📝 この記事のポイント
- 夜中にトイレに起きたら、廊下で猫と鉢合わせして両者固まった。
- お互い一瞬で思考停止したあの間が、なんとも言えず滑稽で、結局そこで目が冴えてしまった。
- それからというもの、一度目が覚めたら最後、私の脳内は宇宙旅行にでも出かけるかのように思考が飛び回り、羊を数えるどころか、むしろ羊たちが私の周りでディスコを始める始末。
夜中にトイレに起きたら、廊下で猫と鉢合わせして両者固まった。
お互い一瞬で思考停止したあの間が、なんとも言えず滑稽で、結局そこで目が冴えてしまった。
それからというもの、一度目が覚めたら最後、私の脳内は宇宙旅行にでも出かけるかのように思考が飛び回り、羊を数えるどころか、むしろ羊たちが私の周りでディスコを始める始末。
仕方なく、枕元に置いていたスマホを手に取って、何とはなしに画面をスクロールしていたら、ふと、とんでもない動画に行き当たったのだ。
「カリカリベーコンととろけるチョコのハーモニー!
新感覚スイーツ、チョコベーコン!
」…ほう。
画面の中では、こんがり焼けたベーコンの帯に、艶やかなチョコレートがとろりと溶けていく。
まるで、洋画に出てくるイケメン俳優が、甘い囁きとともにバラの花を差し出すような、そんな絵面。
いや、待て。
ベーコンだぞ。
塩気と脂身の塊だ。
そこにチョコ?
「甘じょっぱさがクセになる」とかいう謳い文句、聞いたことあるけれど、これは果たしてその範疇なのか。
私の脳内の「そんなまさか!
」という声と、「いや、しかし、物は試しというではないか」という好奇心が激しく衝突し、結果、深夜テンションの勢いに負けて、翌朝には試してみようと心に決めていた。
翌朝、庭のトマトに水をやりながら、昨夜の自分を少しばかり恥じた。
朝の光の下で見ると、スマホ画面越しのキラキラ感は鳴りを潜め、ただの「肉とチョコ」という、いささか危険な組み合わせにしか見えない。
それでも、一度決めたことはやり遂げたい性格が顔を出す。
午前中、ご近所の佐藤さんちの垣根の剪定を手伝いながら、世間話のついでに「ねぇ佐藤さん、ベーコンにチョコってどう思う?
」と聞いてみた。
「あら奥さん、また何か変わったものに挑戦するの?
フフ、奥さんらしいわねぇ」と笑われた。
佐藤さんとはもう三十年以上の付き合いで、私がこれまで試してきた数々の「好奇心料理」を知っている。
大根の葉っぱでふりかけ作ったり、干し芋を自家製で作ってみたり、はたまた庭で採れた梅で梅シロップじゃなくて梅ジャムに挑戦したり。
成功もあれば失敗もある、まさに人生の縮図だ。
「まぁ、何でもやってみないとわからないものね」と佐藤さんは言う。
その言葉に背中を押され、私はスーパーへと向かった。
スーパーでは、厚切りベーコンと、それから板チョコを一枚カゴに入れた。
レジで隣に並んでいた見知らぬおばあさんが、私のカゴの中身をじっと見て、「あら、お孫さんのおやつかしら?
」と微笑んだ。
「ええ、まぁ、そんな感じです」と曖昧に答えてしまった。
まさか、60代の私が、深夜に見た動画の影響で自分用に作ろうとしているとは、口が裂けても言えない。
でも、そのおばあさんの優しい笑顔に、なぜか心が和んだりする。
誰かに見られている、という意識は、時に人の行動にブレーキをかけるけれど、時に、ちょっとした言い訳を与えてくれるものなのかもしれない。
家に帰り着き、まずはベーコンをフライパンでカリカリになるまで焼いた。
ジュワッと脂が跳ねる音、香ばしい匂い。
これだけでもう美味しい。
この美味しさを、本当にチョコレートが邪魔しないのか?
疑念は膨らむばかりだ。
次に、湯煎でチョコレートを溶かす。
とろりとした茶色の液体は、それ単体では幸福の象徴なのに、なぜこんなにも不安を掻き立てるのだろう。
さあ、いよいよ実食の時だ。
カリカリに焼けたベーコンを皿に並べ、溶かしたチョコレートをスプーンでたらりとかける。
見た目は、なんだかちょっとおしゃれなフィンガーフードみたいだ。
期待と不安が入り混じった胸中で、一つ手に取り、ゆっくりと口に運ぶ。
……ん?
カリッとしたベーコンの歯ごたえ。
ジュワッと広がる塩気と脂の旨味。
その後に、ねっとりとした甘いチョコレートの風味が追いかけてくる。
……追いかける、というよりは、むしろ「追い抜いていく」感じ。
チョコレートの甘さが、ベーコンの塩気を完全に包み込み、そして飲み込んでいく。
口の中は、チョコレートに支配された。
ベーコンは、ただの食感と、微かな塩味のアクセントに成り下がっている。
これは、まさに「チョコ」が主役で、「ベーコン」は脇役、いや、エキストラだ。
期待していた「甘じょっぱさのハーモニー」は、どこへ行ったのか。
私の脳内では、「え、こんなもん?
」という正直な感想が、大きく木霊した。
まるで、楽しみにしていたテレビ番組の最終回が、期待外れの結末を迎えた時のような、あの脱力感。
正直なところ、期待していたような「新境地の味覚体験」ではなかった。
どちらかというと、チョコレートの圧勝、ベーコンは脇役にもなれていない、そんな印象。
なんだか、映画を観に行く前に、やたらと宣伝でハードルを上げられて、「これは傑作に違いない!
」と意気込んで観たら、あれ?
普通?
みたいな、あの感覚に近いかもしれない。
でも、不思議と、不味いわけじゃないのだ。
いや、正確に言えば、最初の衝撃と期待が大きすぎただけで、これはこれで「アリ」なのだ。
甘いものが苦手な人は無理だろうけれど、チョコレートが好きなら、カリカリとした食感が楽しめるチョコレート菓子、としてなら成立する。
ベーコンの塩気と旨味が、チョコレートの甘さを引き立てる、というよりは、チョコレートの甘さの奥に、時々「あ、ベーコン、いた」と顔を出す程度の存在感。
それは、まるで庭に生えている雑草のようなものだ。
頑張って抜いても抜いても、いつの間にか顔を出す。
でも、たまに、その健気さにちょっと感動したりもする。
そんな感じ。
この微妙な「悪くない」という感覚は、まるで人生のようだと、私はふと思った。
私たちは、常に何かを期待して生きている。
あの旅行はきっと素晴らしいだろう、あの新しいお店のランチは絶品に違いない、新しい洋服を着たら、もっと素敵になれるはず。
でも、実際に体験してみると、期待通りにいかないことのほうが多い。
旅行は雨だったり、お店のランチは普通だったり、洋服は似合わなかったり。
けれど、そこで「最悪!
」と投げ出すわけではない。
雨の旅行も、それなりに楽しかったり、普通のランチでも、誰かと一緒に食べることで美味しく感じたり、似合わない服でも、その失敗から新しい発見があったりする。
そう、結局のところ、人生なんて、常に期待と裏切りの連続で、その「裏切られた」と感じる瞬間の中から、意外な「悪くない」を見つけ出す作業なのかもしれない。
チョコベーコンは、私の期待を裏切った。
でも、それはそれで、ひとつの味の体験として、決して悪くはなかった。
むしろ、この「悪くない」という感覚こそが、この一皿の真髄なのかもしれない。
だって、もしこれが本当に「絶品!
人生が変わる!
」みたいな味だったら、それはそれでまた違う感動があっただろうけれど、こんな風に、しみじみと「うーん、悪くない」と呟くような、この控えめな感想こそが、日常の小さな発見としては、ちょうどいい塩梅なのだ。
夕方、庭で伸び放題になった雑草を抜きながら、ふと、チョコベーコンのことを思い出した。
雑草も、一見すると邪魔なだけれど、よく見ると小さな花を咲かせていたり、意外と根強く踏ん張っていたりして、なんだか愛おしくなる瞬間がある。
チョコベーコンも、きっとそういうものなのだろう。
この「悪くない」という感覚を、私は大切にしたい。
そして、また懲りずに、次の「物は試し」を探し始めるに違いない。
人生は、そんなものなのだから。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

