📝 この記事のポイント
- 休日の昼下がり、ソファで寝転んでいたら猫に顔を踏まれて目が覚めた。
- ゴロゴロと喉を鳴らす重みが、頬にじんわりと伝わってくる。
- そのまま数秒フリーズして、ようやく「あ、生きてる」と脳が覚醒した。
休日の昼下がり、ソファで寝転んでいたら猫に顔を踏まれて目が覚めた。
ゴロゴロと喉を鳴らす重みが、頬にじんわりと伝わってくる。
そのまま数秒フリーズして、ようやく「あ、生きてる」と脳が覚醒した。
猫がそこまでして起こすのは大抵、お腹が空いた時か、トイレが汚れている時だ。
今のところ、部屋に異臭は漂っていないから、おそらく前者だろう。
仕方ないな、と体勢を変えようとしたら、今度は足元で夫が「うぅ……」と呻いた。
彼はどうやら、猫に腹の上で寝られたままだ。
二人とも猫の下僕と化している我が家である。
キッチンへ向かい、猫の餌皿にご飯を盛る。
カリカリと音を立てて食べ始める猫の背中を眺めながら、熱いコーヒーを淹れた。
こういう時間があるから、フルタイムで働く日々もどうにか乗り切れている気がする。
マグカップを両手で温めつつ、ボーッと窓の外を眺めていたら、ふと、昔読んだ記事のことを思い出した。
あれは、まだ私が学生だった頃の話だから、もう20年近く前になるだろうか。
宇多田ヒカルがアメリカでデビューしようとしていた時期のことだ。
日本の音楽シーンでは圧倒的な存在感を放っていた彼女が、満を持して世界に打って出ようとしている、というニュースは、当時かなり話題になった。
私も当然、期待に胸を膨らませていたものだ。
何せ、あの宇多田ヒカルである。
世界でもきっと、あっという間にブレイクするに違いない、と。
ところが、デビューアルバムがリリースされる前だったか、後だったか、詳しい時期は忘れてしまったけれど、ある記事で衝撃的な内容を読んだ。
NYのマスタリングエンジニア、つまり彼女の音源を最終調整するプロ中のプロが、「彼女の歌はアメリカでは売れないだろう」と指摘していた、というのだ。
その理由がまた、妙に説得力があった。
「歌い出しが弱すぎる。
もっとパンチがなければ、リスナーはすぐに飽きてしまう」と、彼は言ったらしい。
当時の私は、「え、そうなの?
むしろあの、静かに引き込む感じがいいんじゃないの?
」と、勝手な反論を心の中で展開していた。
しかし、結果はどうだったか。
ご存知の通り、宇多田ヒカルのアメリカでの成功は、日本のそれとは比べ物にならないほど限定的だった。
結局、そのエンジニアの指摘は当たってしまったわけだ。
あの時、私は「プロの意見ってすごいな」と感心したのと同時に、「もしかして、日本の音楽って、結構特殊なのかも?
」と思った記憶がある。
私たちは、サビまでのじらしや、歌い出しの繊細な表現に美しさを見出すけれど、海外ではもっと即効性のある「掴み」が求められるのかもしれない。
それは音楽に限らず、あらゆる文化や消費行動にも言えることなのかもしれない。
人は往々にして、自分が良いと思ったものを人に勧めたがるけれど、それが必ずしも相手に響くとは限らない。
特に、ターゲット層が違うとなると、全く見当違いな結果になることもある。
あのエンジニアは、宇多田ヒカルの音楽そのものの良さを否定したわけではなく、アメリカ市場という特定の環境下での「売れ方」を冷静に分析しただけなのだ。
その視点、私には全くなかった。
自分の好きと、売れるは違う。
いや、当たり前か。
この話を思い出すたびに、私は自分の買い物の失敗談を連想してしまう。
特に最近、やってしまったのが、例の「キッチンスポンジ」だ。
ある日、デパートの雑貨売り場で、妙に惹かれるキッチンスポンジを見つけた。
いつも使っている100円ショップのカラフルなスポンジとは一線を画す、シックなグレー一色の、なんというか、やたらと佇まいが「おしゃれ」なやつ。
商品説明には、「水切れ抜群!
泡立ちも良く、耐久性にも優れています」とある。
さらに、よく見ると「抗菌加工済み」とまで書いてあるではないか。
これはもう、買わない理由がない。
値段は、いつものスポンジの約5倍。
それでも、この「おしゃれ」と「高機能」には代えられない、と、その時は思ったのだ。
レジに並びながら、今までの安物スポンジへの不満が頭の中で次々と湧いてきた。
すぐにへたるし、何だか清潔感がないし、そもそもキッチンの景観を損ねている……。
まるで自分が、これまで間違ったスポンジ人生を送ってきたかのように錯覚し、新しいスポンジが、私のキッチンライフを劇的に変えてくれると信じていた。
いそいそと家に帰り、早速新しいスポンジを水に濡らす。
おお、確かに泡立ちが良い。
そして、水切れも素晴らしい。
期待通りの使用感に、私は内心ガッツポーズをした。
これぞ、大人のキッチンスポンジ。
もう安物には戻れないわ、なんて気取ったことを考えたりもした。
しかし、一週間も経たないうちに、ある問題に直面する。
この「おしゃれ」なグレーのスポンジ、汚れが目立たないのだ。
いや、正確には、汚れが目立たないように「見える」だけ。
本当に汚れているのかどうか、パッと見では判断しにくい。
油汚れがこびりついていても、色がグレーだから、ちょっとわかりにくいのだ。
結局、私は「これ、そろそろ替え時かな?
」という直感が鈍り、いつもより長く同じスポンジを使い続けてしまうことになった。
そして、ある日ふと、スポンジの隙間から妙な黒ずみを発見した時、「ああ、これはもうダメだ」と、ようやく替える決心がついた。
結局、約5倍の値段を出して手に入れた「高機能でおしゃれなスポンジ」は、私にとって「汚れが見えにくいスポンジ」という、なんとも残念なアイテムになってしまったのだ。
これでは本末転倒である。
あの宇多田ヒカルのマスタリングエンジニアだったら、「このスポンジは、あなたの使い方には合わないだろう」と、バッサリ切り捨てていたに違いない。
他にも、似たような失敗は数知れない。
例えば、旅行先で衝動買いした、やたらと柄の派手なワンピース。
試着した時は、リゾート地の開放感も手伝って、「これしかない!
」と思ったのに、東京に帰ってきて着てみたら、どうにも浮いてしまう。
結局、年に一度あるかないかのビーチ旅行でしか袖を通していない。
普段使いできる服を一枚買う方が、よっぽど賢い買い物だった。
夫も夫で、趣味の釣りグッズで同じようなことをやらかしている。
先日、高価なルアーを嬉しそうに抱えて帰ってきたと思ったら、そのルアーが釣れる魚の種類は、近所の川には生息していないものだった、なんてことがあった。
彼もまた、自分の中の「欲しい」と「使える」のバランスが崩壊しがちな人間である。
こうして、振り返ってみると、私たちはプロの意見に耳を傾けるべきだった、と反省することしきりだ。
宇多田ヒカルの例は、まさにそれ。
その道のプロが、市場のニーズを的確に捉えて指摘してくれたのに、私たちは自分の「好き」や「思い込み」を優先して、結果的に失敗を経験している。
結局、あのキッチンスポンジは、最後まで使い切った。
なんだかんだで、水切れと泡立ちは本当に良かったし、捨てるにはもったいなかったからだ。
汚れているかどうかの判断は、匂いや手触りで確認するようにして、自分なりの使用法を確立した。
それはそれで、一つの「工夫」と言えるのかもしれない。
派手なワンピースも、今年の夏にまた着る機会があるだろう。
夫のルアーも、いつかどこかの遠征で日の目を見る日が来るのかもしれない。
私たちは、失敗から学びつつも、結局は自分の感覚と折り合いをつけながら生きている。
あのNYのエンジニアが指摘したように、確かに「売れる」ためには、それなりの戦略や分析が必要だ。
でも、私たちのような一般人の日常における「良い買い物」は、必ずしもプロの視点と一致するわけではない。
多少の失敗や、期待外れがあったとしても、最終的に「これでいいや」と納得できれば、それはそれで、悪くない買い物だった、と言えるのかもしれない。
休日の午後、淹れたてのコーヒーを啜りながら、そんなことをぼんやりと考えていると、また猫がソファの背もたれから顔を覗かせた。
今度は、私のマグカップに興味津々らしい。
私の日常もまた、プロの意見なんてお構いなしに、気まぐれな猫に振り回される、そんなもので出来ている。
それでいいのだ。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

