📝 この記事のポイント
- 近所の定食屋で常連扱いされて、注文前にお茶が出てきた。
- 今日はいつもの日替わり定食じゃなくて、ちょっと奮発してカツカレーにしちゃおっかな、なんて考えながら湯気の立つグラスを両手で包む。
- 「お姉さん、カツカレーでいい? 」と厨房から声が飛んでくる。
近所の定食屋で常連扱いされて、注文前にお茶が出てきた。
今日はいつもの日替わり定食じゃなくて、ちょっと奮発してカツカレーにしちゃおっかな、なんて考えながら湯気の立つグラスを両手で包む。
「お姉さん、カツカレーでいい?
」と厨房から声が飛んでくる。
いや、まだ注文してないし。
でも、まあ、いいか。
ここは「お食事処 味よし」。
私が大学生の頃からお世話になっている、実家から自転車で5分の場所にある聖地だ。
バイト帰りにフラッと寄って、疲れた体に染みる味に何度救われたことか。
おじちゃんとおばちゃんは、もう私の家族構成まで把握している。
私の母が一度、店の前を通りかかっただけで「あら、お母さん!
娘さん、最近彼氏さんと来てないね!
」と聞かれたらしい。
いや、余計なお世話だよ、まったく。
そんな味よしで、私はとんでもない勘違いをしていた。
いや、勘違いというか、なんというか、脳内メモリのアップデートを怠っていたとでも言おうか。
店内には、いつもの演歌ではなく、やけに甘ったるいポップスが流れていた。
そして、レジの横には小さく「バレンタイン限定!
チョコレートパフェ」の貼り紙。
そうか、もうそんな時期なのか。
私は毎年、この時期になると「今年は手作りでいくか、デパートで義理チョコの詰め合わせを買うか」という、壮大なる二択に迫られる。
そして、たいていデパートのお世話になる。
なぜなら、手作りなんて、およそ私の柄じゃないからだ。
いや、柄じゃない、なんて言うと語弊があるな。
過去には、それなりに凝ったお菓子作りにはまっていた時期もあるのだ。
高校生の時なんかは、友チョコ文化にどっぷり浸かり、放課後に友人の家でひたすらクッキーを焼いていた。
あの頃は、バターもチョコレートも、卵も小麦粉も、もっとこう、手の届くところにいた気がする。
なんていうか、コンビニで肉まん買うくらいの感覚で、板チョコをカゴに入れていたような。
そんな、遠い日の記憶をたぐり寄せながら、「よし、今年は手作りに挑戦するか」と、私は妙に前のめりになっていた。
なぜなら、最近、とある動画サイトで、海外のパティシエが作る、異様に手の込んだチョコレートケーキの動画にハマってしまったからだ。
見た目も華やかで、とんでもなく美味しそう。
しかも、なぜか「思ってたより簡単じゃん?
」という錯覚を起こさせる編集マジック。
これなら私もできる!
と、何の根拠もなく思い込んでしまったのだ。
目標は、職場の同僚全員に配る用の「おしゃれなトリュフ」。
そして、ついでに実家の父と弟にもあげる用の「ちょっと本格的なブラウニー」。
さらに、もし万が一、奇跡的に好きな人ができたら渡す用の「とびきり可愛いアイシングクッキー」。
いや、最後のやつは完全に妄想だけど。
まあ、とりあえず、トリュフとブラウニーは必須だ。
そうとなれば、まずは材料の調達。
私は、いつものスーパーとは違う、ちょっと品揃えが良いと評判の高級スーパーへ足を運んだ。
入り口には、バレンタイン特設コーナーが設けられていて、キラキラしたパッケージのチョコレートや、普段見慣れないリキュール、そしてラッピング材なんかが並んでいた。
まるで、私を待っていたかのように。
私のテンションは爆上がりだ。
「これぞ、お菓子作りの醍醐味!
」と心の中で叫びながら、カゴに次々と材料を放り込んでいく。
クーベルチュールチョコレート、生クリーム、ブランデー、ココアパウダー、アーモンドプードル、くるみ、ドライフルーツ、そしてラッピング用の箱とリボン。
そうそう、このちょっと贅沢な感じが、手作りのいいところだよね。
脳内では、すでに私がエプロン姿で颯爽とキッチンに立ち、チョコレートをテンパリングする姿が再生されていた。
友人たちからは「えー!
これ手作り!
お店のやつかと思った!
」と驚かれる声が聞こえてくる。
完璧なシナリオだ。
しかし、レジに並び、店員さんが流れるようにバーコードを読み取っていくのを見ているうちに、私の心臓は嫌な音を立て始めた。
「ピッ、ピッ、ピッ」。
その音は、まるで私の財布からお金が吸い取られていく音のようだった。
カゴの中には、確かにたくさんの材料が入っている。
でも、まさか、こんなに、という驚きがじわじわと込み上げてきた。
「合計で、えーっと、18,780円になります」
店員さんの声が、まるで遠くから聞こえるようにぼんやりと響いた。
は?
今、なんて言った?
じゅうはっせんななひゃくななじゅうはちえん?
私の耳は、きっと疲れているんだ。
いや、店員さんが言い間違えたんだ。
そうに違いない。
だって、私が想定していた金額は、せいぜい1万円くらい。
いや、多く見積もっても1万2千円が限界だ。
だって、チョコと生クリームとブランデーでしょ?
そんなにかかるわけないじゃん。
「あの、もう一度お願いします」
私は、震える声で店員さんに懇願した。
店員さんは、少し怪訝な顔をしながらも、もう一度合計金額を読み上げてくれた。
やっぱり、同じ金額だ。
私の思考回路は完全にショートした。
予想の1.5倍どころか、ほぼ2倍じゃないか。
え、これ、私、本当に買うの?
いや、買うしかないよね。
もう全部カゴに入れちゃったし、レジ通しちゃったし。
今さら「やっぱりやめます」なんて言ったら、あの優しい店員さんを困らせちゃう。
それに、後ろに並んでいるおばさんも、なんだかこっちをガン見している気がする。
いや、ガン見しているのは私の被害妄想かもしれない。
でも、とにかく恥ずかしい。
顔から火が出そうだ。
バレンタインの計画なんて、夢のまた夢。
私の財布は、完全に冬眠状態に突入しそうな予感だ。
結局、私は震える手でクレジットカードを差し出した。
一括払い。
分割なんて、もっと惨めになるだけだ。
カードをスキャンする音が、私の心臓の鼓動とシンクロしているようだった。
ああ、これが大人のバレンタインか。
子どもの頃は、板チョコ一枚あれば、無限の可能性が広がっていたというのに。
家に帰り、リビングのテーブルに材料を広げた。
普段、お菓子なんて作らない私を心配したのか、母が横から「あら、あんた、珍しいじゃない。
何かあったの?
」と覗き込む。
私は、無言でレシートを母に差し出した。
母は、それを見て「あらあら、まあまあ」と、なぜか楽しそうに笑っている。
「これ、もう2万超えてるわね。
これならデパートのチョコ買った方が安かったんじゃないの?
」
いや、まさにそれなんだよ。
でも、もう後には引けない。
私は、カツカレーのお会計を済ませてから、妙に真面目な顔で「お菓子作りには、夢と希望と、そしてそれなりの覚悟が必要なんだよ」なんて、おばちゃんに語りかけていた自分を思い出し、ふと笑いがこみ上げた。
あのおばちゃん、きっと私のことを変な子だと思っただろうな。
しかし、この失態を笑い話に昇華させるには、まだ課題が残っている。
そう、この材料たちを、きちんと「トリュフ」と「ブラウニー」に仕上げることだ。
しかも、ちゃんと美味しく。
そうでなければ、2万円近くを費やしたこのバレンタインは、ただの「無駄遣い」で終わってしまう。
それは、私のプライドが許さない。
私は、気合を入れ直して、動画サイトで見たパティシエのレシピ動画を再生した。
よし、まずはチョコレートを刻むところから。
丁寧に、丁寧に。
失敗は許されない。
キッチンにチョコレートの甘い香りが漂い始めた。
うん、悪くない。
ここからが本番だ。
私は、この「予想の1.5倍」「2万余裕で超える」バレンタインを、絶対に成功させてやる。
そう心に誓いながら、まずは湯煎の準備に取り掛かった。
ああ、そういえば、昔、熱中しすぎて鍋を焦がしたことがあったっけ。
あれも、今となってはいい思い出だ。
いや、今回の材料費を考えたら、絶対に焦がせないけど。
そう、これは、ただのお菓子作りじゃない。
2万円の投資、いや、私の夢と希望をかけた一大プロジェクトなのだ。
成果発表は、来週の職場。
ああ、今から胃が痛い。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

