歯医者の冷や汗と、息子の61万と、商店街の八百屋

📝 この記事のポイント

  • 歯医者の予約をすっぽかして、受付から確認電話がきて冷や汗をかいた。
  • 午前の早い時間だったから、きっと僕が最初のすっぽかし客だったに違いない。
  • 「あ、すみません! てっきり来週かと…」と寝ぼけた頭で言い訳をひねり出すも、向こうの冷静な「はい、本日午前10時のご予約でした」という声に、顔から火が出る思いだった。

歯医者の予約をすっぽかして、受付から確認電話がきて冷や汗をかいた。

午前の早い時間だったから、きっと僕が最初のすっぽかし客だったに違いない。

「あ、すみません!

てっきり来週かと…」と寝ぼけた頭で言い訳をひねり出すも、向こうの冷静な「はい、本日午前10時のご予約でした」という声に、顔から火が出る思いだった。

ああ、もう今週のスーパーの特売情報は頭に入ってこない。

人間、急な恥ずかしさに見舞われると、脳の容量が一気に縮小するらしい。

そんな風に、朝からポンコツぶりを発揮してしまった僕は、気を取り直して洗濯機を回した。

カラフルな子供服と、なんだか分からないけれどやたらと繊維が絡みつく大人の靴下。

それらがぐるぐると回るのを眺めながら、ふと、昨日妻が食卓で言った「ねえ、携帯代、なんかおかしくない?

」という言葉を思い出した。

なんでも、いつもより請求額が多いらしい。

僕は普段から家計を妻に任せきりなので、「あー、また何かサブスクが増えたんじゃない?

この間試してた動画配信とか」なんて、気楽に相槌を打っていたのだけれど、まさかそれが嵐の前の静けさだったとは、当時の僕は知る由もなかった。

昼下がりの商店街は、いつものようにまったりとした空気が流れていた。

八百屋のおじさんが、店先に並べられた山盛りのキャベツを「今朝採れだよ!

」と声高に宣伝している。

その隣の精肉店からは、コロッケを揚げる香ばしい匂いが漂ってくる。

僕は、いつもの習慣で八百屋のおじさんに「お、今日も元気ですね!

」と声をかけ、おじさんは満面の笑みで「兄ちゃんもね!

」と返してくれる。

こういう、何気ないやり取りが、妻の実家の近くに住むようになってからの僕の日常には欠かせない。

都会の喧騒から離れて、この街の人はみんな顔見知りだ。

ちょっとした噂話や、最近あった面白い出来事を共有しながら、ゆるやかな繋がりの中で生きている。

今日も、レジで隣になった見知らぬおばあちゃんが、僕が買おうとしている大根を指して「これはね、おでんにすると美味しいよ」なんて教えてくれたりする。

そういう瞬間、「ああ、いいところに引っ越してきたな」と心から思うのだ。

しかし、そんなのんびりした気分も、家に帰って携帯の請求書を見た瞬間に、木っ端微塵に砕け散った。

なんと、請求額が「61万円」だったのだ。

妻が青い顔で、震える声で「これ、一体どういうこと…?

」と僕に尋ねる。

僕も最初は、何かの間違いだろうと思った。

銀行の残高照会アプリを開いてみるが、特に身に覚えのない引き落としはない。

まさか、詐欺?

いや、キャリアからの正規の請求書だ。

目を皿のようにして明細を辿ると、そこには見慣れないゲームアプリの名前がずらりと並んでいた。

そして、課金、課金、課金。

しかも、ほとんどが「キャリア決済」だ。

残高がなくても利用できるという、あの便利なはずの機能が、まさかこんな落とし穴になるとは。

犯人は、小学四年生の息子だった。

彼は僕の古いタブレットを使って、よくゲームをしていた。

そのタブレットには、僕が使っていた頃の名残で、キャリア決済の設定が残っていたらしい。

僕はてっきり、残高がなければ使えないものだとばかり思い込んでいたので、まさかこんなことになるとは夢にも思わなかった。

息子を問い詰める。

「これ、お父さんの携帯代だよ。

こんなにたくさん使ったの、知ってた?

」息子はきょとんとした顔で、「わからん」と一言。

本当にわかっていないのか、とぼけているのか。

僕には判断がつかなかった。

ただ、彼の顔には悪意のようなものは微塵もなく、ただただ困惑の色が浮かんでいるように見えた。

期待していたのは、せいぜい数千円の追加請求だったのに、まさかの61万円。

僕の心は、完全に裏切られた気持ちでいっぱいだった。

その夜、夕食はほとんど喉を通らなかった。

妻と僕は、どうすればいいのか途方に暮れた。

息子は、僕たちが真剣な顔で話し込んでいるのを見て、なんとなく空気を察したのか、いつもよりおとなしく自分の部屋で遊んでいた。

食後のデザートは、近所のケーキ屋で買ってきたモンブランだったけれど、いつもなら一番乗りでフォークを突っ込む僕が、まるで石のように固まってしまっている。

妻がそっと僕の肩を叩き、「まあ、人生いろいろあるよね」と、どこか諦めにも似た、でも優しい声で言った。

その一言が、妙に心に響いた。

そうだ、人生、何が起こるかわからない。

翌日、僕は意を決してキャリアのサポートセンターに電話をした。

事の経緯を説明すると、オペレーターの女性は「お子様のご利用ですね」と慣れた口調で対応してくれた。

どうやら、同じようなケースが少なくないらしい。

一部は返金対応が可能かもしれないとのこと。

ただ、すべてではない。

息子が使ったアプリの運営会社にも連絡を取る必要があると言われた。

僕はその日一日、電話とメールのやり取りに追われた。

ああ、歯医者の予約をすっぽかしたことなんて、もうはるか昔の出来事のように思える。

そんな僕の憔悴しきった顔を見て、隣のおばあちゃんが庭の手入れをしながら「どうしたの、兄ちゃん。

元気ないじゃない」と声をかけてくれた。

僕は苦笑いしながら「いやあ、ちょっとね…」と濁した。

ここで61万円の話をするのは、さすがに気が引ける。

するとおばあちゃんは、「人生、山あり谷ありだよ。

でもね、谷があるからこそ、山の景色が綺麗に見えるもんなんだよ」と、朗らかな声で笑った。

その言葉が、妙に僕の心に染み渡った。

そうだ、もしかしたらこの61万円の谷は、僕にとって何か新しい景色を見せてくれる山への入り口なのかもしれない。

息子が「わからん」と言った言葉を、僕はもう一度考えてみた。

本当に彼はわかっていなかったのかもしれない。

お金という概念が、まだ彼の中では漠然としたものなのだろう。

ゲームの中で「ポチッ」と押す行為が、現実世界でこれほど大きな金額に繋がることを、小学四年生の彼が想像できたとは到底思えない。

それは、僕の教育不足であり、管理不足だ。

そう考えると、怒りよりも、むしろ情けなさや、反省の念が込み上げてきた。

それから数日間、僕は息子と毎日、お金の話をするようになった。

お小遣いの使い方、お菓子の値段、スーパーで買ったもののレシートを見せながら、この一品がどれだけのお金で買えるのか。

最初は面倒くさそうに聞いていた息子も、だんだん興味を持ち始めたようだった。

「え、このジュース、百円もするの!

」と驚いたり、「お父さんの会社のお金って、どうやって増えるの?

」なんて、突拍子もない質問をしてきたり。

その小さな変化が、僕にとっては少しだけ嬉しかった。

結局、全額の返金は難しかったけれど、かなりの額をキャリアとアプリ運営会社が対応してくれた。

それでも残った金額は、僕にとって決して小さくない。

けれど、今回のことで息子がお金について考えるきっかけになったこと、そして僕自身が、もっと子供と向き合わなければいけないと気づかされたことを思えば、ある意味、これも必要経費だったのかもしれない、なんて、都合の良い解釈をしてしまっている自分がいる。

人生は本当に、期待を裏切られることの連続だ。

歯医者の予約を忘れたり、息子の携帯代が61万円だったり。

でも、その裏切りが、意外な発見や、新しい視点を与えてくれることもある。

商店街で出会う人々の温かさや、おばあちゃんの何気ない一言に救われたり、息子との会話が増えたり。

完璧な計画通りに進むことなんて、きっと一生のうちに一度もない。

夕方、ベランダで洗濯物を取り込んでいると、西の空がオレンジ色に染まっていた。

乾いたタオルの匂いを嗅ぎながら、僕はふと思った。

明日、八百屋のおじさんにはなんて話そうかな。

いや、別に話さなくてもいいか。

ただ「今日はキャベツが安いね!

」とでも言って、いつものように笑えばいい。

人生、そんなもんだ。

なんとかなるさ、と風に吹かれながら、僕は小さくため息をついた。

そして、そのため息は、どこか晴れやかなものだった気がする。


💡 このエッセイは、Togetterの話題から着想を得て、2026年の視点で書かれた創作記事です。

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