったものを広げると、義理の娘が「また色々買ってきたんだ」と呆れたような、でも少し楽しそうな顔で眺めている。

僕の妻は「あら、この猫のクリップ、可愛いじゃない」と、僕の衝動買いをあっさり肯定するタイプだ。

おかげで、僕の「失敗談」は、家庭内で笑い話として消費され、結果的に罪悪感は薄まる。

なんとも都合の良い環境である。

先日、テレビでミラノ・コルティナ五輪の女子フィギュアスケート金メダリストの生い立ちについて特集していた。

彼女は、幼い頃から並々ならぬ努力を重ね、幾多の困難を乗り越えて頂点に立ったという。

それはもう、漫画やアニメの世界から飛び出してきたような波乱万丈の物語で、まるでリアル版『機動戦士ガンダムSEED』だ、と妻が言っていた。

僕も頷いた。

孤高の天才少女が、過酷な環境の中で才能を開花させ、ライバルとの切磋琢磨を経て、ついに世界を制する。

その過程で、彼女を支える人々の愛情や葛藤も描かれ、涙なしには見られない、と。

しかし、同時に感じたのは、決して美談だけで済ませていい話ではないだろう、ということだった。

幼い頃から彼女に課せられたであろう重圧、想像を絶する練習量、プライベートの犠牲。

金メダルという輝かしい結果だけを見て、全てを肯定してしまっていいのか。

彼女の生い立ちを紐解けば紐解くほど、そこには大人たちの思惑や、スポーツ界特有の厳しさ、そして何より、彼女自身の「それしか許されない」かのような覚悟のようなものが透けて見える。

僕のような凡人には、想像することしかできない世界だ。

僕が子供の頃、スポーツは「体を動かすことが楽しい」というシンプルな動機だった。

もちろん、勝ちたい気持ちはあったけれど、それよりも友達と汗を流すこと自体が目的だった。

それがいつの間にか、結果を出すこと、競争に勝つことが絶対的な価値を持つようになった。

もちろん、それがプロスポーツの世界を豊かにしている側面もあるけれど、一方で、その光の影に隠れてしまうものも少なくない。

彼女の生い立ちが「リアルガンダムSEED」と表現されるほどのドラマ性を持つのは、まさにその極限状態の中で彼女が戦い抜いてきたからなのだろう。

僕の義理の娘は、いま中学でバドミントン部に所属している。

週に何日か練習があり、たまに試合にも出かける。

僕も妻も、娘がバドミントンで何か大きな目標を達成することを望んでいるわけではない。

ただ、彼女が楽しんで、友達と良い時間を過ごせればそれでいいと思っている。

先日、彼女が試合で負けて帰ってきたとき、「悔しかったけど、次はもっと頑張る」と言っていた。

その言葉を聞いたとき、僕は少し安心した。

悔しさも、次への意欲も、彼女自身の内側から湧き出たものだからだ。

話は変わるが、先日、僕は久しぶりに古いレコードプレイヤーを引っ張り出してきた。

妻の実家から譲り受けたもので、もう20年以上使っていなかった。

埃を拭き、針を下ろしてみると、ノイズ混じりではあるものの、懐かしい音が部屋に響いた。

当時よく聴いていたフォークソングのアルバムだ。

歌詞カードを広げながら聴いていると、学生時代の様々な出来事が走馬灯のように蘇ってきた。

あの頃は、将来のことなんて全く考えていなかったな、と。

ただ、目の前の日々を一生懸命生きていた。

レコードプレイヤーを引っ張り出したのは、特に深い理由があったわけではない。

ただ、ふと目に入っただけだ。

僕の人生は、そんな「ふと」が積み重なってできているような気がする。

100円ショップでの衝動買いも、レコードを聴く時間も、計画性とは無縁だ。

でも、それでいいと思っている。

計画通りに物事を進められない自分に、昔は自己嫌悪を感じることもあった。

もっと効率的に、もっと賢く生きなければ、と。

しかし、50代にもなると、そういう自分を受け入れられるようになってきた。

完璧じゃない自分を、どこか面白がる視点も持てるようになった。

義理の娘が、僕がまた余計なものを買ってきたときに見せる、あの呆れたような、でもどこか微笑ましい表情。

あれが僕の日常を形作っている。

そして、妻が「あら、可愛いじゃない」と、僕の衝動買いを包み込む。

この緩やかな空気感が、僕には心地いい。

オリンピックの金メダリストのような、壮絶な人生を送ることはできないし、そもそも望んでいない。

ただ、毎日を穏やかに、そして少しだけユーモラスに生きていきたい。

100円ショップで買った猫のクリップは、なぜか会社のデスクで重宝している。

観葉植物用のジョーロは、妻が小さなハーブを育てるのに使ってくれている。

衝動買いしたものは、結局誰かの役に立ったり、ささやかな彩りになったりする。

なんだ、無駄なことなんて一つもないじゃないか、と都合よく解釈している。

僕の人生は、壮大な物語にはならないかもしれない。

でも、それもまた、僕なりの「あるある」の積み重ねだ。

そして、その「あるある」の中に、ささやかな幸せや、クスッと笑える瞬間が散りばめられている。

それで、十分だ。

明日もきっと、僕はまた何か余計なものを買ってくるだろう。

そして、家族はまた、それを笑って受け止めてくれる。

そんな日常が、きっと僕には一番合っている。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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