📝 この記事のポイント
- 自販機で買ったコーヒーが想像と違う味で、一口で後悔した。
- 特に期間限定とか、新発売とか書いてあるやつ。
- 妙に甘ったるかったり、薬草っぽい香りがしたり。
自販機で買ったコーヒーが想像と違う味で、一口で後悔した。
よくあることだ。
特に期間限定とか、新発売とか書いてあるやつ。
妙に甘ったるかったり、薬草っぽい香りがしたり。
今回は「深煎りミルクたっぷり」という文字に惹かれて買ったのに、届いたのは薄くて甘い、水っぽい液体だった。
一口飲んで、あ、これ失敗したな、と口の中で渋い顔をした。
春先のまだ少し肌寒い朝、ホッと一息つくつもりが、余計にテンションが下がってしまった。
こういう小さな誤算で、一日の出だしがちょっとだけズレる。
仕方なく、ぬるくなったそれを手に、私はパート先へと向かった。
職場に着くと、もう更衣室は賑やかだった。
みんな入れ替わり立ち替わり、休憩室の話題は尽きない。
私はロッカーに荷物を入れ、いつもの割烹着を羽織る。
今日は火曜日。
週の真ん中、ちょっと疲れが出てくる頃だ。
パート先の飲食店では、外国人スタッフも何人か働いている。
彼らとの会話は、日常にちょっとしたスパイスを与えてくれる。
特にアイルランド出身のリアムさんとは、なぜかよく日本語談義になる。
彼は日本語がとても上手で、普段の接客で困っている様子はあまり見られない。
だけど、時々、深い沼にハマったカエルのように、ため息をつくことがある。
「あのね、ユカさん。日本語の『ない』、難しすぎるんじゃない?」
休憩時間、彼はいつもより眉間にしわを寄せながら、カツサンドをもぐもぐしていた。
今日のカツサンドは、近所のパン屋さんの限定品で、私も狙っていたやつだ。
彼は私の分も買っておいてくれたらしい。
なんていい人だ。
私は感謝の念を込めてカツサンドを受け取った。
「え、ない? 普通じゃない?」
私はいつものように曖昧に答えた。いや、普通じゃないんだろうな、きっと。自分の日本語を疑ったことはないけれど、改めて問われると、自信はない。
「だってさ、例えば『食べない』でしょ? 『行かない』でしょ? でも、『ある』は『ない』なのに、『来る』は『来ない』でしょ?『する』は『しない』。なんか、全然ルールがないように見えるんだよ!」
リアムさんは熱弁をふるう。
彼の言っていることは、ものすごくよく分かる。
日本語を母国語とする私たちが、感覚的に使っている活用形が、彼らにとっては摩訶不思議なルールに見えるのだろう。
私も英語の不規則動詞で同じような目に遭っているから、痛いほど気持ちが分かる。
「Go Went Gone」「See Saw Seen」いや、もう、なんで「Go Goed Goed」じゃないんだよ!
と何度叫んだことか。
リアムさんのカツサンドを頬張りながら、私は深く頷いた。
「いや、うん、わかる。
確かにね。
でも、普段はあんまり意識しないからなぁ」
「それが問題なんだよ!
みんな意識してないから、誰も説明できないんだ!
この前、店長に聞いたら、『うーん、そういうもんだから』って言われたよ!
店長らしいな、と私は苦笑した。
店長は料理の腕は一流だけど、説明はいつもザックリしている。
リアムさんが気の毒だ。
でも、本当に「そういうもんだから」としか言いようがない気がする。
私も、もしリアムさんに「なんで『Go』の過去形は『Went』なの?
」と聞かれたら、「そういうもんだから」としか答えられない自信がある。
「じゃあさ、『しない』の過去は『しなかった』でしょ?
でも、『食べる』は『食べない』で、『食べなかった』。
ここまではいい。
でも、『ある』は『ない』で、『なかった』。
ここは『あるなかった』じゃないんだよ!
なんで!
リアムさんはもうほとんど半泣きだ。
いや、本当に彼の言っていることは正しい。
というか、私たち日本人が感覚で乗り切っている部分を、彼は論理的に攻めてきている。
私も改めて日本語の否定形を整理してみると、あまりの複雑さに目眩がした。
まるで、子供の頃に遊んだ積み木が、実はものすごく複雑なパズルのピースだった、と知ったような衝撃だ。
「えーとね、それはね…」
私も言葉に詰まった。
だって、本当にどう説明したらいいのか分からないのだ。
これが「五段活用」とか「上一段活用」とか、学校で習った文法ルールなのは知っている。
でも、それをリアムさんのように、感覚ではなく論理で理解しようとしている人間に、どう伝えればいいのだろう。
まるで、自転車に乗れない人に、「どうやってバランスを取ってるの?
」と聞かれて、「うーん、なんとなく?
」と答えるようなものだ。
乗れる人にとっては当たり前すぎて、言語化できない。
「私も、正直、文法をちゃんと説明できるかって言われたら…自信ないよ」
正直に白状すると、リアムさんは少しだけ呆れた顔をした。でも、すぐにいつもの優しい笑顔に戻った。
「ユカさんも?
じゃあ、僕だけじゃないんだね。
なんか、少し安心したよ」
「うん、私たちは感覚で使い分けてるだけだから。
習うより慣れろ、みたいな?
」
「なるほどね。
そうだよな。
彼はもう日本に3年住んでいる。
私たちが当たり前のように使っている言葉を、日々耳にし、実際に使っているのだ。
それでも、こうして躓くポイントがある。
それはつまり、日本語の奥深さ、そして私たち日本人がどれだけ無意識に複雑なシステムを使いこなしているか、ということの証明だろう。
休憩時間が終わり、午後のパートが始まった。
私は洗い場担当。
洗い物が溜まっていくスピードが、いつもより早く感じる。
春先に増える花粉のせいか、ちょっと頭がボーッとする。
鼻がムズムズして、くしゃみを我慢しながら皿を洗う。
熱いお湯と洗剤の泡が、少しだけ気分をリフレッシュさせてくれる。
午後のシフトは、いつもより体が重い。
昨日息子と縄跳び対決をしたせいかもしれない。
息子は中学生なのに、いまだに縄跳びが好きで、私を誘ってくる。
張り切って二重跳びなんか披露してみたら、足がもつれて派手に転んでしまった。
そのせいで、お尻と膝がちょっと痛い。
息子は笑い転げていたけれど、まさか今日のパートにまで影響するとは。
年々、体の回復が遅くなっているのを実感する。
ああ、これも「年を取った」という否定形なのかもしれない。
いや、「取らない」はずだったのに。
ふと、またリアムさんの話が頭をよぎる。
彼はいつも、日本語の新しい発見をするたびに、目を輝かせる。
それは、私たちが普段、当たり前すぎて見過ごしている世界だ。
例えば、「結構です」という言葉。
「これはどうされますか?
」「結構です。
」
これは「いりません」という意味だ。
でも、「この料理、美味しいですか?
」「結構です!
」
これは「美味しいです」という意味になる。
この両極端な意味を持つ言葉を、どうやって彼は理解しているのだろう。
おそらく、文脈と表情、そしてイントネーションで判断しているのだろう。
まさに神業だ。
私も英語を勉強する時、同じような壁にぶつかる。
「Take it easy.」これは「気楽にね」という意味だったり、「お大事に」という意味だったり。
「How do you do?」は「はじめまして」なのに、なぜか「How are you?」と答える、とか。
いや、もう、なんで?
としか言いようがない。
だから、リアムさんが日本語の複雑さに直面するたびに、私は彼に心の中でエールを送る。
頑張れ、リアムさん。
その道の先に、きっと何かが見えるはずだ。
でも、考えてみれば、私たちも日頃から無意識にそうした言葉の機微を捉えている。
「彼、ちょっとないわー」これは「論外だ」という否定的な意味だ。
「この時期の夕焼けは、もうないよね」これは「最高だ」という肯定的な意味になる。
日本語って、本当に厄介だ。
そして、面白い。
リアムさんの話を聞いて、改めて自分の使っている言葉に意識が向く。
そういえば、先日も息子のことでちょっとした「ない」問題が勃発した。
「ねえ、ママ。
明日のお弁当、唐揚げ『ない』?
」
息子が言う「唐揚げない?
」は、「唐揚げ作ってくれる?
」という肯定的な願望だ。
私は一瞬、「唐揚げは作らないよ」と否定されたのかと思ってギョッとした。
「え?
唐揚げは無しってこと?
」
「ちがうよ!
唐揚げ食べたいってこと!
」
息子はもう呆れていた。
ああ、これもリアムさんが言う「ない」の迷宮だ。
私たちは日常的に、こうして言葉の裏側にある意図を読み取り、コミュニケーションを取っている。
改めて考えると、すごいことだ。
仕事終わり、ロッカールームでエプロンをたたむ。
今日一日、なんだか頭の中が「ない」でいっぱいだった。
そういえば、朝のコーヒーも、私が期待していた「深煎りミルクたっぷり」では「ない」味だった。
それは「薄くて甘い水っぽい」味だった。
でも、一口飲んで後悔はしたけれど、最後まで飲み干した。
捨てるのはもったいない、という貧乏性が発動したのだ。
それはそれで、「ない」もの(期待していた味)を受け入れ、「ある」もの(手元にあるコーヒー)を享受した、という肯定的な行動だったのかもしれない。
明日、リアムさんに会ったら、今度は「結構です」について聞いてみようかな。
彼はどんな顔をするだろう。
きっと、また眉間にしわを寄せて、深いため息をつくかもしれない。
でも、そんな彼を見ていると、なんだか元気が出る。
私は、相変わらず自分の使う日本語を論理的に説明することはできないだろう。
だけど、リアムさんが日本語の沼にハマり、もがきながらも楽しんでいる姿は、私に新しい視点を与えてくれる。
私たち日本人だって、きっと「ない」ことを知らずに、「ない」ことを楽しんでいるんだ。
そんなことを考えながら、私は春の少し冷たい風が吹く道を、家路についた。
明日は美味しいコーヒーを淹れよう。
絶対、想像通りの味のやつを。
💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。


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