📝 この記事のポイント
- 近所のコンビニで、いつもと違う店員さんが弁当を温めすぎて湯気がすごい。
- 電子レンジから取り出されたチキン南蛮弁当は、もはや湯気で輪郭がぼやけ、まるで湯けむり温泉郷から現れた幻の料理みたいだ。
- 普段は「温めますか? 」と聞かれ、「はい、お願いします」と答えるだけの簡潔なやりとりが、今日は妙にドラマチックに感じられた。
近所のコンビニで、いつもと違う店員さんが弁当を温めすぎて湯気がすごい。
電子レンジから取り出されたチキン南蛮弁当は、もはや湯気で輪郭がぼやけ、まるで湯けむり温泉郷から現れた幻の料理みたいだ。
普段は「温めますか?
」と聞かれ、「はい、お願いします」と答えるだけの簡潔なやりとりが、今日は妙にドラマチックに感じられた。
店員さんの手元からは、熱気が「シュウウウッ」と音を立てて立ち上り、一瞬、自分の顔が汗ばんだ気がする。
新しい店員さんなのかな、とぼんやり考えていたら、お箸とスプーンを間違えて渡されそうになった。
いや、チキン南蛮にスプーンはいらないんですよ、と心の中で呟きながらも、温かすぎる弁当を受け取って店を出た。
こういうちょっとしたハプニングって、日常のスパイスになるというか、単調なルーティンにささやかな波紋を投げかけるよね。
実家暮らしの僕にとって、コンビニは社会との貴重な接点だったりするから、店員さん一人変わるだけで、妙に新鮮な気持ちになる。
家に着いて、食卓に弁当を置くと、湯気はまだ元気に立ち上っていた。
アツアツのチキン南蛮を一口頬張ると、衣はしっとりどころか、もうタレと一体化してトロトロだ。
ご飯も芯まで熱が通り過ぎて、なんだか水分が飛びすぎているような……。
これはこれで悪くないんだけど、ベストではない。
完璧を求めるのは酷だけど、もう少しこう、カリッとジューシーなチキン南蛮が食べたかった、というのが正直なところ。
まるで、お湯を注ぎすぎたカップラーメンの麺がフニャフニャになりすぎた時の、あのちょっとした敗北感に似ている。
そういえば、最近、ニコニコ動画で「踊ってみた」の歴史に関する動画を観たんだっけ。
黎明期から活躍する踊り手の「ただのん」さんが、自身の体験に基づいて語る「踊ってみた」の歴史。
それがもう、熱気がすごかった。
ただのんさんの語り口は、コンビニ弁当の湯気どころじゃない、もはや火山から噴き出すマグマのような熱量で、画面越しにもその情熱が伝わってくる。
僕が「踊ってみた」にハマったのは、ちょうど高校生の頃だったかな。
部活で疲れて帰ってきて、夕飯を食べながらテレビを観るでもなく、なんとなくパソコンを開いてニコニコ動画を眺めるのが日課だった。
あの頃はまだガラケーが主流で、スマホなんてSFの世界の話だったから、動画を観るならパソコン一択だった。
通信速度も今ほど速くなくて、動画が途中で止まったり、画質が悪かったりすることもよくあったけど、それでも楽しかった記憶がある。
「踊ってみた」の動画って、すごく手作り感があって、それがまた良かったんだよね。
公園で撮った動画とか、自宅の一室で撮った動画とか。
背景に洗濯物が映り込んでたり、家族の声が聞こえたりするような、そういう生活感のある動画に親近感を覚えた。
ダンスも、プロみたいな完璧さじゃなくて、ちょっとぎこちなかったり、振り付けを間違えちゃったりするのも含めて、すごく人間味があった。
それが、僕らの青春の日常と重なる部分があったのかもしれない。
ただのんさんの動画を観ていて、一番印象的だったのは、初期の「踊ってみた」の文化が、いかに試行錯誤の上に成り立っていたか、という話だった。
カメラの選び方、撮影場所、照明、編集ソフト……。
今みたいに高性能な機材やアプリが手軽に手に入る時代じゃなかったから、みんな限られた予算と知恵を絞って、何とかして動画を作っていたんだよね。
公園のブランコにカメラを固定したり、友達に三脚代わりにしてもらうとか、そんなアナログな方法で。
まるで、ちょっと焦げ付かせちゃったけど、それでも美味しい手作りの料理みたいな、そういう温かみがあった。
僕も筋トレ動画を撮ってみようかな、なんて一瞬だけ思ったことがあるけど、結局スマホで数秒撮って満足しちゃった。
動画編集なんて、考えただけで頭が痛くなる。
昔の踊り手さんたちは、本当にすごい。
情熱だけであんなにクオリティの高いものを作り上げていたなんて。
それはもう、料理の腕前を超えて、もはや職人の域だ。
ただのんさんが語る「踊ってみた」の歴史は、単なるダンスの話じゃなかった。
それは、インターネットという新しいメディアの黎明期における、表現者たちの熱い挑戦の物語だった。
自分たちの「好き」を形にするために、手探りで道を切り拓いていく姿は、今の僕らには想像できないくらいのエネルギーがあったはずだ。
動画を投稿するたびに、コメント欄が盛り上がって、それがまた次の創作の原動力になる。
そんな、熱い交流の場がそこにはあったんだろうな。
僕も高校生の頃、初めて作った料理が、なぜか激辛になってしまって、妹から「これ毒?
」と言われたことがある。
レシピ通りに作ったはずなのに、なぜか唐辛子を入れすぎてしまったのだ。
でも、その失敗から、次はどうすれば美味しくなるのか、と考えるようになった。
初期の踊り手さんたちも、きっとそういう試行錯誤を繰り返していたんだろう。
納得のいく動画が撮れるまで、何十回も踊り直したり、編集をやり直したり。
そのプロセス自体が、彼らにとっては宝物だったに違いない。
ただのんさんの動画を観ていて、ふと、自分の中の「好き」ってなんだろう、と改めて考えさせられた。
筋トレは好きだけど、それもどこかで「体づくり」という実用的な目的がある。
漫画を読むのは好きだけど、それは受動的な行為だ。
踊り手さんたちのように、自分の内側から湧き上がる衝動を、形にして表現する、という経験は、今の僕にはあまりないかもしれない。
そういえば、うちの母親は、昔から料理が好きで、よく凝ったものを作ってくれる。
見た目はちょっと崩れてても、味はいつも最高なんだよね。
この前なんか、「冷蔵庫の残り物で新しいレシピを開発したの!
」と、謎の野菜炒めを出してきた。
見た目は正直、あまり食欲をそそらない色合いだったけど、一口食べたらこれが意外と美味しくて。
そういう「好き」を突き詰める姿勢って、年齢に関係なく、見ていて気持ちがいいものだ。
ただのんさんの「踊ってみたの歴史」動画を観ながら、またチキン南蛮弁当に目を戻した。
湯気はもう落ち着いて、衣も落ち着いて、なんだかちょっとしんなりしている。
でも、このしんなりしたチキン南蛮も、これはこれでアリかもしれない、と思えてきた。
完璧じゃなくても、ちょっと失敗しても、それはそれで愛おしいというか、その時の味として記憶に残る。
それは、初期の「踊ってみた」動画の、ちょっと粗削りだけど、情熱が詰まった魅力と重なる部分があるような気がした。
僕らが当たり前に享受している「手軽に動画を観られる」という環境は、その裏で、多くの人々の情熱と試行錯誤があったからこそ、今があるんだよね。
そう考えると、コンビニでちょっと湯気が立ち上りすぎた弁当も、なんだか特別に思えてくる。
次は、もう少しだけ温め時間を短くしてください、と伝えてみようかな。
でも、また湯気がすごい弁当が出てきても、それはそれで面白いから、きっと笑って受け取ってしまうんだろうけど。
結局のところ、僕たちはみんな、日常のちょっとした不完全さや、誰かの情熱に、心のどこかで惹かれているのかもしれない。
完璧なものより、少しだけ手作り感のある、温かいものに。
そして、そうやって他人の「好き」に触れることで、自分の中の「好き」も、また少しだけ温め直される。
みんなも、そういう経験、あるよね?
誰かの熱量に触れて、自分の心の奥底に眠っていた情熱が、ふつふつと再燃するような。
それが、焦げ付きかけた料理の味を思い出すような、ちょっと切なくて、でも温かい感覚だったりするんだよね。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

