夫婦円満は塩梅が肝心、看板に学ぶ人生のレシピ

📝 この記事のポイント

  • 久しぶりに料理をしたら、塩と砂糖を間違えて悲惨な結果になった。
  • 正確には、幼児向けのフレンチトーストを作ろうとして、卵液にたっぷりの塩を投入してしまったのだ。
  • 一口食べた妻が「これ、もしや海水のフレンチトースト? 」と眉間にしわを寄せ、隣で息子が「しょっぱい! 」と叫びながら口からペッと出した瞬間、自分の味覚の鈍さに戦慄した。

久しぶりに料理をしたら、塩と砂糖を間違えて悲惨な結果になった。

正確には、幼児向けのフレンチトーストを作ろうとして、卵液にたっぷりの塩を投入してしまったのだ。

一口食べた妻が「これ、もしや海水のフレンチトースト?

」と眉間にしわを寄せ、隣で息子が「しょっぱい!

」と叫びながら口からペッと出した瞬間、自分の味覚の鈍さに戦慄した。

どうやらここ数週間、妻がすべてを仕切っていたキッチンから遠ざかっていたせいで、調味料の位置すら怪しくなっていたらしい。

在宅勤務の合間に気分転換でも、と意気込んだのが裏目に出た、まさに「料理は科学、そして経験」を痛感する出来事だった。

そんな塩っぱい朝の出勤(もちろん在宅勤務なのでリビングまでだが)途中、いつもの散歩コースで見慣れない看板が目に飛び込んできた。

「ちょっとだけ自分のために生きてみる」。

どこぞの自己啓発セミナーか、はたまた新しいライフスタイル提案か。

サイズは街角の広告にしてはデカデカと、まるで高速道路の脇に立つ巨大看板のような存在感を放っている。

文字は妙に達筆で、下手なフォントを使うよりもかえって胡散臭い。

しかも、下部に小さく、本当に申し訳程度の文字で「株式会社アサヒビール」と書かれている。

え、ビール?

なるほど、そう来たか。

お酒を飲んで、日頃のストレスを忘れ、ちょっとだけ自分を解放しよう、というメッセージなのだろう。

しかし、この文言、なかなかどうして、結構な破壊力があるのではないか、と斜に構えてしまう。

特に、私のような30代既婚、幼児持ち、在宅勤務の男性にとっては、この「ちょっとだけ自分のために生きてみる」というフレーズが、諸刃の剣に見えてくるのだ。

だってこれ、もし夫婦喧嘩の最中に妻が「あなた、最近全然私を構ってくれない!

」と詰め寄ってきた時、私が「いや、俺だってちょっとだけ自分のために生きてるんだよ!

」なんて言おうものなら、それこそ離婚裁判の証拠として提出されかねない。

弁護士が「被告は自身の主張を正当化するため、街の広告文を引用し、自己中心的で家庭を顧みない態度を露呈しました」とか、法廷で読み上げかねないレベルのパンチラインである。

さらに悪用の危険性もはらんでいる。

例えば、友人が毎週のように趣味の麻雀に興じ、深夜に帰宅するたびに奥さんからチクチク言われているとする。

そこに私が「いや、彼はちょっとだけ自分のために生きてるだけだからさ、大目に見てやってよ」と援護射撃でもしようものなら、その友人夫婦の溝は深まるばかりだろう。

最悪、私のせいで家庭崩壊、なんてことになったら目も当てられない。

冗談抜きに、この看板、設置場所をもう少し考慮した方がいいんじゃないか。

例えば、独身寮の前に設置するとか、競馬場の入り口とか、もっとピンポイントな層に響く場所があるはずだ。

いや、競馬場の入り口だったら「ちょっとだけ自分のために馬券買ってみる」になって、それはそれで問題か。

でも、まあ、看板の意図するところは理解できる。

日々の忙しさの中で、自分の時間を持つことの大切さ。

特に在宅勤務だと、仕事とプライベートの境界線が曖昧になりがちで、気づけば「今日一日、一体何のために生きてたんだろう」とぼんやりしてしまう時がある。

そんな時、好きなことに没頭する時間は、精神の安定剤になり得る。

私の場合、それはかつてハマっていたプラモデルだったりする。

昔は寝る間も惜しんで作っていたガンプラ。

パーツを一つ一つ切り出し、やすりで磨き、塗装まで凝っていた時期もあった。

しかし、結婚し、子どもが生まれてからは、そんな悠長な時間はどこへやら。

リビングに散らばる子どものおもちゃを避けながら、狭い机の片隅でチマチマとパーツを組み立てる姿は、もはや「趣味」というより「密やかな抵抗」といった趣だった。

気づけば、塗装ブースは物置の奥深くにしまい込まれ、ニッパーも埃をかぶっていた。

そんなある日、たまたま見つけた昔の雑誌で、完成したガンプラの写真を見て、ふと手が伸びた。

リビングの隅で、子どもが寝た後の静寂の中、昔買ったまま積んでいたキットの箱を開ける。

パーツを切り出す「パチン」という音、ヤスリがプラスチックを削る「シャリシャリ」という音。

その一つ一つの動作が、妙に心地よかった。

そして、塗装まではできないまでも、組み立ててポーズを決めるだけでも、達成感がある。

何より、その作業中は、仕事のことや育児の悩みから完全に解放される。

そう、まさに「ちょっとだけ自分のために生きてみる」時間だ。

もちろん、妻に隠れてコソコソやっているわけではない。

「またガンダム作ってるの?

」「うん、ちょっとね」程度の会話は交わされる。

妻は「ふーん」と気のない返事をするけれど、特に咎めることもない。

きっと、夫が静かに集中している時間も、彼女にとっては「ちょっとだけ自分のために生きる」時間になっているのだろう。

息子が寝た後、夫婦それぞれが、ソファの端と端でスマホを見たり、本を読んだり、たまにはこうしてプラモデルを組み立てたり。

それは、それぞれが自分の領分を守りながら、ゆるやかに共存している証拠なのかもしれない。

最近は、プラモデルだけでなく、昔やっていたゲームを引っ張り出してくることもある。

あの頃はクリアできなかった難易度の高いRPGに再挑戦したり、対戦格闘ゲームで無心にコマンド入力を繰り返したり。

子どもの寝息をBGMにコントローラーを握る時間は、まるで学生時代に戻ったかのような感覚に陥る。

あの頃は無限にあった時間が、今は数時間だけしか許されない。

だからこそ、その限られた時間を最大限に楽しもうとする。

でも、この趣味の時間も、いつまで続くかは分からない。

またいつか、飽きてしまって、別の何かに興味が移るのかもしれない。

それが、人間というものだろう。

熱烈にハマっていたかと思えば、ある日突然、スイッチが切れたように全く興味を失ってしまう。

そして、何年か経って、またふとしたきっかけで再燃する。

まるで潮の満ち引きのように、私たちの心の中の「好き」もまた、寄せては返す波のように変化していく。

結局のところ、あの看板が伝えたいのは、特定の「趣味」や「娯楽」を推奨しているわけではないのだろう。

ただ、日々の生活の中で、自分をすり減らすばかりではなく、ほんの少しでもいいから、心を満たす時間を持つこと。

それが、結果的に周囲の人たちにも優しくなれる秘訣なのかもしれない。

塩と砂糖を間違えたフレンチトーストは、結局、泣く泣く廃棄となった。

しかし、そのおかげで、私はもう二度と調味料の配置を間違えることはないだろう。

そして、あの看板が教えてくれた「ちょっとだけ自分のために生きてみる」という言葉の、危うさと、そして深さ。

それは、まるで塩加減と砂糖加減を間違えないよう、人生のレシピを慎重に吟味するような、そんな教訓を私に与えてくれた。

家族という共同生活の中で、自分の時間をどう捻出し、どうバランスを取っていくか。

それは、甘すぎず、しょっぱすぎず、ちょうど良い塩梅を見つけるような、終わりのない挑戦なのだ。

今日も私は、リビングの片隅で、小さなプラモデルのパーツを切り出しながら、そんなことをぼんやりと考えている。

ビール片手に、ね。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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